恋慕箱・パンドラハニー
健児達が中に入るのと、城内の灯りが一斉に点いて玄関ホールが暖かい光に包まれた事、そしてその城の奥から悲鳴と怒号が聞こえてきたのは、ほぼ同時だった。
「暫しお待ちを。まずはこちらの問題を片づけますので」
「なに? どうしたの?」
雅の意識は声の方に向けられた。肩を丸め、怯えた視線を周囲に送る。健児はキャサリンがホール内の照明に魔力を送り込んだ自身の右手を降ろすのを見ながら、彼女に声をかけた。
「さっきのは?」
「大丈夫。神器に中てられた魔物が暴れているだけです」
「神器? 俺達は何も聞いてないぞ」
キャサリンの言葉を聞いた健児が眉をしかめる。キャサリンは申し訳なさそうな表情を浮かべ、そのまま彼の方を見てそれに答えた。
「つい最近まで、それが神器だと言うことに気づかなかったのです。それこそ我々全員、それはただの箱だと思っていたんですよ」
「最近まで? じゃあ今ではもう神器だってわかってたんだな」
「はい。でもわかったときはもう手遅れでした」
「どうして?」
「持ち主と一体化したから」
キャサリンがそこまで言った直後、ホールの左にあった扉が盛大に吹き飛んだ。火花と爆音が轟き、扉の奥から吐き出された灰煙がホールの中へ進入していく。
そしてその煙を体に巻き付け、ただの木片と化した扉の残骸を踏みにじりながら、一体の魔物が姿を現した。それを見た健児達は目を丸くした。
「なんだあれ」
「あんなの見たことない」
健児が呆然と呟き、志帆が彼と同じ表情を浮かべて言った。雅は恐怖と驚愕のあまり声も出せなかった。あんなもの見たことない。三人の目は揃って同じ事を語っていた。
そんな健児達の見ていた「それ」を視界に納めながら、キャサリンが静かに告げた。
「あれがその融合体、なれの果てです」
彼らの眼前には、馬の頭を生やした筋骨隆々な魔物が立っていた。目は爛々と赤く輝き、筋肉質のがっしりとした体躯を青銅の鎧で覆い、その手には槍が握られていた。
そしてその腰から下は箱になっていた。飾り気のない、汚れ一つない真っ白な箱の上面から、その半人半馬の魔物の上半身が生えていたとも言えた。下半身を箱と合体させたその馬の魔物は箱ごと宙に浮き、必死そうに首を回しては赤く光る目でもって周囲を見渡した。
「まさか、あの箱が?」
その浮遊する魔物を見ながら健児が問いかける。キャサリンは頷き、「最初はあんなサイズじゃ無かったのですが」と言った後で言葉を続けた。
「最初は手のひらサイズの小さな箱でした。真っ白い、何の変哲もない小さな箱です。そしてそれを見つけたのが、あの馬の魔物です」
「箱と合体してる?」
「そうです。彼はその自分が見つけた箱を、見つけたその日から大層大事にしていました。彼はまるで自分の恋人と接するかのように箱とふれあい、惜しみない愛情を注いでいきました。そしてそれは日を追うごとにエスカレートしていった。ついには誰かが少し箱に触れただけで、目を真っ赤にして武器を手に取り、本気で相手を殺そうとするかのように激昂するようになりました」
「なんだそれ。ジェラシー?」
「そうとも言えるでしょうね。ともかく、その時の彼の箱への執着は、もはや病的とすら言えました」
「その時点でおかしいとは思わなかったのかよ」
健児の問いかけに同意するように、志帆と雅も揃って首を縦に振る。キャサリンはため息をつき、彼らの一歩前に出ながらそれに答えた。
「もちろん常軌を逸しているとは思いました。実際、それを怪しんだ私の部下の一人が、彼の前に立ってそれを咎めようとしました」
「そうしたらどうなったの?」
志帆が尋ねる。箱と融合した馬がキャサリンを見据える。地獄の業火のように燃える赤い瞳を細め、かつての主を睨みつける。
馬が吠える。キャサリンを睨んだまま雄叫びをあげる。
その怒声は殺意に満ちていた。
「その者はあの馬の者の手にかかり、その場で縦に切り裂かれました」
キャサリンが志帆の問いに答える。刹那、馬がキャサリンの眼前に迫る。
「え」
「はや」
一瞬の出来事だった。不意打ちだった。瞬きする間もなかった。
キャサリンの眼前で箱馬が槍を振り上げる。両手に力を込め、死神の頭をかち割らんとそれを振り下ろす。
健児達は反応できなかった。まるでメデューサに見つめられたように、意識も体も石のように固まって動けなかった。
キャサリンには全て「見えていた」。
「遅い」
死神が箱馬の一撃を受け止める。穂先が頭頂部に達する寸前の所で、キャサリンはその槍を片手でがっしりと握りしめていた。
そこで健児達の呪いが解ける。意識が状況に追いつき、目の前の光景を見て志帆が叫ぶ。
「母様!」
「任せて」
前を向いたままキャサリンがそれに答える。そしてキャサリンは馬を睨み返しながら槍を持つ腕に力を込め、それを馬から奪い取る。
前に強く引っ張られた馬が姿勢を崩す。
「ふん!」
キャサリンがそうして前のめりになった箱馬の「箱」の部分を蹴り飛ばす。馬が後ろに吹き飛ばされ、ある程度離れたところで体勢を元に戻す。
それを見ながらキャサリンが槍を両手で持つ。
「同胞を八つ裂きにした彼は、問答無用で捕らえられました。そしてそのまま牢屋に入れられた」
槍をへし折り、それを投げ捨てる。
「箱もその時没収しました。箱を奪われた彼は、完全に理性を無くしたかのように暴れ狂いました。屈強な同士が五人がかりで抑えなければならないほどに、彼は我を忘れて箱を返せと叫んだ」
キャサリンが自分から馬と距離を詰める。箱馬はその場に留まり、死神の到来を待ち構える。
「牢屋に入れられた彼は最初は暴れましたが、暫くするとそれまでの騒ぎが嘘のようにおとなしくなりました。そしてその間、我々はその箱を初めて徹底的に調べることにしました」
死神と馬が近づいていく。互いの影が重なる。馬が右手で殴りかかる。死神はその拳を掴み、空いた方の手で馬の腹を殴る。
「それが神器とわかったのは昨日のことです。そしてヒイラギの皆さんに伝えるまで、これは厳重に管理しなければならないと我々は結論を下しました」
死神の拳が何度も箱馬のわき腹に突き刺さる。キャサリンの台詞に被さるように鈍い音が響く。しかしキャサリンは説明も殴打も止めなかった。
「箱を! 金庫に! 入れて! さらにその金庫を厳重に! 封印! したァ!」
最後の一撃を馬の顔面に叩き込む。馬が口から血と前歯を吐き出し、悲鳴を上げながら顔を逸らす。
「しかし四日前、箱と馬は同時に、忽然と姿を消した!」
キャサリンが馬の頭を掴む。その目は殺意に満ちていた。
「お前どこに行ってたんだァ!? あァ!?」
両手で挟むように側頭部を持ち、馬の赤い瞳を覗き込みながらキャサリンが叫ぶ。そして相手の返答も待たずに、前に突き出された鼻柱に頭突きをお見舞いする。
「ギィ……ッ!」
馬が今までで一番悲痛な声を上げる。鈍い衝撃が死神の額に走る。キャサリンはすぐさま手を離して馬を解放する。馬は激痛にのたうち、鼻を手で押さえながらもはや言葉にすらなっていない呻き声をあげ続ける。
その一部始終を見た健児は痛々しそうに顔をしかめていた。志帆は呆れた表情を浮かべ、雅は唖然としていた。
一方でそれを見ながら、キャサリンが一度深呼吸をする。そして気持ちを落ち着けた後、いつもの口調に戻って言った。
「……そして今日になって、あのような形になって再び現れた。我々はその対策をしていたのです」
言い終えると同時にキャサリンが前に跳ぶ。空中で素早く体を捻り、その馬の顔面に回し蹴りを食らわせる。馬はそれをまともに食らい、か細い悲鳴を上げながら横倒しになった。
箱が地面に落ち、続けて馬の体が床に激突する。その馬のすぐ前に着地したキャサリンは即座に背中に手を回し、何もない空間から姿を現した大鎌を片手で掴む。
「あなた方がここに来たのは予想外でしたけどね」
キャサリンが鎌を両手で持ち直し、狙いを馬に定めて大きく振り回す。刃が青白く光り、床をこするように三日月の軌跡が描かれる。そして軌跡が消えると同時に、馬の腹が吹き飛ぶように真っ二つに切断される。
断面から赤い血が噴き出し、馬が絶叫を上げる。血の噴水を見た雅が小さく悲鳴を上げ、健児がその体を抱き留める。馬の口からも血がまき散らされ、それの飛沫がキャサリンの頬に命中する。
上半身と下半身を切り離された後も、馬は暫くの間悶え続けていた。死神は何も言わず、鎌を持ったままそれを見下ろしていた。
馬が完全に沈黙したのは、それから三十秒ほど経った後のことだった。動く事もなくなり、口と目をだらしなく開けたまま魂を刈り取られたその死骸をじっと見つめるキャサリンに、健児が控えめな調子で尋ねた。
「迷惑だったか?」
そこでキャサリンが馬に背を向け、彼らに向き直る。ホールにある扉が一斉に開き、そこかしこから様々な姿をした魔族がどっとホールになだれ込む。彼らは健児達とキャサリンの事を努めて無視し、自分達の仕事に取りかかった。
そして彼らを横目で見た後で鎌から手を離し、宙に浮くそれが眼前で青い炎に包まれるのを見ながら、キャサリンがそれに答えた。
「まさか。いついかなる時でも、私は来客は歓迎しますよ。それが際立って無礼な人でない場合はね」
娘が一緒ならばなおさらです。目の前で燃え尽き、炎と共に消滅した鎌の姿を見届けた後、キャサリンはそう言いながら志帆の方に目を向けた。それから彼女は頬についた血痕を腕で拭い、さらに腕についたそれを舐め取りながら彼らの元に歩み寄る。そして健児達と合流した後、キャサリンは視野を彼ら全員に広げて言った。
「それで、今日はどんな御用で来たのですか?」
「ああ、実はな」
それから健児はここに来た目的を彼女に告げた。彼らの周りでは魔族がなおも作業を続けていた。鶏頭の魔族の一団がクリップボードに挟んだ紙に何かを書き込む一方で、豚頭の別の魔族がタンクを背負い、それと繋がったホースの先端から霧のような物質をホール中にまき散らしていた。二つの尾を持つ六本足の犬は鼻を動かしながらホールを駆けめぐり、異常が無いか確認していた。
そんな中で健児からの説明を聞き終えたキャサリンは、周囲の魔族の喧噪を無視しながら納得したように頷いて言った。
「なるほど、あなた達も神器絡みでここまで来たということですね」
「こっちでも神器のトラブルは起きてるんですか?」
雅が弱々しい声でキャサリンに問いかける。健児に寄りかかるような格好で辛うじて立っていた彼女の顔は青ざめ、口元を手で押さえていた。
キャサリンはそれに答える前に、そんな雅の体調の方に関心を向けた。それについては「お前があいつを血祭りに上げたからだ」と雅に代わって健児が説明し、続けて健児は死神に「やりすぎだ」とも言った。
キャサリンは渋い顔を浮かべた。自らの非を認め、雅に対して負い目を感じたがための表情だった。
「ごめんなさい。魔物は人間と比べて生命力が高いから、確実に息の根を止めないといけなかったのですよ」
「そ、そうなんですか」
「でもショックを与えてしまったことについては謝ります。ごめんなさい」
素直にキャサリンが頭を下げる。雅はそれに対して何かを言おうとして、そこでまた口を手で強く押さえる。それを見た健児は「雅の質問に答えてやってくれ」と返し、キャサリンは自ら始末した箱馬が自分の配下によって布にくるまれて運び出されていくのを肩越しに見た後で、再び彼らに向き直ってそれに答えた。
「正直に言って、まさにその通りです。神器に悩まされているのはヘンディミオも同様なのです。そして神器に翻弄されているのは人間だけではない。魔族も同じように煮え湯を飲まされているのです」
「それはしょっちゅうなんですか?」
「毎日起きているわけではありませんが、それでも頻度は高い方だと思いますね。レッツィー!」
そこでキャサリンが不意に顔を横に逸らし、健児達とは異なる誰かに声をかける。名前を呼ばれたその鶏頭の魔族の一人はそれまでいた集団から離れ、クリップボードを持ったままそそくさとキャサリンの元へ向かった。
「お呼びでしょうか、キャサリン様」
「忙しいところ申し訳ありませんレッツィー。実はこの一ヶ月の間に、ヘンディミオでどれだけ神器絡みの事件が起きたのかを教えていただきたいのです」
「この一ヶ月でですか? わかりました、少々お待ちを」
レッツィーと呼ばれたその魔族は、キャサリンの言葉に応じてクリップボードに挟まれた紙をペラペラとめくり始めた。雅はその鶏頭の魔族の持つ、外に突き出た丸い目を興味深げに見つめていた。
白い半球の中心にぽつんと置かれた黒点が、文章を読みとるためにせわしなく動く。さらに目の動きに連動するかのように、頭の真っ赤なとさかや前に突き出た嘴もぱくぱくと動く。
その一連の動作はどこか間抜けで愛嬌があって、雅はその鶏を素直に可愛いと思った。
「ああ、ここにいたんですね」
玄関側から声が聞こえてきたのは、まさにその時だった。健児達はそちらに目を向け、そしてそこに自分達の良く知る顔ぶれがいることに気づいて安堵のため息をついた。
「皆してこっちに来たのか」
「お前達が一番寄る確率の高そうな場所を選んで探すつもりだったんだけどな。一発目で大当たりだ」
健児の言葉にギャレンが答える。彼の隣にいたケイトは「心配したんだぞ」と腕を組みながら声を放ち、幸子は「そうですよ。心配したんですからね」とそれに同意しながら、肩からかけたバッグの中から酒瓶を取り出してそれを一気飲みし始めた。背中に背負ったバッグは既に萎みきっており、肩からかけていたバッグも殆ど膨らみが無くなっていた。
「本当に心配していたのですか?」
「失敬ですね。私はいつだって本気なんですよ」
その酒飲みの光景を見たキャサリンが呆れた声を放つ。幸子は半分中身の無くなった酒瓶から口を放し、口の端から酒を漏らしながら答える。説得力は全く無かった。
「まあまあ、皆さんそう慌てないで。それよりせっかくですから、ここは全員で話をしようじゃありませんか」
その時、レッツィーが彼らに間に入って声をかける。その鶏頭の魔族はそれからキャサリンの方を向いて「調査の方も完了しております」と付け足すように告げた。
「それとここで立ち話もあれなので、どこか別の所でお話しをしたいとも思うのですが……」
「……そうですね」
レッツィーが続けて提案を述べる。キャサリンは肩から力を抜き、それに同意した。そして次に彼女は新たにやってきたギャレン達に視線を向け、彼らにレッツィーの提案をそのまま言った。
「もちろん。ご一緒しても?」
ギャレンはその提案を快く受け入れた。ケイトと幸子も同じく首を縦に振った。
「こちらも今どうなっているのか確認したいしな」
「キャサリン様の手料理もいただきたいですしね」
「相変わらず食い意地の張った子ですこと」
そしてケイトの横で満面の笑みを浮かべた幸子を見て、キャサリンが呆れた顔を浮かべる。しかし彼女はそれ以上は否定せず、すぐにレッツィーの方を向いて彼に言った。
「ではレッツィー、この方達を食堂に案内してあげてください。私も後で向かいますので」
「承知しました。ではヒイラギの皆様、こちらです。ついて来てください」
キャサリンが健児達から背を向けて離れるのと、レッツィーが健児達に声をかけたのはほぼ同時だった。彼らは意識を鶏頭の魔族に向け、そして彼の後をついていくことになった。
「魔族ってこんなにフレンドリーだったんだ」
そしてレッツィーの後をついて行こうとした時に、雅が健児に声をかけた。大分平静を取り戻してきたその真人間に対して、その魔物化した彼女のクラスメイトは声を潜めて言った。
「昔はこうじゃなかったらしいけどな。まあ色々あったんだよ。色々とな」
「色々って?」
「話すと長くなる。食堂に着いたらそこでゆっくり説明するよ」
健児はそこまで言うと、さっさと前を向いてレッツィーの背に意識を傾けた。雅はその健児の背を追いながら、誰にも聞こえない程度の声で呟くように言った。
「ちゃんと説明してよね」