プロローグ
特に語ることはないです。強いて言うならば、楽しんでいただけたら幸いです。
この世界には少しばかり、現実味がない生き物が、世間の影に隠れながら、存在している。
それらは皆、遠い過去の面影を残したまま、この日本にも、確かに存在しているのだ。
ここでは、"吸血鬼"の話をしよう。彼ら吸血鬼は、二十一世紀の日本でも、串刺し公がいた十五世紀のワラキアから、あまり姿形を変えずに、人間社会に溶け込んでいる。
しかし、確実に吸血鬼の数は減少し、今やおとぎ話のような存在として、人々の間に語り継がれているだけだった。
これは、そんな数少ない吸血鬼たち……その一人のお話。
人間になりたいと願い、人間を助け続ける。あまりに人間臭い吸血鬼のお話だ。
―――――――あの窓から差し込む光は、きっと全ての生き物に降り注がれるのだろう。あの窓の向こうには、たくさんの人々が手を取り合って、幸せそうに微笑んでいるのだろう。
そう、僕の見る世界と違って、暖かな光に包まれているのだろう……。
僕は、この薄暗く狭い檻の様な部屋の中で、この先も生きていかなくてはならない。出ることも、助けを呼ぶことも、出来ずに。
だって僕は―――――――
電池式目覚ましの機械的な音と、すずめのさえずりとが合わさって、朝が来たことを告げている。しかし、この重い瞼の裏には、先ほどまでの"悪夢"が張り付いていて、体を動かすことを止めている様だった。
「んん……」
しかたなく目覚ましのアラームを切るが、寝坊防止の為に設置した別の目覚ましが、けたたましい音と共に、無理やりにでも俺を起こそうとしてくる。
「……はいはい、起きますよ」
軽く頭痛のする白い頭を手で押さえつつ、ベットから起き上がり、部屋の端に置いてある目覚ましの所まで歩く。
「おかげで起きれたよ、ありがとさん」
そう言って電源ごと切り、ベットの上に放り投げた。騒がしいが、とにかく朝が来たのである。
「飯でも食うか……」
誰に言うでもなく、この『日陰野景春』は呟き、六畳一間の部屋の中を見渡す。朝やるべきことは、"食事"と外出のための身支度だけだ。
その食事が、気が乗らないのであるが……生きていくためには仕方ない。
「まずは歯磨くか……はぁ」
洗面台の前に立ち、本日一つ目のため息をつく。ため息で幸せが逃げると言うが、それがもし本当なら、目の前の現実も一緒に連れて逃げていってくれないものかと、淡い期待を寄せるが、すぐに頭を振ってかき消した。
「この"牙"がなぁ」
ため息と馬鹿な妄想の原因は、自分の歯、いやここは犬歯だろうか? とにかくそこに生えている、合わせて上下四本の"牙"にある。普段の生活では気を使って隠しているそれが、悪夢と寝起きでボーッとする脳によって、露わになっているのだ。
「先に飯食うかぁ」
どうも気乗りがしない。歯磨きを後に回し、食事に移ることにした。
「まだあったよな……ああ、あったあった……はぁ」
またもため息、原因は眼前にある冷蔵庫の中の赤い液体で詰まった鉄臭いビニール。医者である母から送られてくる、輸血用の血液であった。
「牙といい血といい……やっぱり、夢から覚めても俺は―――――――
吸血鬼なんだ」
食事と身支度を渋々済ませ、壁に画びょうで止めてあるカレンダーに向き合う。今日の日付は七月三日。その日の欄には赤ペンで、『老人施設のボランティア』と書かれていた。ついでに言うならば、前の日は『公園の清掃ボランティア』その前の日は『特別養護学校のボランティア』等々、遡ればどこまでもいく、輝かしい善行の歴史が連なっていた。
確かに、俺は吸血鬼だ。だが、母親は人間だ。つまり、半分くらいは、人間も混じっていると言えると自負している。だから、こうして世のため人のためと頑張っていれば、いつか完全な人間になれる……
なんて、夢物語を考えなくもないが、実際頑張っている理由は似たようなものである。
すなわち、"来世"は人間になるため、日々ボランティアに従事しているのだ。
「今日も頑張るかな」
そう言って、七月の太陽の下へと、歩いていくのだった。
まだ七月は始まったばかりだというのに、ギラギラの太陽からは、容赦ない太陽光が注がれている。たまに耳にする吸血鬼の話では、この太陽光の前になすすべがないように描かれているが、実際は違う。それなりの代償を払えば、それなりに太陽の下でも吸血鬼は歩いていけるのだ。問題はその代償だが、これは俺にとって大きいようで小さい。
ずばり、代償は"吸血鬼らしい能力"である。人の生血を吸わないで、あんな輸血用血液だけで吸血鬼として生活していれば、コウモリや狼を使役し、威圧する魔眼で人の心を操り、銃弾をものともしないスピードで相手の喉笛を食いちぎる……なんていう、世間一般でいうところの"ドラキュラ"の様な力が使えなくなるのだ。
まぁこんなもの、俺からすれば逆に人間らしくいられるので、願ったりかなったりである。
「だが暑い」
なんだこの熱気は、吸血鬼じゃなくてもきっとフラフラだぞ。仕方なく、近くの木陰に身を移し、背負ってきたリュックから、血を入れ替えた水筒を取り出し、何口か飲んでいると、目の前に水たまりができていることに気づく。
「そういや、昨日雨降ってたな」
血が入った水筒をしまいつつ、その水たまりに移る自分の姿に目をやる。
真っ白でサラサラな髪の毛を少し伸ばし、幸の薄そうな顔をして、ひょろっと伸びた手足と白い肌。それに細い肩幅やら大きめの瞳やらが合わさって、やけに女々しい姿が映っているが、正真正銘男である。……吸血鬼だが。
「だめだ、こんなとこいても自暴自棄になるだけだ」
女の様な、またはハーフの様な自分を見てられないので、さっさと進むことにした。
アパートから徒歩二十分、目的地の老人介護施設へとたどり着いた。この不景気の中でも、施設内が隅々まで綺麗に掃除されているという事は、人手不足と言うわけではなさそうだ。なら、いったい何のためにボランティアなど募集したのだろうか?
「すみません、ボランティアの登録をした日陰野ですが、ボランティア担当の方はどちらにいらっしゃいますか?」
小奇麗な施設内を歩いていた、無気力とも何とも言えない表情のナース服の女性を見つけ、背後から声をかける。振り返ったナースは、その表情のまま、廊下の突き当たりを指差した。
「ありがとうございます」
深々と頭を下げるが、相手はそそくさと歩いて行ってしまう。なんというか、これではいくら綺麗にしていても、施設を動かす人間がなってない気がしてならない。まぁみんながみんなニコニコしていても気持ち悪いのだが……
そんなことを考えながら、指差された場所へと向かう。部屋の扉の上には、『応接室』と書かれていた。
「失礼します」
ノックしてから入ると、中には長い椅子に深く腰かけた初老の男性が、やる気のなさそうな目つきでこちらを見ていた。
「君が景春君だね。まぁ座ってくれ……えーと、ボランティア慣れしてるらしいから、長い説明は省くけど、いいかな?」
そのやる気のない声としぐさが、説明する気はないと暗に示しているようなものである。しかし、慣れていることは事実なので、説明は省いてもらった。
「えーと、だったらこれ、それとこれも持って行ってね」
そう言うと、初老の男はプリントアウトされた地図と、家の鍵らしきものを差し出してきた。
……この施設の中でやるんじゃないのか?
「えーとね、君、悪いけどこの地図の家にいる老人の手伝いをしてほしいんだよ。まぁ専門的な事は何も知らなくていいから、とりあえず行ってきてね」
「はぁ……わかりました」
こんな事は、最近よくある。それは俺のボランティア三昧の毎日を知ってる人が、意外に多いからだ。そしてそんな人たちは、臆面もなくこんな無理を押してくるのだ。なに、今に始まったことじゃない。
鍵と地図を受け取ると、特に会話もなく部屋を後にしようとした時
「あ、一応一週間ごとぐらいでここに報告に来てね。老人に勝手に死なれても困るから」
けだるそうな声で、背中に投げかけられた。とても癪に障る物言いだったが、しっかり振り返り、お辞儀をして部屋を後にした。
――――――地図に示された場所は、ここからそう遠くない住宅街だった。アパートからも行けることはいけるので、何度も通うようなことになっても大丈夫だろう。
「えーと、このへんらしいな」
地図にはり付けてあった住所を辿り、代わり映えしない住宅街の角をまがると、一軒、他の住宅と違った、独特な雰囲気を持つ二階建ての住宅があった。なんというか、ここに建ち続けてきた貫禄が違うような、そんな気がする。
そして、その住宅の両隣は、空き地となっていた。とりあえずその片方の空地まで行って、隠れて血を飲むことにする。こうも歩きっぱなしだと、疲れて血が足りなくなってくるのだ。
「ふぅ、不味い……にしても、大きな家だな」
生血を飲んだことがないから、比べようがないが、輸血用血液は不味い。それはともかく、この家は両隣が空き地で、なんともいえない貫禄がある上に、結構な高さである。本当に老人が住んでいるのか? 疑問に思って二階を見上げてみると、そこにはベランダがあり、色々と干されている。
あれ? なんだか、可笑しなものが干されている……。
「……聞いた話じゃ、おばあさんの一人暮らしらしいけど……」
どう見ても、若者向け、というかおばあさんは絶対はかないであろう、色鮮やかで、花の高校生などがはくような下着がぶら下がっていた。
「いけないいけない……とりあえず、入ってみるか」
他人の趣味をどうこう言える身分ではないので、今のは見なかったことにする。頭を切り替えて玄関口に向かった。そこには、なんとも重そうな黒い玄関があり、『誰の立ち入りも禁ずる』といったオーラが出ているが、こちらも一応吸血鬼なので臆さずベルを鳴らした。
「はい」
あまりベルを押してから時間がたつことなく、インターホンから声が聞こえてきた。
「老人施設のボランティアで来た日陰野景春という者ですが、ここは須藤さんのご自宅ですか?」
老人の名は、須藤梅というらしい。なぜか表札が無かったので、いちいち確認しているのだ。
「あらあら……ちょっと待っててくださいね」
インターホンが切れてから数十秒後に、ゆっくりと階段を降りてくる音が聞こえる。
「あらまぁ、こんにちは。ボランティアご苦労様です。あ、私が須藤梅といいます」
出てきたのは、七十代くらいのおばあさんだった。深々と頭を下げてくる姿勢に、ついこちらも頭を下げてしまう。なんだ、顔がしわだらけな事以外は、普通の元気なおばあさんじゃないか。
「ささ、中へどうぞ」
「失礼します」
と、入ろうとするが、中々梅さんは進まない。なにやら足を気にしているようで、見てみると、右足に包帯が巻いてあった。
「怪我ですか?」
つい聞いてしまったが、梅さんは気にも留めずに笑って答えてくれた。
「ええ、半年ほど前、骨折してしまいましてね……今もリハビリ中なんです」
これを聞いて合点がいった。要は足の不自由なおばあさんだから、買い物とかを手伝えという事だろう。
「私のことは気にせず、ささ、中へ」
とは言われたものの、家の主を置いて自分だけくつろげるわけがない。肩でも貸そうかと悩んでいたとき、おばあさんが降りてきた階段の脇にある廊下、その先から、何か視線の様な物を感じた。
「……誰か、いらっしゃるんですか?」
奥を見ながら言うものなので、自然と梅さんもそちらを見る姿勢になる。そして、少し悲しそうな顔をして、答えた。
「今年で十七になる孫がいましてね……恥ずかしながら、引きこもりというやつです」
「そう、ですか」
なんだろう、何か奇妙な感じだ。いったい廊下の先にはどんな人間がいるのか、無性に気になった。
「お茶でも入れますから、孫のことは気にせず、居間の方へ来てください」
「あ、いや! 俺がやりますよ!」
とりあえず、今は引きこもりのことは忘れて、ボランティアの事に集中することにしよう。