不死の魂
そのヘンディミオと呼ばれた世界と、人間の住む世界である地球との邂逅は、全く前触れのない唐突なものであった。ファーストコンタクトから一世紀弱経った今では交流も進み、その両者の接触の原因も「ヘンディミオ側が時空に穴を開けたことによる不慮の事故」であることも明らかにされ、混乱やわだかまりも無くなっていたが、二つの世界が時空の壁を越えて出会った当初の混乱は相当のものであった。
ある日空を見上げたら、そこに不気味に蠢くどす黒い渦が出現していたのだ。しかもそれを視界に収めた次の瞬間には空だけでなく、ビルの壁や自分のすぐ隣、ありとあらゆる所に同じ渦が音もなく出現した。
そしてその渦の中から自分と同じ姿形をした、しかし見たこともない服装や化粧をした人間が自分と同じく驚いた顔で出てきたのだ。驚くなと言うのが無理な話であった。
しかし互いの世界の住人は、出会ってすぐに争い始めるほど野蛮ではなかった。彼らは互いに対話による相互理解を選択し、そして相手が交渉の余地のある存在であることを理解すると、その後は急速に友好を深めていった。彼らは互いの歴史を学び、技術を公開し、その中で有用な物を利用し合った。
地球人が手に入れたのは魔法だった。彼らはヘンディミオで当たり前のように使われていたその力を取り入れ、自分達の世界で利用しようと思い立ったのだ。
その試みは成功した。大成功だった。魔法の持つ無限の力はそれまで地球人の抱えていた問題の大半を解決し、さらにそれまで以上に自分達の文明を発展させていったのだ。まさに魔法は神の恵み、黄金時代の到来である。当時の人間の大半がそう思った。
しかし魔法がもたらしたのは恵みだけでは無かった。新たな力は人間に恵みだけでなく、同時にその身に呪いも与えたのだった。
生物の魔物化である。
富士見野健児の元に死神がやってきたのは、彼が呪いによって体が変異したその翌日だった。その日、彼は病院のベッドの上で意識を取り戻し、そして上体を起こした段階で自分の寝ていたベッドの傍にその死神が立っている事に気づいたのであった。
「不死人ですね」
健児の元に現れた死神はまず自分の名前と、自分がヘンディミオからやって来た事、そしてなぜここに来たのかについてを彼に告げた。彼女曰く、「健児が魔物化したのでここに来た」とのことであった。
「あなたは不死身の生命を持ったのです。残念ながら不老不死ではありませんが、寿命もそれなりに長くなったはずです」
健児にとっては寝耳に水な話であった。一方でそんな健児に対し、死神は彼が受けた呪いの内訳を話して聞かせた。すなわち「彼がなった魔物の種族名」と、「その能力」についてである。
「こんな感じですね。外見があまり変わらなかったのは幸運と言えるでしょう」
「ちょ、ちょっと待って。それ本当なのか」
「はい。もちろん本当です」
当然健児は驚いた。いきなり自分の目の前に死神が現れ、しかもその死神が「お前は魔物になったのだ」と告げてきたからだ。しかし彼はそれを前にして必要以上に騒いだりはせず、一度深呼吸をした後でその死神の言葉を大人しく聞いた。
「・・本当なんだな?」
「本当です。突然すぎて信じられないかもしれませんが」
「いや、なんとなくだけど理解は出来るよ」
彼もまた自分の身に何が起きているのかをもっと知りたかったからであり、同時に覚醒した時点で自分がここにいる理由を即座に把握していたからだった。
「こうなる前の状況を思い出したのですか?」
「ああ。俺は確か」
富士見野健児はここに搬送される三十分前に、交差点で車にはねられていた。道路からはみ出した大型トラックと正面衝突していたのだ。
「普通ならその時点で死んでいました。魔法がなければ、あなたはあれで即死だったでしょう」
死神は淡々と説明していく。健児も黙ってそれを聞いている。そしてそんな健児の視線を受けながら、その大鎌を背負ってフードを目深に被った死神は続けて言った。
「ですがあなたが息を引き取る間際、大気中に混じっていた魔力があなたの体に反応したのです。なたの無意識下の生存本能に魔力が反応し、そして魔法に対する免疫の低いあなたの体は、体内に進入してくるそれを無防備に受け入れた」
「それで生き返った?」
「正確には生まれ変わったと言うべきですね。それまで人間の姿を捨て、新たな存在として生まれ変わったのです」
健児からの問いかけに、その死神が答える。さらに死神は続けて「魔物化と言うべきですね」と答え、そのまま健児に言った。
「魔物化がどういう現象なのか、既にあなたもご存じのはずです。今の自分の身に何が起きたのかについても、私が説明するまでもなく理解しているはずです」
「そりゃまあ高校の授業で受けたけど・・やっぱりこれって、もう避けられないのか?」
「残念ながら確定事項です。大げさにいってしまえば、地球とヘンディミオが接触し、地球人がヘンディミオの魔法を利用した時点で、あなたの体がこうなることは既に定められていたのです」
途方もないくらい誇張表現を使いながら、死神は淡々と説明した。健児は最初、自分の身に起きたことについて当然ながら戸惑ったが、すぐにその混乱も収まった。自分の体が目に見えて変わった訳でもないし、今更過ぎたことをあれこれ悩んでも仕方ないと変な方向に開き直ったからであった。
そしてそんな彼は死神の説明を聞いている最中に、唐突に一つの疑問を頭に思い浮かべた。彼は死神が説明を終えた所で、率直にそれを尋ねた。
「ところでお前、死神なんだってな」
「はい」
「俺を殺すためにここに来たのか?」
やっぱりそう思うか。死神はそう呟いた後、首を横に振りながらそれに答えた。
「いえ、単に人手不足なだけです。死神として来た訳ではありません。単に私がここの方面の担当に選ばれ、派遣されてきただけなのです」
死神でもノスフェラトゥは殺せませんよ。その死神は補足するようにそう言った。親しげな一方、どこかよそよそしさも感じる口調だった。
対してそれを聞いた健児は、また新たな疑問を抱いた。彼はまたもそれをストレートに尋ねた。
「ここの担当っていうのは、どういう意味なんだ?」
「そのままの意味です。この国、日本という国では、今後さらに魔物化していく人間が増えていくでしょう。もちろんそれは日本だけの問題ではありません。現時点で人類の四割が魔物化していますし、遠からず全人類がそうなるでしょう」
「そうなのか?」
「そうなりますね。ヘンディミオの予言者や魔科学者も同じことを言っています。とにかく私は、この日本でこれから更に増えていくであろう魔物化した人間の観察と、その対処を行うためにここに来たんです」
「お前一人で日本全部をカバーするのか?」
「出来ない話ではありません」
唖然とする健児の言葉に対し、死神はこともなげにそう返した。それから彼女は続けて、相変わらず淡々とした調子で健児に向けて言った。
「それからもう一つ、私にはここに来た理由があるんです」
「それは?」
「魔法の呪い、世界の接続によってもたらされた呪いは、何も生物だけに作用するのではありません」
健児の言葉をいなすように死神が答える。どことなく不満げな顔を見せる健児に対し、死神はわずかに口元を愉快そうに緩めながら言った。
「私はあなたをスカウトしに来たのです。呪いの産物を回収するために、人ならざるあなたの力を貸してほしいのです」
その死神は、健児にもう一つの「世界の呪い」の産物の存在を教えた。彼女はそれを「神器」と呼び、神器は無機物が魔法によって変異した存在であることを告げた。
「神器はその全てが危険なわけではありません。もちろん無害なものもあります。ですが中には、それこそ使い方を間違えれば世界を滅ぼしかねない危険なものもあるのです」
「それを俺に集めてほしいって言うのか?」
「あなたを選んだのは普通の人間には荷が重すぎると思ったからです。もちろんあなただけにやらせるつもりはありません。他の方々にも声をかけ、チームで動いてもらいます。そして当然ながら、これはタダ働きではありません。その仕事の危険度に応じて、相応の報酬を支払います」
死神は黙々と説明を続けた。健児の心の中には当然懐疑の気持ちもあったが、それと同時に疑いと同じくらいの好奇心も生まれていた。
それまでの人生では決して味わえなかった境地。目の前に広がるであろう未知の冒険を前にして、健児は自分の心が躍っていることを自覚した。事故に遭うまで平凡な高校生活を送っていた少年にとって、死神の提案はまさに絶好の機会だったのだ。
「どうでしょう。強制はいたしません。私と共に来てはくれないでしょうか」
死神が静かに右手を差し出す。既に体は完治しており、自由に体は動かせていた。操られているような感覚も無い。
完全に自らの自由意志に委ねられていた。
「俺は」
ノスフェラトゥの少年は死神の誘惑に乗った。
こうして富士見野健児は、晴れて神器審問団ヒイラギの一員となった。
「あなたの力、当てにさせていただきますね」
「出来る限りのことはするよ」
そして健児が死神の手を取ってから一年が過ぎた。彼は同時期に集められた仲間と共に神器を観察、回収していき、着々と二つの世界で功績を上げ、その名声を高めていった。
切った物体を爆散させるギロチンを手に入れたのは、まさに彼が死神の手を取った一年後のことだった。
「それでは、今回の成功を祝って」
「乾杯!」
ギャレンの音頭を皮切りにして、審問団のメンバーがグラスをぶつけ合う。乾いた音が狭い食堂内に響き、それから彼らは手にしたグラスの中身を思い思いに喉の奥に流し込んだ。
彼らはこの時、埼玉県南部に置かれた神器審問団本部、もとい田舎の小さな民宿「やまや」にて祝勝会を行っていた。三日前に行った神器「炸裂ギロチン」の回収作戦の成功を祝してのことである。
「ふう、なんとか一息つけたな」
そうして手元のワイングラスの中にあった赤ワインを一息に飲み干した後、ヒイラギのリーダーであるギャレンが感慨深く呟く。年相応にその顔に皺を刻んだ彼は半袖のワイシャツの下から覗く白い肌を僅かに赤く染め、勝利の余韻に浸っていた。普段は頼れるリーダーとしてメンバーの信頼を集めていたが、仕事から解放された今の彼は、ただの酔っぱらったおっさんであった。
「仕事終わりの一杯は格別だな。ああたまらん。まさにこのために仕事をしていると言ってもいいな」
「爺臭いぞ、サー。少しは紳士らしく振る舞ったらどうだ」
するとその隣に座っていた女エルフのケイトが、リーダーのだらしない態度を諫めるように口を尖らせる。彼女はこの時無地の白いブラウスを身につけ、その上から薄地のケープを羽織っていた。そしてショットグラスになみなみと注がれたウォッカを半分空にした状態でそれをテーブルの上に置き、大きく息を吐きながら続けて言った。
「だがまあ、勝つというのは確かに気持ちがいいな。それはどこの世界でも変わらんか」
「ケイト様もだいぶこちらに慣れてきたようですね」
そのケイトに向けて、テーブルを挟んで彼女の向かい側の席に座っていた幸子が言葉をかける。ラフな格好をした他メンバーの三人と違って桜色の和服をかっちりと着こなした彼女はそれぞれの手に酒瓶とグラスを持ち、空になった自分のグラスに焼酎を満杯になるまで注いでは、それを水を呷るかのように一気に飲み干していっていた。この時彼女のついたテーブルの周りには何十本もの空の酒瓶が並べられ、一個の壁となって彼女の手元にある料理の盛りつけられた皿を完全に隠していた。
それを指摘する人間はここにはいなかった。この地球出身の魔法使いが魔物化の影響によって「大うわばみ」と化したことを、彼らは既に知っていたからだ。
「ところでケイト様。そちらのお酒はもうお飲みにならないのですか?」
「そんな訳ないだろう。私には私のペースがあるんだ。ゆっくり飲ませてくれ」
そしてケイトの傍にある飲みかけのウイスキーに目敏く気づいた幸子がそう問いかけ、それに対してケイトはため息をつきながらそう返した。
その二人のやりとりを見ながら、幸子の横に座っていた健児が言った。
「酒ってそんなに美味いもんかね。苦いだけだろ」
「それがいいんですよ。それにお酒は苦いだけじゃないんですよ?」
健児の言葉に幸子が真っ先に反応する。この時彼女の視線は彼の持っていたグラスに向けられており、そこに注がれていた黒い液体を見ながら幸子が言った。
「甘い物もあれば、すっぱい物もあるんです。そしてそのどれもが、それぞれ違った美味しさを持っているんです。今あなたの飲んでるそれと同じような味わいのお酒だってあるんですから」
「コークハイってやつか」
「俺は普通のコーラでいいよ」
その幸子の言葉にギャレンが答え、そして健児が頑なな調子でそう返した。彼は魔物化し、不死の存在となってなお、「未成年の飲酒は禁止」という人間のルールにこだわっていた。それが彼の真面目さ、言い換えれば頑固さに起因する事であるということを、他の面々は知っていた。
一方でそのやりとりをしている間にも幸子はまた新たな未開封の酒瓶に手を伸ばし、躊躇うことなく栓を開けて中身をグラスの中に注いでいった。
ギャレンはあくまで自分のペースを崩さず、どちらに偏ることもなく、酒と食事を両方楽しんでいた。自称英国紳士の彼は、自分の中にある紳士のルールに従った動きを徹底していた。それは公式のマナーとはかけ離れた動きだったが、ギャレンは全く気にしなかった。
それで二十本目か。そんな中で幸子の周囲に並べられた空き瓶を数えていたケイトはそう小声で呟き、それから自分の皿の上に盛られた料理を見ながら言った。
「まあ私も、飲む方より食べる方が好きだな。地球の酒はどれも強くてかなわん」
それから彼女は皿の上に置かれた料理、もとい銀に輝く鉄製のスプーンを一つ手に取り、それを口の中へと運んでいった。丸く広がった部分だけを口内に含み、肉を食べるように根本から噛み千切る。そして音が漏れないように口を閉じた状態でよく咀嚼し、味わいを確かめるように喉の奥に飲み込んでいった。
「うん。悪くないな」
残りの棒状の部分をまとめて口の中に放り込みながらケイトが満足げに言った。三人は何も言わなかったし、何の反応も返さなかった。それがこの「鉄食いエルフ」のいつもの食事風景であり、彼らはすっかりその光景に慣れてしまっていたからだった。
「しかし地球の鉄は美味いな。ヘンディミオの奴はどうしても不純物が多くてな。食べるならこちらの方がいい」
「鉄にも違いがあるのか」
「もちろんあるぞ。味も違うし、食感も違う。色々な違いがあるし、それぞれ良さもあるが、やはり私は地球の鉄が好きだ」
「まるでソムリエだな」
ケイトの言葉を聞いていたギャレンが感心したように言った。ケイトは得意げな顔で「そうでもない」と返し、自分の皿の上にあったもう一本のスプーンを手に取った。
「ああ皆さん、全員お揃いのようですね」
食堂の奥から声が聞こえ、その方から一人の女性が近づいてきたのは、ケイトがそのスプーンを口に含んだ時だった。その女性は割烹着を着た妙齢の女性であり、そして健児達にとっては最も見知った人物であった。
「天音さん」
「どうした? 何かあったのか?」
鈴家天音。この民宿の主人であり、彼らに寝床と食事を提供している女性であった。彼女は真人間であり、死神の勧誘を受ける前からこの民宿を経営していた。そして彼女の誘いに乗って「ヒイラギ」メンバーにこの民宿を提供してからは、彼女は親身になって彼らを支えていた。物腰が柔らかく、非常に心根の優しい女性であった。健児達実働部隊はこのおかみさんに頭が上がらなかった。
当然ながら、彼女はヒイラギの面々がどのような境遇にいるかも全て把握していた。
「どうしたんですか? 何かあったんですか?」
前にケイトが発したのと殆ど同じ言葉をギャレンが放つ。天音は少し申し訳なさそうに表情を曇らせてからそれに答えた。
「お楽しみのところ申し訳ないのですが、お客様がお見えになられております」
「お客様ですか?」
「どんな人なんだ?」
三十本目の焼酎の瓶を飲み干してから幸子が反応し、三本目のスプーンに手をつけながらケイトが尋ねる。天音は困った顔のままそれに答えた。
「どちらかというと、依頼人でしょうか」
「俺達に仕事の依頼を頼んできたってことですか?」
「そうなりますね。なんでも神器絡みで困っているようでして。それであなた方に助けてほしいそうです。神器回収のエキスパートであるあなた方に」
「なるほどな。それで、その依頼人は今どこに?」
「もうこちらに来ています」
天音がそう言って脇にどく。するとそれまで彼女の後ろに隠れていた、一人の女性の姿が露わになった。
その女性は黒縁の眼鏡をかけた、大人しそうな女性だった。背丈は健児よりも一回り小さく、髪型も服装も地味で、とにかく存在感の薄い女性だった。
そしてその女性は真人間だった。
「魔物ではないのか」
鼻をひくつかせ、いち早くにおいでそれと気づいたケイトが呟く。眼鏡をかけた女性は怯えたように肩を震わせ、それから小さく頷いた。ギャレンは「魔物でもないのによくこんな所まで一人で来れたな」と思いながらその女性を興味深げに見つめ、幸子は「ここまで大丈夫だったのでしょうか」と相手を案じるような眼差しを向けた。
「え」
そして健児は、その凡庸な女性を見て体を石のように固くした。そして眼鏡の女性もまた、他の者には目もくれず、ただ健児に縋るような眼差しを向けていた。
「お知り合いなのですか?」
そんな二人の様子に気づいた天音が問いかける。無言で首を縦に振った後、健児が驚きを隠せない調子で答えた。
「高遠雅。俺の高校時代のクラスメイトだ」
高遠雅と言われたその女性は、健児の言葉を肯定するように頷いた。