デス
「これどこまで続いてるんだ?」
「知らないわよ!」
四方を紫に囲まれた次元の狭間の中、そこに架けられた緑の橋の上を走りながら、健児と志帆が互いに言葉を掛け合う。この時二人は雅を両側から挟むような形で走っており、雅は怯えと不安に満ちた表情で足を動かしていた。
その雅に志帆が問いかける。
「スイッチを押す時、どこかイメージした?」
「い、イメージってなんですかあ!?」
「建物とか、道とか、とにかくなんでもよ!」
やけくそ気味に叫ぶ雅に志帆が返す。するとその向かい側から健児が続けて言った。
「この橋は、スイッチを押した人間が想像した場所まで続くんだ。だから押した人間が何も考えてなかったら、この橋は一生伸び続けることになる」
「死ぬまでこのままってこと?」
「そうだ!」
「冗談でしょ!?」
雅が本気で怯えた表情を浮かべる。それから彼女は視線を足下に移し、そしてすぐに顔を上げて健児に言った。
「このまま走りっぱなしってことなの!?」
「そういうことだ! だからどこでもいいからイメージしろ! でないとそのまま走り続ける羽目になる!」
「自分の意志とは無関係にね!」
健児に続くように志帆が雅に告げる。そして自分の体の変調を見抜いた志帆の方へ顔を向けた雅に、志帆がその目を見ながら言った。
「もし何も思いつかないなら、私の言う通りに宣言して。イメージするだけじゃなくて、行きたい場所を言葉にしても、そこに行けるのよ」
「じゃ、じゃあそれで! 何を言えばいいんですか!」
緊急事態を前にして、雅は完全に余裕を無くしていた。その雅に向けて志帆が大声で告げる。
「ベルンヘイム!」
「ベ……? なんですかそれ!?」
「いいから! ベルンヘイムに行きたいって言うのよ!」
「は、はいっ!」
志帆の言葉を受けて雅が頷く。健児はその志帆の言葉を聞いて一瞬驚いた素振りを見せたが、志帆はその彼の方を見ながら「あそこが一番安全よ」と言った。
その言葉は当然雅の耳にも届いていた。しかし届いただけで、頭の中に入り込むことは無かった。
「べ、ベルンヘイム!」
志帆は叫んだ。声を張り上げ、言われるままに叫んだ。
「ベルンヘイムお願いします!」
その声は反響することなく、次元の彼方へ虚しく吸い込まれていった。しかしその直後、無限に伸び続けるかに見えた橋が途切れ、その先端に白い靄がかかる。靄は生き物のように蠢き、その奥から一筋の光が射し込んできた。
「あれは?」
「出口だ」
雅の言葉に健児が返す。続けて志帆がその光る靄を見据えながら「あそこまで走るわよ!」と言った。
「大丈夫なんですか?」
「ここで走り続けるよりは安全よ」
雅の問いに志帆が答える。それを聞いた雅は少し戸惑った後腹をくくったように靄を見据え、三人はそのまま靄に向かって走った。
そして三人が同時に靄に突っ込む。光り蠢く靄はそれを受け入れ、健児達はその靄の奥へと消えていった。
「えっ?」
靄を抜けた先に見えたのは闇夜と荒野だった。薄闇に包まれた空の上には満月が浮かび、雑草すら生えない荒れ地の足下には霧が立ちこめていた。そして自身の背後には鬱蒼とそびえる樹海が広がり、そちらに目を向けた健児はその木々の奥から何かがこちらを睨んでいるような気配を感じて背筋を震わせた。
「ここ、いったいどこなんですか?」
彼と同じ気配を感じ取り、寒気を覚えて自分の肩を抱きながら雅が問いかける。一人澄まし顔を浮かべていた志帆は前を指さし、平然とした態度を見せながらそれに答えた。
「正門前よ。あそこのね」
「え?」
そう返された雅が志帆の指さす方へ目を向ける。健児も同じようにそちらに視線を移し、そして自分の予想通りにそこに建てられていた物を見つけてため息をついた。
彼の眼前には視界の端まで伸びた煉瓦造りの壁と鉄拵えのの正門、そしてその向こうにそびえ立つ巨大な城があった。その城は空の彼方から自身を照らす月光以外の灯りを持たず、全身を薄闇に染め、死んだように静まりかえっていた。
「やっぱりここか」
「行ったでしょ。ここが一番安全だって」
「ここがどこか知ってるの?」
雅が健児に問いかける。対して健児は「ああ」と返し、そのまま雅に言った。
「志帆の母上様が住んでる城だよ」
「え?」
「俺達を勧誘した死神の居城だよ」
目を点にする雅に健児が続けて言った。対して志帆は彼らに先だって前に進み、そのまま正門前まで歩み寄った。そして彼女が一人で門の前まで到達した時、その門の奥から低くくぐもった声が聞こえてきた。
「この地に近づく者は何者ぞ。名を名乗られよ」
「ダリアよ。母様に会わせてちょうだい」
門からの声はすぐには聞こえてこなかった。そして数秒か経った後、その門からようやく声が返ってきた。
「こ、これはダリア様。申し訳ございません。ただいま門をお開けしますので、暫しお待ちを」
その声は前と同じようにくぐもっていたが、その気配は明らかに動揺していた。そしてその声と同時に門が甲高い音を立てながら開き、奥に隠されていた景色を露わにする。
そうして開かれた門の向こう側には広大な中庭と、その中にまっすぐ敷かれた城まで続く道が広がっていた。中庭は壁の外と同じく陰鬱な雰囲気に満ちており、霧こそ立ちこめてはいなかったが、それでも冷たくじめじめとした空気に包まれていた。灯りもまた完全に「月の光」頼りであり、その空から射す僅かな光が、却ってその中庭と城へと続く歩道の静謐さと怪奇さを一層際立たせていた。
そこは下手なお化け屋敷よりも迫力があった。物陰の奥から何かが飛び出してくるんじゃないかという危険な想像を働かせずにはいられなかった。
「本当にここ歩くんですか?」
実際、雅は明らかに怯えていた。彼女はそんな「余計な考え事」をするあまり自ら恐怖心に縛られ、その恐怖に囚われるままに健児の背中に隠れていた。そして彼女は震える唇を動かし、自分が壁代わりにしていた健児にそう尋ねた。
一方で志帆はそんな真人間の懸念などお構いなしに一人で中庭へ足を踏み出し、そしてそれを見た健児と雅は慌てた調子でそれに続いた。
「そちらの方々は? お知り合いですか?」
「私の友人よ。彼らも通してあげて」
そして健児と雅が志帆から数歩遅れて中庭に入ったところで、開かれたままの門から声が飛んでくる。先に中庭を進んでいた志帆はそれを聞いて立ち止まり、自分を追ってくる健児達と門の方を向きながらそれに返した。
そこに健児達が合流する。そして志帆と合流したところで、雅が志帆に尋ねた。
「ここ本当にどこなんですか? いい加減教えてくださいよ」
「まあそんなに慌てないで。まずは母様と会いましょう。話はその後にしましょう」
「安心しろ。ここには俺達の味方しかいない。見た目からはそうには思えないけどな」
「魔族の根城だからね。怖いのは勘弁してちょうだい」
志帆に続いて健児が雅を励まそうと声をかける。さらに志帆はそれに続けて補足を加えたが、それは雅の心をさらに戸惑わせ、その恐怖を煽るだけだった。
しかし志帆はそれだけ言うと、後は聞く耳持たずと言わんばかりに前を向いて再び歩き始めた。健児は雅の背中を軽く叩き、彼女に前へ進むよう促した。
「話すのは後だ。今は志帆の後に続こう」
「ちゃんと全部教えてくれるのかしら。あの門にしたって、どこから声を出してるのか・・」
「あれは門の魔物だよ。門が生きてるんだ」
「は?」
いきなり健児からそう言われた雅は目を点にした。健児はそれ以上は何も言わず、ただ「行くぞ」と短く告げてから志帆の後を追った。雅もそれ以上は何も言わず、慌てて健児の背中を追いかけた。
そしてこの時、志帆は既に城の中へ続く扉の前まで来ていた。城門と同じく鉄で作られた観音開き式のそれは固く閉ざされ、志帆はその扉を片手で叩きながら声をあげた。
「ダリアよ。開けてちょうだい。誰かいるんでしょう?」
「ダリア?」
「志帆の本名だ」
そこまで言って、志帆が再度扉を叩く。そこに言葉を交わしながら健児達も追いつく。志帆は背後のそれの気配に気づいてから、再度扉を叩いて言った。
「母様? 愛娘のお帰りよ。開けてくれたってバチは当たらないんじゃない?」
扉の奥から反応は返ってこなかった。志帆は叩くのを止め、腕を降ろして扉を見つめた。
そんな志帆に雅が尋ねる。
「る、留守にしてるんでしょうか?」
「それはないと思うわ。確かに母様は外にいることも多いけど、でも城の住人全員が同時にここを出て行くことなんてあり得ないし」
「まあこの城自体ムダに広いからな。玄関ホールに向かうのに時間がかかってるだけだろう。その内すぐに」
しかし志帆の返答に対して健児がそこまで言った瞬間、彼らの前に据えられていた扉が音を立てて開かれていった。健児達は突然のそれに驚き、扉の方へ意識を向ける。そして彼らの眼前でそれはなおも勝手に動き続け、やがてその扉は完全に開け放たれ、その奥にあるメインホールの姿を彼らの前にさらけ出した。
だが健児達は、その扉の奥に見えるホールに意識を向けることは無かった。開かれた扉の前に一つの影が立ちはだかり、それが彼らの意識を引きつけたのだった。その影は背後にある薄暗い城内の光景と溶け込み、健児達にその詳細な姿を掴ませなかった。
しかし顔立ちすらはっきりしないそれを見た志帆は、その人影の正体を一目で見抜いた。
「母様!」
志帆の声は喜びに満ちていた。ここの暗く打ち沈んだ雰囲気とは真逆の感情を秘めた声だった。対してその声を受けた人影は何も言わずに前へ歩きだした。やがてその人影は城外に出ると共に月の光を頭から被り、それまで纏っていた闇のベールを自ら剥いでいった。
「うわあ」
そうしてその姿を露わにした「それ」を一目見て、雅は呆然と声をあげた。そこに恐怖の気配は無く、ただ純粋に感嘆と羨望の感情が混じり合った物となっていた。
「綺麗」
そして雅が、自分が抱いていた思いを素直に言葉にして放つ。健児はそれを聞いて「まあ美人だよな」と腕を組んで素っ気ない口振りで言った。
影のベールを脱いで現れたそれは、知性と美貌を兼ね備えた一人の女性であった。顔立ちは綺麗に整い、鋭い目と細い眉は威厳と意志の両方を兼ね備えていた。髪はやや癖の残る白髪で、肩にかかる程度に伸びていた。
また彼女は薄手のシャツと足首まで届くロングスカートを身につけ、その上からフード付きの黒いマントを羽織っていた。首にはネックレスをつけ、左手の薬指には指輪をはめていた。服装は地味で、その服の下に隠れた体躯は志帆のそれと比べて非常に貧相だったが、それでもだからといって彼女の美しさを損なうことはなかった。
そしてその人影は、雅のそれを聞いて引き締まった表情を崩して笑みを作り、そして「ありがとう」と短く答えた。そして彼女は次に健児に目を向け、その視線を細めて彼に言った。
「こうして会うのは久しぶりですね」
「そうだな」
「健康そうで何よりです」
「何度か死んだけどね」
「それは残念。死神としてあなたの魂を運べれば良かったのですが」
健児と女性が互いに軽口を叩き合う。志帆はそれを楽しげに見つめ、雅は驚いた顔でそれを見た。
「二人とも知り合いなの?」
その雅の言葉に健児と女性が反応し、同時に雅を見る。それから健児はその女性の横に立ち、彼女の肩に手を置いてそれに答えた。
「さっき言ったろ。ここの家主は俺をチームに誘った人だって」
「じゃあその人が?」
「ああ。さっきの死神様だよ」
な? 健児の軽い問いかけに、その死神は苦笑をこぼして頷いた。それから自分の肩に置かれた健児の手をそっとどかしつつ、「ええ、彼の言う通りですよ」と雅に言った。
「そう言えば、あなたには紹介がまだだったわね」
そして健児と挟み込むようにして死神の隣に立ちながら志帆が言った。
「この人はキャサリン。魔族で、死神で、日本を監視してる人で、ヒイラギのボス。そして私の母」
「お初にお目にかかりますわ。お嬢様」
娘から紹介されたキャサリンが、雅に対して仰々しい台詞と共に態とらしい動きでもって一礼する。片足を半歩後ろに下げ、右手を横に流し、左手を胸元に置き、腰をほぼ直角に曲げる。
「私の自慢の母様。よろしくお願いね」
そのキャサリンの動きを凝視していた雅の耳に、志帆の言葉がするりと入り込む。そして「凝りすぎだよ」という健児の小馬鹿にするような調子の声もまた、彼女の反対側の耳から頭に入っていく。
雅はどうしようもない程の疎外感を味わった。