星の終わりの見聞録--『第3号 継承』より 作者:アオイヤツ
――銀砂の丘を越えた先には黄金の都があると言われている。古には空をも越えて世界を制し、富と名のつく全てのものを手にしていた。そこに住まう人々は透き通るように美しい肌、滑らかな黒髪は上質な絹の様に輝く。見る物を唸らせる艶やかな衣装にはありとあらゆる宝石を散らし、黄金によって形作られた装飾具は現代では値の付けようがない。彼らは優雅な舞いを楽しみ、高貴なる音楽を嗜み、尽きることなく湧きあがる神の酒と、芳醇な香りを纏った果実を並べて終わることのない宴を楽しんだという――
…
……
………
「こんな書き出しはどうかなぁ、マール」
万年筆のキャップを口に咥え、もごもごと言葉を口にされる。こちらが私のご主人様です。なお、マールとは私の名です。よろしくお付き合いください。
ご主人様は長い髪を指で巻き取り、ある程度巻くとぺしんとはじきました。意味のある行動ではないようで、再びメモ帳へと視線を落とします。長年使い込まれた万年筆は万年の名に恥じぬ書き味、サラサラサラリと文字を紡ぎ出していきます。その様は見ているだけで気持ちがよいものですね。
「うーん、なんか違う……」
ご主人様はぐじぐじと何重もの線を引いて、過去の自分、忘れたい記憶を消し去りました。そうして出来た黒い塊の隅に小さく目を付けてミノムシの完成と相成ります。しかしご主人様が本当に書きたいものはそれではないでしょう。
哀れなり、ぐじゃぐじゃと丸まった紙が数秒の時を経て、部屋の隅へと宙を舞う。放物線を描いて頭上を越えていくご主人様の過去はぺすんと情けない音と共に床の上に転がります。私は首を伸ばしてそれを拾うと、ゴミ箱へと捨てておきました。
むぅと小さく唸ってご主人はペンを置きます。背伸びをして視線を上に、天井へ。私もご主人様の視線を追いかけてみました。そこは見慣れたしみの描かれた天井があるだけ。私がご主人の部屋に入り浸るようになってから、毎日変わらぬ狭き空。
「あーあー、わかんないわかんないわかんなーい!」
叫ぶご主人。すこしだけ、はしたないですね。ああダメですよ頭をかきむしっちゃうと髪の毛もぼさぼさになってしまうじゃないですかもう。
と、ここでご主人、壁にかかっている時計に視線を移します。亜麻色の髪が勢いよく広がりました。
「もうこんな時間? そろそろいかないと……」
かるく頭を振って、心持ち表情を引き締めるご主人様。椅子に掛けていたカーディガンを手に取って部屋を出ていきます。私はご主人様の後に従います。
ご主人様はそっと戸を閉めると短い廊下を歩きだしました。廊下にはいくつかの分かれ道がありますが、ご主人様は壁に鏡の掛けられた通路へと足を進めます。鏡の前で立ち止まると「ん」と小さく呟いてから、両手で顔を覆いました。そのまま首を大きく三回振って顔をあげ、何事もなかったように通路の奥へと向かいます。ご主人なりの集中力を高める儀式、のような何かです。
通路の突き当たりには扉の無い小さな部屋。ご主人はその小さな部屋に一つだけ置かれた椅子へと腰かけました。椅子の正面に備え付けられたコンソール。モニターには格子状に区切られた水路が映っています。
コンソール下部の青白く光る板に手を乗せると、ご主人は表面を軽く指でなぞりました。どんな機構なのか私にはわかりかねますが、指の軌跡を追うようにして板の表面をキラキラ輝く光の線が走ります。ご主人様の描く美しい軌跡を横から眺めていると、モニターに映る格子の水路が動き始めました。
いくつかの操作を行って満足そうに頷くと、ご主人は壁に取り付けられた耳当てを手に取りました。それを頭に付けると、側面にあったマイクを顔の前に動かします。
「二四番から三一番まで完了。シグルルとコウシエントは入艇を。残りは迂回後、四五番から六一番で待機。以上」
ご主人様は早口でそれだけを口にすると、黙ってモニターを見上げました。水路の奥から大きな機体の影が映りこみ、機体はそのまま画面の奥から手前へと進み続け、すぐに見えなくなりました。ご主人様は機体を見送ると光を操る作業に戻ります。
一時間程、そんなやりとりを繰り返しました。最後に「格納、閉鎖完了。確認をお願いします」と告げるとご主人様は椅子を立ちます。
「ま、確認の結果なんて待たないけど」
ご主人様がぽんぽんっと片手で板を触るとモニターの画面が切り替わりました。一番上には『秘密のデバッグ大作戦』と丸文字で書かれており、その下を大量の文字が流れていきます。文字の羅列は数十秒に渡って流れ続け、最後に点滅する文字列を残して止まりました。ご主人はそれを一瞥して「確認完了」文字列を読み上げると、操作板をグーで殴りました。モニターの画面は元の静かな水路へと戻ります。
「さ、行くよマール」
ご主人様に導かれて私も部屋を出ました。
執筆部屋に戻ったご主人様、再び机に向かいます。サラサラサラリ。万年筆の音を聞きながら、私は休息を取ることにしました。今日は過ごしやすい気候。眼をつむるだけで程よい眠気に包まれました。
硬いものがぶつかるカツンという音で、私は目を開きました。ぼんやりとしたまま、部屋を見渡すとご主人様の姿がありません。うっすらと聞こえる足音は御主人様のものと思われます。遠ざかる足音から推測すると、また仕事へと向かわれたのでしょう。既に扉はしまっています。
私はぼんやりとした頭で考えます。
まだ眠い。本能はそう訴えています。しかし理性の一部では自らの忠誠心を問う声があがっているのも事実でした。ご主人様を追うべきか否か、これはゆゆしき問題であります。
結局、考えるまでもなく『お仕事上で私に手伝えることはない』という結論が出ているので、私は無理せず本能のままに眠りにつきました。むしろ邪魔になるだけなので無駄なことをすべきではないでしょう。
それから少しの時間が流れた後、柔らかいものが体に触れる感覚で目覚めました。その優しい手つき、ご主人様の手であることはすぐにわかりました。私は再び目を閉じ、耳を下げます。眠るわけではありません。背中に触れる優しさを余すことなく感じたかったのです。
しばらく私を撫でると、ご主人様は再び執筆へお戻りになったようです。私は体を一度伸ばしてからご主人様の横へ、いつも待機している椅子の上へと飛び上がります。ご主人様は飽きることなく物語を紡ぎ、悩み、呻き、意味の無い言葉を私に投げかけます。私は私に出来る事、すなわち「にゃあ」と返事をします。クスっと微笑むご主人様、少しでも悩む気持ちがほぐれればいい、そんな風に私は望むばかりなのです。
さて、ここでしばし時間が経過致します。大体十日間ほど。とはいえ何かが変わったわけではありません。相も変らぬ仕事と執筆活動の日々を過ごすご主人様、私は毛並みが少々整ったぐらいです。ご主人様にお風呂に連れ込まれたためですが、お湯だけは勘弁してほしいです。
話を戻しまして。本日なにがあるかと申しますと、ご主人様の御友人がいらっしゃる予定なのでした。月に一度の頻度でいらっしゃるご友人のことをご主人様は一か月間心待ちにしていらっしゃいます。すなわちずっと毎日楽しみにしておいでです。
ご主人様は朝からそわそわが止まりません。書きあがる物語もいつも以上のペースで投げ捨てられていきます。一枚、二枚、三枚、たくさん。ゴミ箱がいっぱいになってしまって、私は紙の中に埋もれました。
朝からこつこつと作り続けた紙屑が、ついには床を埋め尽くす程度に溜まった頃、トゥーンと間延びした音が来客を知らせます。ご友人がいらしたようです。
「やーやーやあーやあー」
ドンドンガバリとカギの掛かってないドアを押し開けて、大股で乗り込んできたご友人。色々と素行はあれですが女性の方です。
ご友人は声がとても大きい方です。そして感情表現が大げさ且つ大雑把。体は人間にしては小さな方ですが、その分手足を大きく動かす癖があるので、どんな動き方をしてもどことなく子供っぽい不格好な所作になっています。少し緊張も為されているようですね。
「いらっしゃい」
と、落ち着いた様子のご主人様。と言っても、実は緊張で頭の中が真っ白なのはよーく存じております。ずっと見ていますから。しかしそれは恥じる事ではありません、ほとんど人に会わないような生活が悪いのです。
ちなみにご友人は私のみた限り、人見知りで緊張している様子ではありません。ただ、ご主人のいらっしゃるこの場所がすこしばかり特殊なので、その所為で緊張なさるのでしょう。
「どうぞ」
応接間へとご友人を案内すると、ご主人様はお茶を淹れるために部屋を出ていきました。部屋に残されたのは私ときょろきょろしているご友人。何度も来ているのにきょろきょろと落ち着きがありません。おそらくどこへ行ってもこの調子なのでしょう。
すこし落ち着いたのでしょうか。ご友人はソファに座っている私の前にしゃがむと、私の顔を覗き込みながら声をかけてくださいました。
「キミ、名前なんだっけ……」
マールという名前です。
「んー、思い出せないや。まあいいか」
マールという名前です。
「ねぇ猫。アンタは毎日ここに入り浸っているのかい?」
猫ではなく、アンタでもなく、マールという名前です。
うーん、通じないとは知りつつも、聞かれたことには返事をするべきですよね。せめてもの気持ちを言葉に乗せて、私は口を開きました。
「にゃあ」
要約すると「毎日というわけではありませんが、ほとんどここに来ています。尊敬するご主人様の元に奉公することこそ、私の生き様なのではないかと思っていますので」となります。
ご友人は私のふわふわたる頭にポンと手を乗せ、
「何言ってるかわかんないけど、ちゃんと話そうとするだけでも偉い偉い」
そう呟きながら、ポンポンと頭の上で手を跳ねさせ、ふわふわ頭を捏ねくるのでした。
ああまったく、猫と人間の関係とは歯がゆいものであります。
「はいどうぞ」
木製の机をコトンと鳴らし、ご主人様が置いたトレイ。その上には妙なる芳香の広がる黒く澄んだコーヒー。ご主人様はこの苦々しい飲み物がお気に入りのようで毎日飲んでいらっしゃいます。一度だけ頂きましたが、あの苦々しさは忘れられません。
「ありがと」
ご友人はコーヒーのカップを手に取ると、紙に包まれた砂糖をサラサラと流し込み、更にミルクのポーションを2つも投入しました。甘味とまろやかさをたっぷりと加えたコーヒーは先ほどとは全く異なる、茶色く濁った色味に変化してぐるぐると渦を巻いています。
既に違うものとなった感がありますが、ご友人はまだそれに口を付けません。ふぅふぅと息を吹きかけて冷ましています。猫舌なのです。奇しくも同胞であります。
そして見守るご主人様はそっとミルクを1つ流し込んだだけの砂糖無しを口にしています。インドア派なのでカロリーが気になると先日呟いておいででした。
冷ましたコーヒーを口にして、眉をしかめるご友人。更に追加の砂糖をご投入。微笑みながら見守るご主人様。そんなお二人を眺めつつ、なんとなく口寂しい私。
しばしのんびりとした空気に舌鼓を打ったあと、ご友人のお話が始まりました。
「今日のお話のメインはね、砂なんだ」
「そ。砂がたくさんある場所。砂漠だね。カルタから出てる列車に丸一日乗ったらルシウスって町に着くんだけどさ、そこから先はひたっすら砂漠なんだよ」
「写真なんかでは見たことあったけどやっぱり実物は違うよー。なんと言ってもとにかく砂だね。砂々スナスナスナー! って感じで。とにかくもう砂だよ」
「ルシウスにはピラミッドって呼ばれる謎のでっかいピラミッドがあるんだー。すっごく有名だから本で読んだことあるんじゃないかな? あのすっごく大きな三角形。近くで、っていってもだいぶ遠くだったけど、実際に見ると凄いよ! 凄く……三角なんだよ!」
「凄く三角なのに何に使われてるかわからないらしいよ。なんかこう、神秘だよね。三角、かーらーのー神秘! それにね、あんな大きな三角をどうやって作ったのかもよくわからないんだって。ヒトの手でえっちらおっちら頑張ったとしか思えないそうだけど、途方もない力だよねー。人間って案外凄いのかもしんないね」
「そうそう、その謎のピラミッドを見張るように謎のスフィンクスが立ってるんだよね。スフィンクス、顔が人間で体が……なんだっけ。なんか動物なの。それが立ってる、いや、座ってる。ん、座ってるわけでもないか。伏せてる。そうそれ。謎のスフィンクスが伏せてるんだけど、スフィンクスとピラミッドの並ぶ風景がなんつーか、独特なんだよね」
「ピラミッドの番人……人じゃないけど。スフィンクスもおっきいんだよね。近くで見るとだいぶボロボロなんだけど、ぼろぼろになってもじっとピラミッドを見守り続けてるんだよ。昔の人は面白い物作るよね」
「あとね、その周りは昔立派な都市があったみたい。ピラミッドよりずっと高い建造物跡とかも残ってるんだけど、ピラミッドの周りだけはぽっかりと空いてるの。他にはなにも立ってなくて、ただぽつんと。ピラミッドとスフィンクスが立ってる。なかなか不思議で絵になる光景でしょ?」
「ほかにもねオアシスとか、盗賊の岩屋とかあったよ。あ、オアシスってのは湖ね。砂漠の砂だらけの中に急に湖があるから驚くよ。昔はその水を飲むことも出来たらしいんだ、今はもう無理だけど。あっつい砂漠の中に水場なんかあったら皆喜んだだろうねー」
「ん、盗賊の岩屋? あー、そうそう、それそれ。昔々の有名な物語に登場する場所で、内緒の呪文を言えば大きな岩が動き出して洞窟になるんだって。確かにおっきな岩があってさ、切れ目が入ってて動きそうな感じだったよ。ううん、なんか壊れてるみたいで動かなくてさ。洞窟の中にも入れなかったんだよねー。あ、秘密の呪文は聞いてきたけど唱えても開かなかったよ。現地の人は壊れてるからって言ってたけど、どーなんだろうね」
「キャラバンとかいう人たちにも会えたよ。そもそもは旅商っていうのかな、皆で長距離を移動して商売する人たちだったらしいね。私が出会ったのはその名前を引き継いではいるんだけど商売人とはちょっと違ってた。鋼機バスで砂漠を移動してるんだけどその目的は特にないんだって。最後まで旅を続けたいからなんとなく続けてるそうだよ。色んな人がいるよね」
「次? 次は海でも行こうかな。沖には出れないだろうけど、海沿いに旅してみたいんだー。そうそう、サントとかいう町の海沿いには色々不思議な建物があるらしいから行ってみたいんだよね。うん、次はそっちにしようかな」
実に賑やかな方です。
そんなお話が小一時間続いたのち、再びのんびりとした時間を我々は過ごしました。
それからご友人からご主人様にお土産として頭に巻く布をお渡しになられました。ご主人様は自分の頭にそれを乗せて恥ずかしそうに笑います。するとご友人は私にも「お土産」と言いながら、ご主人様に差し上げたものと同様の布を取り出し、私の頭に乗せました。こういった物に慣れていないので妙な感じです。しかし、ご主人様が嬉しそうなのでご友人にお礼を言いました。にゃあ。
それからも楽しい時間は続きます。ご主人様は自分の話をするのが苦手なので、布を頭に載せたまま、ご友人の話を楽しそうに聞いています。ご友人は話をしたり、コーシーを冷ましたり、私の尻尾をひっぱったりと忙しい。私はソファの上でゆっくりと首をひねって、頭に乗せた布のバランスを取っていました。
時は緩やかに、しかし確実に流れます。日が沈む前にご友人はお帰りになるということで、木造の廊下を抜けた先にある玄関でご主人様が見送ります。また来月。その言葉だけが二人の間に浮かんで、緩く危なげな糸を結びつけます。
ご友人と一緒に私も家に帰ろうと思い、一緒に木製のドアをくぐりました。ご主人様に軽く会釈をして閉じるドアの向こうへと見送ります。明日という日までさようなら。
「あれ、アンタも行くの? まあいいか。一人じゃこのドア開けられっこないんだからついといで」
スタスタと歩きながらご友人は手招きで私を呼びます。木製の部屋からがらりと世界は変わり、私たちが歩いている通路は一面が無機質な素材で覆われていました。窓のない通路は床から天井まで灰色、その表面はひんやりと堅いです。立ち止まっていると灰色の世界に呑まれて、心の熱を奪われてしまいそうな威圧感があります。
「おいてくぞー猫太―?」
マールです。
それはともかくあわてて後を追いました。細かく曲がりくねった灰色の道を抜けた先、突き当たりにあるドアは壁と同じ灰色のひんやり素材で出来ていて、とてもとても重たいようで、私一人では出られません。
「なにを、考えて、こんなドアに、したんだか……っ」
全身を使ってやっとのことでドアを開けたご友人、もちろん誰かの答えを期待していない発言でしょう。単なる無意味で無価値な愚痴なのです。猫でも人でも愚痴というのは言いたくなくとも言わざるを得ない、そんなものなのでしょう。
「さてと、ここからは猫太とあたしは別行動。この施設に猫がいるなんて知れたら大騒ぎだからね」
マールです。
それはともかくご友人、一度言葉を切ってしゃがみ込むと、私の頭を指でムニムニと摘まみます。
「ま、猫太が毎日忍び込めるぐらいにはズサンなんだろうけど、ばれたらもう二度と入れなくなるかもしれないからね。そんなことになっちゃったらあんたもあの子も悲しいでしょ?」
マールです。
それはともかくここの通路は先ほどの冷たい壁とは違い、真っ白な石のようなもので出来ていました。窓も設置されており、明るい光が建物内に満ちています。通路の先からは人の気配がするので、私はご友人が開けてくださった窓から外へと抜け出しました。
「また来月」
ご友人が私にもそう声を掛けてくださるのを聞いて、にゃあと声を返すと私は施設の床下へと潜り込みました。私の三角の小耳に挟んだ話では三百年以上の時を超えてきたこの施設、既に手入れされることもなくなって、その床下には風雨とネズミによって作られた無数の穴が張り巡らされているのです。勝手知ったるなんとやら、私は数匹の痩せた鼠を追い払いながら床下を潜り抜けて市街へと向かいました。
崩れかけた塀を登り、トタンの屋根へと飛び上がります。朽ちて錆の浮いた部分は足を汚してしまうので巧みに避けつつ、上へ上へ。建物の天辺へとたどり着くと、施設の床下で付いた砂埃を払います。猫たるもの、綺麗好きであらねばなりません。
――さて、と。
身づくろいを終えた私は改めてご主人様の住まう施設を眺めました。その木製の建物は何百年もの歴史の中で増築と改築を繰り返し、結果として巨大な牢獄のように薄暗い雰囲気に包まれているのです。この星の衰退を体現するかのように。その牢獄が闇に沈むまで、私は屋根の上に座り込んでいました。
その後、私は家路を急ぎます。私の家は魚屋の角を曲がった裏手の空き家。ここは数年前、とある友人に譲り受けました。衛生面には少々の不安がありますが、周囲に危険もなくて利便の良い好立地なのです。
翌日、起きて最初に吸った空気は重く湿っていました。耳を立てて、外の音に耳を澄ませてみるとサァァと川が流れるような音。雨のようです。
猫と言うのは濡れるのが嫌いな生き物です。もちろん猫である私も例外ではありません。濡れ鼠という言葉はありますが、濡れ猫だって酷いものです。しかし生きるためには外出しなくてはなりません、わかりやすく言うとお腹が空いています。
ゆっくりと、覚悟を決めて寝床から通りへと足を踏み出しました。屋根の下を進んで市場へと向かいます。雨は相も変わらずしとしとと……正直うっとうしいですね。
穴だらけのアーケードの下を進み、ヒト優先の道路を渡り、林さんの家から塀の上へと登って、三件ほど先の手入れされなくなって久しい生け垣の隙間をくぐり抜けます。
さあ着きました。美味しいご飯が苦労せずに手に入る、伝説の桃源郷こと、山田さんのお宅です。
山田さんの前で美味しそうにご飯を頬張ること。それが我ら猫と山田さんの間で交わされた無言の約束。我らは心のままに山田の恵に感謝すること。それが山田さんの心の欠けた部分を埋めて、我らの胃の中をも埋めるのです。なんとも非の打ちどころのない共存関係でありました。
しかし本日の山田氏は様子が違いました。いつもより多量のご飯が盛られたお椀、その周囲には袋のまま放置された幾多のご飯もありました。そして山田氏はいつもの椅子に座ってはいるものの、笑顔の絶えない温和なお顔を両手で覆い隠していました。ぽつりぽつりと漏れる声、それは我々に対する謝罪。しかし我々猫はただモリモリとご飯を頂くしか出来ることはありません。
――ごめんな。
そう聞こえた言葉が意味するものはわかります。ただ、山田氏が謝罪する理由はわかりません。山田氏は人間、私は猫。その違いは謝罪するような事柄ではないのです。
とりあえず、山田氏のお宅にばら撒かれた食料の中から状態の良さそうな物を三つほど拝領して、私は家まで持って帰りました。雨の降る中で三往復するのはなかなかの仕事でしたが、袋に入った食料は保存性もよく、しばらくは籠城することも可能でしょう。
それからしばらくの間、私は涙を流す空を見上げて過ごしました。降り注ぐ雨はぽつりぽつりと緩やかなメロディを奏でることもあれば、とっとっとっと軽やかなリズムを刻むこともあります。飽きる事なく演奏を続ける雨達を、飽きる事なくぼんやりと眺めていました。
そのままうとうとしていたのでしょう。ぱちりと鼻に弾ける衝撃を感じて、私は驚きと共に目覚めました。雨粒が鼻にあたったようです。軽く首を振って頭に血液を送り込むと、私は正面に立つ一匹の男に気づきました。彼、ロディは私の旧知であり、悪友のようなものです。全身を艶のある黒い毛が覆っており、足の先だけが白くてふわふわとしています。結果、妙な愛嬌がある不思議な猫物です。
「気分はどうかな、マルコ」
相変わらず芝居がかった声をしています。起き抜けの頭でとりあえず挨拶を返します。
「おかげ様でどんより憂鬱な目覚めですよ、ロディ」
ちょっと失礼と鼻先の水気を右手で払います。顔が濡れているという状態は猫的にあまり気持ちよいものではないのです。
「それで、何の御用ですか。ヒトの真似をして、まずは歓迎のお茶でもお淹れしましょうか?」
「出来ないことを言うな」
ロディはフンと鼻を鳴らして続けます。
「用件はいつも通りだよ。お前の意思を確認しにきた」
ロディは掴みどころのない表情で、面白みのない用件を口にします。対して私は堂々と嘆息混じりの返事をします。
「その件はもう十分に話したでしょう。私はここに残りますよ」
私の答えにロディは呆れたように髭を動かしながら反論します。しかし反論の内容も既に何度も聞いたもの、とっくに聞き飽きてしまって私の心を動かすには至りません。
要約すると「この土地を捨てて新天地へ」というお誘いなわけですが。
「ロディ、この件に関しての私の答えはもう決まっているのです。ご主人様のそばにいる。この星で最後までご主人様と過ごしたいのですよ」
ロディは耳を立て、髭を怒らせて反論しますが、私の耳には届きません。彼の主張は正論なのだと思います。食料もロクにない世界よりも、未知なる新天地へ旅立つことを望む。未来に希望を抱く、それは立派な答えでしょう。
しかし、私の望みは彼とは違うのです。
「まだ時間はある。また来るからな」
そう言い残してロディは去りました。
「私はね、この星を愛してあげたいだけなのですよ」
ロディの帰った後、私は暗闇に向かって呟きました。最後まで愛されることなく使い潰されたこの星、私は嫌いじゃないのです。私は嫌うほどもこの星のことを知らないのだから。
雨が弱まった隙にご主人様の所へと向かいました。
相変わらず仕事と書き物を忙しく続けるご主人様の横で、私は眠りにつきました。
夢の中で、広大な砂漠に月明りに照らされたピラミッドの姿を見ました。ぼんやりとした光に包まれた夢うつつな幾何学構造物。ご主人様と二人で、明るい夜空の下で、黙って見つめていました。
「二番から二〇番まで解放。四〇には閉鎖し、隔壁を順次開いてください。三三番から四二番は連結。LLカンゼリア型二七号に合わせます。待機を。四三、四五番まで休止。その後四六から七二までは小口へ。二七七件を五五までに完了してください」
「同時閉門、二から二〇、及び四五からエンドまで。隔壁内SK濃度が上昇していますので注意を。カンゼリア班以外が明日まで9番へ。三々〇々ATの許可を申請、受理後こちらで手動で流します」
「一七番異常。緊急性は低レベル。五三番に反応在り、処分を」
「オール」
「次は七〇〇〇から」
――そこでは雫と呼ばれている、七色の宝石をちりばめたような布地。虹を封じたような鮮やかな光彩は永遠にくすむことなく輝き続けると言われる。旅の道連れにと譲り受けたのだが、不思議なことに砂漠を出た途端にその輝きは失われてしまったのだった――
「なんか違うんだよねえ。どう思うマール? 綺麗なものを表現したいんだけど、頑張れば頑張るほど変な表現になっていくんだよ。難しいなあ」
にゃあ。
――夜の帳が降りた後、砂漠からは音も色も失われる。墨を流したような深い闇色の空と、鈍く輝く銀色だけが世界を彩っている。月光を受けたピラミッドはその光を反射して、暗く沈んだ砂の海に一筋の道を作る。砂に混じったガラス質がキラキラと光り輝きながら、遥か彼方まで続く道標となる。無色無音の世界に佇むのは思慮する獣、スフィンクス。星が壊れるほどの永い時を超えてもなお、彼はただ黙して思考を続けるのだった――
「二〇番アクリエイジへ三二番まで。三三番から五〇番まで、膜が補填に入ります。五一番以降は通常。七四番から八三番まで接続、二〇後より順次開放。こちらからやります」
「三四番、接触。解放後に確認願います。解放は一〇四四を予定。」
「変化なし。続行ください」
「二番から調査入ります。順次接続、解放を」
「今回のお話はね、砂漠を更に東へ東へと進んだ先にある世界一高い山の話。って言っても山に登ったわけじゃないんだけどさ。山の間を縫うように道が走っててね、その間を行くんだ。それでも凄い道なんだけどさ。標高何千メートルっていう空気の薄い場所を馬でのんびり通っていくんだよ。慣れてないと何もしなくてもしんどくて大変なんだ。立ってるだけ、馬に乗ってるだけでもしんどくってねー、もう大変! 同じ星なのにこんなに違うんだから不思議だよねー」
「で、世界一の山は世界の壁なんて名前で呼ばれてるの。昔、そこには神様が住んでる山って言われた凄く高い山があったんだって。けどさ、世界を潰すぐらいの戦争があって爆弾がその山を吹き飛ばしたんだ。だから世界一の山は世界一ではなくなってしまった。神様が住んでいた山が吹き飛んでしまって、地元の人々は凄く悲しかっただろうね。
でもね、その人たちは諦めなかった。世界一の山の跡に世界一の山を復活させようって考えた」
「世界一高い山を作る。簡単な言葉だけど、実際に作るのは大変だろうなってことはわかるよね。でも、作ったら作ったでまた吹き飛ばされるかもしれない。作り上げるのにかかる労力も計り知れないし、どうしたものか…。そこで当時の人は考えた。考えに考えて、その問題を解決したんだよ。そして今なお世界一であり続ける壁を作り上げることに成功したのでありました」
「その世界の壁にどんな技術が使われているのか、今では誰にもわからない。ただわかっていることは、その壁がずっとずっと縦に伸び続けているということ。
実際、ふもとまで行って見上げたら凄い風景だったよ。土じゃないんだ。すっごくく硬い。何かを固めたようなざらざらしたブロックで出来ているの。それが途方もないぐらいの数を組み上げて作られているんだ。上のほうは雲がかかっててほとんど見えないんだ。すごく遠くの山の上からじゃないと見えないみたい。ずっとずっと人じゃない何かが壁を作り続けているんだって」
「すごいね」
「うん、世界ってすごいよねー」
「それじゃね、また来月」
「またね」
「にゃあ」
「あと二ヶ月かぁ」
ご主人様を別れた後、ご友人は夜空を見上げて呟きました。
ある日、私は町でご友人を見かける機会がありました。薄くけぶったような天気の日、私は寝床から少し離れた公園を訪れました。辺りの様子を伺い、天敵の姿を探していました。子供はどうにも苦手なのです。すると公園の向こうにそびえる大きな建物からご友人が出てきました。
ご友人はこちらに気付くと私に手招きをしました。近寄っていくと、
「あの子には内緒だからね」
と、言いながら鞄から出した飴を私にくださいました。食べたことないのですが、猫である私が食べてもいい物なのでしょうか?
「じゃね、私は仕事があるからいくよ。あの子に宜しくね」
ムニムニと私の頭を撫でて、ご友人はお仕事へと向かわれました。
何を内緒にしろと言われているのかわかりませんが、飴を頂いた時点で共犯にされてしまったのでしょう。迂闊な事を言いたくても、そもそもご主人様には伝わりませんが。
とはいえ、内容も知らずに共犯扱いと言うのは耳の後ろがずっと濡れているかのようで、実に気持ちの悪いものです。しかし誰かに質問できる問題でもありません。
それから私はご友人があの建物の中でどのような密事を行っているのかを確かめるために監視していました。どうやら毎日早朝から昼前の限られた時間、ご友人はその建物に出入りしているようでした。そして用件が終わると急いでお仕事へと向かわれるようです。
三日目から、私はご友人のいる建物の中をのぞくようになりました。高い塀を伝って2階のテラスから窓越しに見ると本、本、本。どうやらここは図書館のようです。換気のためでしょうか、開け放たれた窓から容易に中へと入りこめました。人気のないホールの真ん中、大きな机にご友人が一人で陣取っています。
6人分の椅子が備え付けられたテーブルの真ん中にたった一人で座ったご友人、一冊の分厚い本を手にして……寝ていました。それはもう、豪快に。
ご友人の寝息にお静かに……と心で念じ、私は周りの様子を見ながらテーブルに近づきました。人に見つかるのは危険ですが、ご友人の読まれている本が気になったのです。猫の好奇心は人のそれを軽く超えるのですよ。
テーブルに飛び乗り覗き込むと、ご友人の枕となっている本が見えました。タイトルには「東方見聞録」と書かれています。内容まではわかりませんね。
本の横、ご友人の顔のすぐ前には紙が置いてありました。メモでもつけていたようで、ご自分で書かれたらしい丸まった文字が並んでいます。
メモの内容を読もうと近づいた時、
「ん……」
小さなご友人の小さな声。私はドキリとしました。ばれない様に早々に退散しましょう。
チラリと見えたメモ用紙の一番上、恐らくタイトルは「海と黄金の国」という文字でした。何を意味するかはわかりませんが、これが密事の内容なのは間違いないと思われます。
取りあえずご主人様に害を為すものではなさそうなので問題はないでしょう。それが確認出来ただけでも十分な成果と言えますね。
日常は続いていきます。
ご主人様は書き、語り、泣き、笑います。その横で私は眠りにつくのでした。
「五二番から七五番まで、本日より凍結」
「ごくろうさまでした」
「二番から一二番は搬出へ。一三番から三五番は通常。それ以降はアイルバンクスの管理へ。手動のみで運行します」
「シグルルは配備終了、コウシエントは四三〇〇に四三番から五〇番へ。本日最終となりますね。立ち合い願います」
(カタカタカタカタ)
「三三〇〇没。次は四〇〇〇より再開します」
「ふう、暇になってきたなぁ……」
――世界の壁。正確には壁ではない。何かを包み込むように筒状に作られている。その内側の世界についての知識は失われており、様々な考察がなされてはいるがどれも憶測の域を出ないものである。
幾何学的な模様を施されたブロック、そのブロックを幾つかのパターンに沿って積み上げる。どこまでも高く、いつまでも堅固に。
人目を阻むために作られたその壁、しかしその壁は皮肉にも人目を惹きつける結果となった。人目を惹きつけ、そしてなおも、人目を阻み続けるその様を人々は壁と呼んだ。
今日もまた、この壁は高く堅くそびえている――
「ねえマール、私はこの壁が人間の心みたいに思えるんだ。人の心は人を引きつける。けれど、決してその本当の中身は見せないんだよ。とっても矛盾した壁。どうかな? 面白くない?」
「猫には難しいかな?」
猫だからわからないかもしれません。
猫だからわかるのかもしれません。
「にゃあ」
しかし猫には鳴くことしか許されません。
そうして毎日が過ぎていきまして。
意味を探しているうちに過ぎていく日々でした。
かけがえのない、意味のない日々でした。
人間はそれを日常と呼ぶのでしょうか。
今日もまたご友人がいらっしゃいました。背中には大きなリュックを背負っていますが、中はスカスカのようです。私でしたら優に5匹ぐらいは入ることが出来そうです。中から猫がたくさん出てくるバッグ、とってもメルヘンですが事件の香りがしますね。
「詩中って言うんだって。昔は物凄く大きな国だったらしいよ。凄く広い高原とか人にあふれた都市とか、海沿いには外国の文化を取り入れた都市がたくさんあったんだってさ。
ふふ、これがお土産ね」
鞄からごそごそと荷物を取り出すご友人。妙に赤くてテカテカした帽子と白と黒に彩られたゆったりとした服。詩中という国の民族衣装のようです。
ご友人は目を丸くするご主人様にてきぱきとお土産の服を着せていきます。ゆったりとした服は左右から重ねて、胸の前で紐を止めて完成。妙にぶかぶかした印象に加えて、頭にちょんと乗せた真っ赤な帽子。子供のお祭り衣装なのでしょうか?
「それじゃ、今回のお話を聞いてもらおうかな」
そう言って、ご友人はお手製の地図を取り出しました。
非常に長い城壁がありました。それは外敵から国を守るためのもの。とはいえ、無用に巨大な城壁は幾度も放棄されていて、あまり防壁としての役目を果たしていなかったそうです。実に非合理的なお話ですね。
しかし、この巨大なる国が外敵におびえると言うのも変な話だなと猫たる私は思うのですが、どうやら人間は敵国そっちのけで同じ国の中でも喧嘩し合うものらしいのです。誰が得をするのでしょう、外敵ですかね。
ちなみにその城壁は何千年もの間、世界一の建造物と詠われていたそうです。いや、今も変わらず世界一なのかもしれませんが、このご時世では手入れを行う人もいません。時を経て崩れ落ち、自然に浸食されてしまっているのでしょう。どの程度の部分が残っているかもわからないありさまの様です。
その壁を超えて山の間に築かれた間道を延々進んでいくと、広大なる草原地帯へとたどり着きます。広い広い広い。とにかく広い。とはご友人の弁。多少、信憑性に疑問の声をあげたくなりますが、残念ながら私の声は届きません。これほどにおっしゃるのですから相当に広い場所なのは確かでしょう。
草原地域には過去の大都市と見られる大規模な遺跡群が幾つか存在する様です。北の都に南の都、当時は相当な人口を抱えたであろう都市達。放棄されて久しい現在では崩れた建物が密集しており、迂闊に近寄ると大規模な崩落を引き落としかねない危険な状態となっているそうです。
今なお残る街道と、威厳だけを遺し伝える都市部。そんな街並みを幾つも眺めて超えていきますと、広大な河にぶつかります。過去の文献によると世界でも最大級の長さと川幅を誇る、実に雄大な河だったようです。残念ながら現在ではほとんど干上がっているらしいのですが。
川沿いをずっと下って行くと巨大な都市遺跡にぶつかります。ここはかつてこの星が最も栄えていた時代にこの地方の中心となっていた都市でした。夜も眠らぬ不夜の城と呼ばれていたそうですが、人のいなくなったこの時代では昼なお目覚めぬ不朽の魔都と言ったところでしょうか。
技術の粋を結集して組み上げられた都市群には、人が居なくても街機能を維持するための機械が数多く配備されていました。長い年月の間にその多くは機能を停止してしまったようですが、それでもなお働き続けて主の帰りを待つ者たちもいるようです。彼らはこれからも待ち続けるのでしょう。ピカピカに磨かれたビルディングと共に、かつての主達のことを。
「で、私はついに到着したわけだよ。どこに? 海に。もう一つの海に」
ご友人は気持ちよさそうに語り終えると、残った紅茶を一息にあおりました。すかさずご主人様は空いたカップにお茶とシロップとミルクを注ぎます。ご友人の提案でジャムティーなる小粋な飲み方も用意してあったのですが、お二人とも二杯目からはいつものミルクティーに戻ってしまいました。
「もう一つの海も大きいんだ。水平線、まさに水平線。海のかなた。低い雲に覆われた空と瑠璃色の海、もうね、どれだけ遠くを見てもそれしかないんだ。」
まだ終わってなかったようです。ご主人様もうんうんと相槌を再開しています。
「さてさて、海の向こうには何があるのかなってところでぇ、今回の話はおしまい。ご清聴ありがとうございましたー」
パチパチと二人分の拍手が部屋に響きます。残念ながら猫は拍手が出来ませんし、たとえ出来たとしても肉球のせいで音が出ません。意思表示は「にゃあ」の一言で事足りましょう。
一息。
ご友人の話が終わり、いつも通りにお二人はのんびりとした時間を過ごしました。私もご友人に突かれながら微睡、ご主人様に突かれながら夢を見ていました。
夢うつつ。夢のような時間。そんな安っぽい言葉であえて語りましょう。何にも縛られたくないほどに幸せな、この時間を。
「それじゃ、また来月」
「あと一か月なのかぁ」
ご友人は最後に一度だけ振り向いて、
「次が最後か……。実感ないなぁ」
そう呟いてからお帰りになりました。
二週間後。この星にアレがやってきました。
私はご主人様の隣で、ご主人様の仕事を見ていました。
「一番から五三番まで開放。五五番から六二番まで開放、こちらは護衛艦トゥルブスが入ります」
「開放確認。ノア、入ります」
「一〇〇〇後、閉鎖。本日の乗務は以上。次はノアの発艦までありません」
その後、コンソールのモニターには巨大な箱型の何かが映し出されていました。ノア、ご主人様がそう呼んでいた箱。人間を救うための、いやこの星の生き物を救うための箱。巨大な箱が水路に浮かんでいます。
「格納確認。一番から六二番まで閉鎖。以上」
コンソールを軽く叩いて、ご主人様はモニターに映る箱を眺めました。その後、視線を跳ね上げて天井を見つめます。いえ、天井よりもっと上の空を見つめているのでしょうね。猫でもわかります。
「ついに来たね、マール」
視線を私へと降ろします。私と目が合うと、ご主人様は微笑みました。ぎこちない笑顔で、微笑みました。
「私にはあんまり関係ないのかもしれないけどね」
ふぅ、とため息。私はご主人様のため息に「にゃあ」と返事をしました。ご主人様は私の返答に少し笑ってくださり、こう言いました。
「心配してくれてるのかな。ありがとう。大丈夫、ちょっと寂しいだけだから」
それは大丈夫とは言わない。私はそう思ったのでもう一度だけ「にゃあ」と声をあげておきました。伝わらないからこそ、真っ直ぐに意思を投げるのです。
「なんですか、それ」
「餞別」
翌日、私が家でくつろいでいると、ロディが箱を咥えて現れました。箱の名前からすると我々猫の食料のようです。流石ロディ、私好みのカツオ入り。
「賄賂?」
「餞別だっての。もうお前を説得しようだなんて思ってないさ」
三和土に箱を置いて、お邪魔するよなどと言いながらロディが家に入ってきました。黒猫ロディはいつも通り、小奇麗な所作ですがどことなく斜に構えて歩きます。ロディは私の座っている前まで来ると、軽く埃を払ってから同じ様に地面に腰かけました。
「ついに来たみたいだな」
「何がですか?」
ウチを訪問してくるのはロディぐらいなもんです。猫というのは基本アウトローな生き物ですから。たぶん。
「それぐらい察しろよ……。いや、知った上でとぼけてるのか」
呆れたように言うロディ。そんな言い方されても困るのですが、確かにここまで大仰な言い方をされる物といえば心当たりがなくもない。
「ノアのことですか」
「そ」
短く返事すると、ロディは西の壁を見ました。そこには窓はありませんが、言いたいことはよくわかります。その視線の先、壁の向こうにあるのは宇宙艦を格納している大規模ドッグ。
人類の希望であり、ご主人様の仕事場でもあります。
「明日だ、俺は明日あれに乗る」
「猫専用の乗船券でもあるんですか?」
「さあな? ただ、あの船は動物でも乗せてくれるらしいからな」
そんなに都合のいい話なんてあるのでしょうか?
「神話に聞くノアの方舟に乗れたのは、動物のつがいだけだったはずですが……。貴方にパートナーなんていたのですか?」
ロディはぴくりと耳を動かしました。
「お前、人間の神話なんてよく知ってるな……。俺が聞いたのは現実のノアの話、あそこにある船のことだけだ。この星に生きる限りの全ての生き物を救いたいとかなんとか、そんなありがたいお話だよ」
「貴方がその話を信用した上で乗り込むのなら、それでいいと思いますけどね」
「お前、ホントに興味ないんだな」
そう言って毛繕いをはじめました。
「この星の空ってホントは青いそうですよ」
この星の最後に、この星の話をしよう。
「あん?」
ロディは首を傾げています。
今でこそ、空は低く黒ずんだ雲に覆われているけれど。
「昔々のお話です。空の青、海の青などと言われてたぐらいに美しい青の世界があったのですよ」
目を閉じても浮かばない、想像も出来ない世界のお話。
「へぇ、そりゃあ一度見てみたかったな」
ロディは眼を閉じて言いました。
「そうですね。見てみたいものです」
私も真似をして眼を閉じました。
「俺も聞いたことがあるぞ。緑の草原の話だ。丘の向こう、山の向こうまで続く一面の草原があったらしいな」
「いいですねぇ。そんなところを走り回ってみたいじゃないですね」
「そうだな。……そうだよな」
誰に聞いたかも定かではない、昔々のこと。
それは私達の生きてきたこの星のお話。
翌日、ロディは方舟へと乗り込んだのでしょう。私は見送ることもせず、ただご主人様の所でのんびりと微睡んでいました。
ご主人様は仕事もなく、延々と執筆を続けていらっしゃいました。
ある日、町でご友人を見かける機会がありました。
いつもと違うヒラヒラとした薄い生地を重ねたドレスをお召しになったご友人。見かけた場所もいつもと違いました。町の大通り、その中心にある噴水の傍にいらっしゃったのです。
いつもは人で賑わう通りですが、最近になって急激に人が居なくなりました。方舟に皆乗り込んでいったのでしょう。そうして人気が途絶えたからこそ、いつもと違う衣装のご友人にも気付くことが出来たのですが。
ご友人は背筋をスッと伸ばしたまま、どこかを睨むように見ていました。その先にあるのは言うまでもなく方舟。ご友人もまた、思うところがあるのでしょう。
私はその足元へと近寄り「にゃあ」と声を掛けました。まだこちらに気付いてなかったご友人は驚いていましたが、私だとわかるとしゃがんで目線を合わせてくださいました。ドレスの裾が地面に付いて汚れてしまうのもかまわずに。
「やあっ」
いつも通りの調子で挨拶して頂いたので「にゃあ」と返事を返します。伸びてきた手が私の頭をぐしぐしと撫でるのもいつも通りでした。ご友人はそのまま無言で私の頭をしばらく撫でました。ここだけはいつも通りではありません。
ため息。そしてご友人は私の腕の下に手を差し入れて、体を持ち上げました。両の足は地を踏んだまま、二本足で直立しているような恰好で私はご友人と向き合いました。そしてご友人の独り言が続きます。
「明日、会いに行くのが最後になるんだ」
ご友人は目を伏せて、独り言が続きます。
「私は本当のことを言うべきなのかな。旅なんてしていないって。ホントは図書館で調べてそれっぽい話をしていただけだって」
ご友人は私の鼻に自身のお鼻をくっつけました。それでも口は止まりません。
「あの子、ずっとあの建物から出たことないんでしょ? 凄い才能があって、彼女じゃないと膨大な数の資源船を管理出来ないからってだけの理由で。それだけでずっと閉じ込められてるんでしょ?」
ご友人は顔を伏せました。
「最初は自慢のつもりだった、のかな。たぶん。何不自由なく暮らしてるから、ちょっとしたいたずら。外の世界は楽しいよって、それだけ。それだけだったのに、あの子はホントに、嬉しそう、だった」
雫が垂れて、地面を濡らしていました。
「騙そうなんて、思ったわけじゃ、ない。でも、そんな気持ち、なかったわけ、じゃ、ない、と思う。わかんない。謝ったら、ゆるして、くれ、るかな。でも、わた、ゆるし、ほしいの、かな?」
こんな時、なんといえばいいか悩まないで済むから猫でよかったと思うのです。
「にゃあ」
無責任な頑張れではなく、屁理屈捏ねた精神論でもなく、知ったかぶった心の代弁者でもありません。ただ、私はここにいるよという自己主張に過ぎません。それ以外の言葉を私は持ちません。
それでも穴に向かって叫ぶよりはいいでしょう?
もう一度。
「にゃあ」
ご友人の顔を見上げて、
「にゃあ」
「にゃ、にゃあにゃあ」
これはご友人の鳴き声。鼻をすする音も混ざっていますが。
「悩んでも、しょうがない、にゃあ」
悩んでも悩まなくても、言っても言わなくても時間は過ぎていく。猫は知っているんです。何があってもなるようになる、それが生きること。
「うん、決めた」
ご友人は何かを決められました。その結果で何かが変わったとしても、なるようになるでしょう。賽は投げられた、猫はコタツで丸くなると申します。
翌日。ご友人がご主人様の部屋にいらっしゃいました。
黄金の国のお話が始まります。
二つ目の海のただ中に浮かぶ大小幾つもの島からなる国。その小さな国そのものに大きな価値があったわけではありません。しかし非常に目を引く大きな特徴を持つ国でした。黄金の国の名前そのものの由来でもある黄金、ゴールドです。
金の装飾を煌びやかに身に着けた人々、黄金で作られた住居。その国において金の価値というものは存在せず、金はありふれた鉱石の一種でした。
あふれんばかりの金で身を飾った人々、しかし派手な見た目に反して彼らは非常に礼儀正しくて秩序正しい生活をしていたと言います。
と、言うのが昔々の東方見聞録で語られていた頃の黄金の国ジパングでした。
現代のジパングは――
「と、お話はここまでです」
ご友人の言葉で、私の意識は黄金の国から荒廃した星へと引き戻されました。
「今日のお話は短いんだね」
ご主人様が残念そうにつぶやきました。
「ごめんね。今日は時間がなくってさ」
「そっか、残念」
「ホントごめん。いつもみたいにのんびり紅茶を飲みたいんだけど、急いでてさ。だからちょっと用事だけ言っちゃうね。
これが今回のお土産です。世界に一冊しかないんだからね」
ご友人が鞄から出した右手、分厚いノートが握られていました。
「これは私の書いた東方見聞録。今までの旅をまとめたもの」
驚きながらも受け取るご主人様。次々と出てきたノートは五冊分。通し番号が若い物はかなりの年季が入っており、下手に扱うと破れてしまいそうです。
ご主人に手渡されたノートには丸っこい字でデカデカと『東方見聞録』と書いてありました。その横には十二代目の文字が小さく添えられています。
「それとね、今日はお願いがあるんだ」
「お願い?」
ご友人はもう一冊のノートを鞄から取り出しました。先のノートと同様の色違いで、こちらにはタイトルが付けられていません。どうやら新品の様です。
「これは……?」
「書いて欲しいの。貴方の目で見た世界を」
これがご友人のお願いのようです。
「昔、一冊の本を図書館で見つけたんだ。それが十一代目の東方見聞録。書いた人は別に有名な人でもないし、書かれているのが本当のことかもわからないよ。でも、代々伝わってきたその本には夢が詰まっているなって、そう思ったんだ。
だから私は十二代目の東方見聞録を書き始めた。誰に向けて書いたわけでもないし、何か意味があるわけでもないんだけどさ。ただ、書き続けた。書きたかった」
一息。
「もう私には書けないからさ。書いて欲しいんだ、キミの見た世界を。キミの東方見聞録を。この星で生きる証を」
「……」
「ごめん、ね。もちろん無視して貰って構わない。何の意味もないことだよ。単なるわがままだから、気にしなくてもいいんだ、けど」
ご友人はご主人様を見上げて、言葉を詰まらせました。
「ただ、ねっ、続きを、ね、書いて、ほし、んだ」
「うん……」
「これは、さ、この星、の話、だから。私、には、もう、続き、は、書けそうに、ない、からさ……」
「うん……」
ご主人様はハイともイイエとも取れない返事だけを返しました。ご主人様は感情表現が苦手な方なので仕方ないのです。ここは私がひと肌脱ぎましょう。
「にゃあ」
心配ないよと、私は高らかに声をあげるのでした。
記すも一興、記さぬも一興。生きる事に意味を求めなくてもいいのでしょう。
ご友人がお帰りになると、急激に部屋の温度が下がっていくような気がしました。残されたのは五冊の東方見聞録と一冊の白紙の東方見聞録。
「お茶、淹れようかな」
ご主人様はそう言って席を立ちました。
「五冊読むのは流石に時間が掛かりそうだね」
そう呟きながら。
今日は少し違った日常でした、それでも時間はのんびりと過ぎていきます。
その日、私の知る限りでは初めてご主人様は施設から外へと出ました。空へと飛び立つノアを見送るために。重く低い空へと飛び立つノアを、私はご主人の腕の中で見上げました。
雲を割って、空へと消えるノアを見送った後、私たちは施設に戻ります。ご主人様はいつものコンソール前に立つと「閉鎖します」と、マイクも使わずに呟きました。そして端から順にキーを叩いていきます。光の軌跡が順番に増えていき、溢れだしそうな輝きに包まれていきました。
「さ、て、と、これから何をしようかな」
トトトトト、小気味よい音と立てて全てのキーを叩き終わるとご主人様は満足そうに微笑んで、私を見下ろしました。
「マールはなにかしたいこと、あるかな?」
頭の後ろで両手を組んでくるりと回ると、ご主人様は木製の廊下を歩き出しました。私も続きます。
「とーりあえず、今まで出来なかったことをしようか」
ドアのない部屋を抜けて、無機質な通路を超えて、重いたいドアをくぐりました。初めてこの重いドアを開けたご主人は息を切らしていましたが、それでも息を整える前に歩き出します。
施設の玄関ホールにも人はいません。ご主人様はキョロキョロとあたりを見回しながら歩きます。観葉植物やベンチなどはそのまま残っているのですが、何かが足りない感覚。人の発する空気のようなものだけが消えてしまったのです。人の間を生きる時は、そんな物の存在にすら気づかなかったのに。
玄関ホールを抜けてガラス戸に触れたご主人。息を、吸いました。決心を固めて。
初めての世界へ。
けっして美しくはない世界。淀んだ空、濁った海。それでもご主人様が夢に描き続けた世界。
「ねぇマール。この世界には幾つの初めてが私を待っているのかな? 数え切れないぐらいの初めてと出会える旅になるんだろうね」
ご主人様は私を抱え上げて、笑顔で言いました。
「とてもとても楽しみだね」