ほんの少しの解放
光に必要な物、それはきっと、たくさんある。俺にできるのは、それを少しだけでも、光の元へ届けることだろう。
だって、俺は光の事を、こんなにも強く助けたいと思っているのだから……そして、気づかなかったけど、少しだけ、好きになってしまっているのかも、しれないから。
時刻は夕方の五時。昨日より一時間早いが、光は待っているだろう。
ベルを鳴らすが、今回も梅さんは買い物に行っているようで、誰も出てこない。だが、すぐにメールが届いた。
『入って』それだけ書かれたメールを目にし、ドアノブを回すと、鍵がかかっていなく、ドアが開いた。
「……お邪魔します」
光のいる部屋まで、いつものように廊下が続いている。俺はそこを進む中で、今日は光の悲しみや苦しみを受け止めるんだと、再び気を引き締めていた。
やがて部屋にたどり着くと、いつもノックしている場所に視線を落とし、いつもの様にノックした。
「入って」
昨日や、出会った時とは違う、出会って二日目の時と同じ、気持ちが沈んでいるときの声で、そう聞こえた。
部屋に入ると、ベットに腰かけ、空いた窓から吹き込む初夏の風に、その長い黒髪をサラサラとなびかせている姿が目に映る。
「調子は、どう?」
声だけ聞いたって、落ち込んでいるのは分かるのに、つい聞いてしまう。こういう時は、いつも話を流されてしまうのだが……
「悪く、ないわ」
光は、先ほどまでと同じ口調で、そう返してきた。
「今日は、きっと昨日よりも……暗い話になると思う」
続けざまに、光は言葉を投げかけてくる。俺は何も言い返さず、ただ黙って、机の横にある椅子に座った。
「……最後まで話せるかわからないけれど、聞いてほしい。私が、家に引きこもるようになったわけを」
話とはそのことだったのかと、重苦しい空気の中頷く。しかし、なぜその話を俺に? そんな疑問は、すぐに光の語りだした悲しい言葉によって掻き消された。
「最初はね……いじめがあったの……同級生からの、軽いいじめ」
一口に軽い、と言っても、いじめには様々な種類がある。
物を隠す、グループから外す、時には物理的に殴る、蹴るといった事も、あったかもしれない。
「私は、いじめには屈しなかったわ……それでも、とてもとても辛かったけど……」
徐々に、光の表情が暗くなっていくのを感じる。
……俺は、これをずっと黙って見ているのか? 光が、暗い過去を口に出し、ズブズブと心の闇の中に沈んでいく事を、俺は……
それが、悲しみを受け止める事なのか?
「次第にね……いじめる側も態度が大きくなってきて……男子も加わって……それで……」
光は泣いていた。大きな二つの瞳に、過去からの攻撃で傷ついた心からにじみ出てきたであろう、大粒の涙をぽたぽたと膝に落として……。
「それで……最後に、ね……」
震える声と肩、止まらない涙……違う、俺はこんなことをするためにここに来たんじゃない!!
「もういい!」
力強く光の両肩をつかみ、その"瞳"を見つめ、悲しみの連鎖を止める。
我慢が出来なかった。言葉を発するごとに壊れていくような彼女を、黙って見過ごす事なんて、やっぱり俺にはできなかった。
悲しみを受け止める? 聞いてあきれる。そんなものは、悲しい事を相手に無理やり嘔吐させるようなものだという事に、なぜ気づかなかったのだろう。
「いいか、光……もういいんだ、悲しい事は全部終わった! 忘れよう! 全て嫌な思い出だったと、過去にしてしまおう! もう思い返して、心を気づ付けることなんてしなくていい!」
俺は、前向きな言葉をぶつけながら、光に"吸血鬼の力"を使っていた。それは、些細な行動の指針や思想の方向を変えるだけの力だが、今の光を守るためならば十分だった。
そして、この時俺は、吸血鬼の力を使うことに、一瞬のためらいもなかった。
「これからは、俺がいるから! 苦しかったら俺が守るから、だから……」
これから発する言葉は、俺の叶わない夢を、光に託す言葉だった。それでも、"人間"にしかできない事だから、光にはできると信じている。
「人として、"やりなおそう"」
それまで、俺に肩を掴まれてから、涙を流すだけだった光の暗い瞳が、鈍い輝きを取り戻した。
「やり、なおす?」
言葉がたどたどしい。おそらく、吸血鬼の力の副作用だろうか。しかし今は、そんなことどうでもいい。
「ああそうだ! 失ったものを、幸せや優しさを取り戻そう!」
俺もかつて、光の様に苦しんでいた。幸せも優しさも、そんな暖かい物は何もない暗い部屋に、ずっと閉じ込められていた。
自分が吸血鬼だから、だから幸せになれない。だから優しさもない。そんな薄暗く、笑えてくるほど汚い部屋で、俺の過去は埋まっている。
それでも、俺は救われた。誰だかはわからないけれど、強く優しい手に抱きかかえられ、"あの部屋"を出ることが出来た。それで、また自分の人生を再スタートすることが出来た。
だから分かる。吸血鬼である自分だって苦しみから抜け出せたのだ。人間に、それが出来ない道理は無いと!!
人間に不可能なんてない。それを人間じゃない自分が知っているなんて、ひどく皮肉な話だ。そして、現実とは往々にして、そういうものなのである。
「今は、できない……ごめん、なさい」
結局、光の口からは、肯定の言葉は出てこなかった。
しかし、その表情は、先程までの沈んでいくだけの顔とは違い、どこか安らかな、安心感に満ちた赤子の様な顔をしていた。
「不思議、ね……あなたの言葉を聞いていたら……眠くなってきちゃった」
これも吸血鬼の力の副作用だろうか? それでも、光に先ほどまでの、壊れそうでいっぱいいっぱいな雰囲気が消えたのならば、それでいい。
「心が、少しだけ軽くなった気がするの……だから、今は寝かせて?」
うつらうつらとした声からは、少しだけ強い意思が伝わってくるようだった。
「わかった……」
まだ光を納得させてない。伝えたいことだってたくさんある。だけど、苦しみから、少しでも解放されたような光を、引き留めることは出来ない。
「お休み、光」
そう言うと、光の肩を掴んでいた手を、片方だけゆっくりと離し、もう片方の手で横たわらせる。
まるで死人を扱う様だと、小さく鼻を鳴らすと、光は心地よさそうに眠りの世界へと入って行った。
俺は、彼女を救うためとはいえ、吸血鬼の力を使ってしまった。本来なら、正体がばれる前に姿を消すところだが、あいにくと、光の事を守ると言ってしまった。
「本人は覚えてないかもしれないけどな」
夏の夕暮れ、太陽がほとんど沈んでいる道端で、一人佇む。
「それに、もうここまで来たら、とことんやろう!」
俺は吸血鬼だ。だから、いつかは彼女のそばを離れなくちゃならない。それでも、もうしばらくは、一緒にいよう。
彼女が一人で、外の世界へ歩き出せるまで……。
起承転結の起が終わったと思います。物語が終わりっぽいですが、まだ長く続きます。付き合っていただけたらなと思います。