豊穣の女神は貧しい辺境で微笑む 〜「役立たずの侍女令嬢」と嘲笑って追放した聖女さま、来年の収穫祭で干からびてくださいませ?〜
「セレナ・アディント、貴様を女神の侍女の任から解く。豊穣の祈りに一度も“実り”を出せなかった役立たずめ」
収穫祭の祭壇。数千の民が見上げる石段の頂で、神官長子息ガイウスがわたくしに指を突きつけた。
その隣で、聖女ミレーユが勝ち誇るように微笑む。
(……あら。前世で読んだ攻略本、そろそろ『答え合わせ』の時間ですわね)
わたくしは静かに、まぶたを伏せた。
喚いても、泣いても、この芝居はもう止まらない。だったら、最後まで見届けて差し上げましょう。
「聞いているのか、セレナ!」
「ええ。とても、よく」
わたくしが淡々と応じると、ガイウスの顔が苛立ちに歪んだ。彼は激昂する相手が欲しかったのだ。惨めに泣き崩れるわたくしを、大衆の前で嗤いたかった。
あいにく、その期待には応えられませんわ。
「見よ、この者の祭壇を! 十年祈って、花ひとつ咲かせられぬ! これが女神の侍女か!」
ガイウスが指し示すわたくしの祭壇は、確かに沈黙していた。土がむき出しの、飾り気のない石の台。
対して、ミレーユが指先を掲げれば——
ぱぁっ、と。
祭壇一面に、色鮮やかな花が咲き乱れた。真紅、黄金、菫色。民が「おおお」とどよめき、喝采を上げる。
「ご覧になって? 豊穣の女神ディアーナは、華やかなわたくしをこそ選ぶのよ」
ミレーユが金髪を巻き上げ、勝ち誇る。
「お前との婚約は破棄する。貧相なお前は、辺境の畑にでも引っ込め」
——ええ、喜んで。
わたくしは前世の記憶で、この国の伝承本を隅々まで読み込んでいる。
だから、知っているのですわ。
その咲き乱れた花が、なぜこれほど“見事”なのか。そして、なぜ来年——見るも無残に枯れ落ちるのかを。
「豊穣の女神は華やかな者を選ぶ、でしたかしら」
わたくしは、結い上げた亜麻色の髪をそっと撫でつけ、翡翠色の瞳を上げた。
「どうぞ、来年の収穫祭で。その干からびた祭壇の前で、もう一度おっしゃってくださいませ」
ミレーユが眉をひそめる。「……何を言っているの、あの女。負け惜しみもみっともないこと」
(意味は、来年の大地が教えてくださいますわ。——さあ、土のもとへ帰りましょう)
意味を解せぬガイウスが眉をひそめる中、わたくしは踵を返した。
侍女服の裾を翻し、祝福されざる侍女令嬢は、王都を去る。
——土のもとへ、帰るために。
◆
「セレナお嬢様のどこが役立たずですかっ! この目玉、節穴なんですか王都のみなさま!」
王都の門を出るなり、拳を握って憤慨したのは、栗色のおさげを揺らす小柄な侍女——ロッタだった。
そばかすの浮いた頬を真っ赤にして、彼女は今にも門番に噛みつきそうな勢いだ。
「ロッタ。あなただけは、付いてこなくてもよかったのですよ」
「イヤですっ! お嬢様のいないお屋敷なんて、パンのないシチューです!」
……それは、ただの汁ですわね。
わたくしは思わず、口の端を緩めた。十年、報われぬ祈りに耐えてこられたのは、この娘の忠義があったからかもしれない。
馬車が辺境アディント領へ向かう間、わたくしは膝の上で古びた手帳を開いた。前世の農学知識を、この十年こつこつと書き溜めたもの。輪作の周期、堆肥の配合、この土地の気候に合う麦の品種選定。
「お嬢様、それ、いつも大事そうに書いてらっしゃいますけど……ただの手帳ですよね?」
「ええ。これが、わたくしたちの逆転の切り札ですわ」
「逆転……? こんな枯れた土地で、いったいどうやって……」
きょとんとするロッタに、わたくしは伝承本の一節を諳んじてみせた。
「『豊穣の女神ディアーナは、華美な祈りを好まぬ。女神が微笑むのは、痩せた土に膝をつき、報われずとも種を蒔き続ける者のもとである』」
馬車が揺れ、窓の外に痩せた大地が広がっていく。ひび割れ、枯れ、誰からも見放された辺境の領地。
「ミレーユの花は、女神の祝福ではありません。ただの見世物——一時的に見栄えを操るだけの、幻術ですわ」
「じゃ、じゃあ、お嬢様の祭壇が十年沈黙していたのは……?」
「女神が、静かに祝福を溜めていらしたから」
わたくしは、窓の外の枯れ地を見つめた。
誰も気づかなかった。この十年、わたくしの手だけが、真実の土に触れていたことを。
「さあ、ロッタ。着替えの用意を。——これから、泥まみれになりますわよ」
ロッタは一瞬ぽかんとし、それから、にっと笑って拳を突き上げた。
「はいっ! 堆肥運びなら、この村一番の自信がありますっ!」
◆
辺境の荒れ地に、一匹の痩せ犬が現れたのは、種蒔きを始めて三日目の夕暮れだった。
垂れた耳、埃をかぶった毛並み。あばらの浮いた、みすぼらしい野良犬。
だが——その瞳だけが、黄金に輝いていた。
「あら。あなた、どこから来たの」
わたくしが泥だらけの手を差し出すと、犬はよろよろと歩み寄り、わたくしの膝に頭をこすりつけた。
そして、震える声が——頭の中に、直接響いた。
『やっと……やっと、気づいてくれた』
「……いま、頭の中に、直接……?」
わたくしは手を止めた。
『ずっと、あなたの手だけが土に触れてくれていたのに。誰も、誰も気づかなかったの』
黄金の瞳から、ぽろりと涙がこぼれ落ちる。
「……ディアーナ様」
伝承本にあった。女神は、本来の神々しい姿では現れない。痩せた土に膝をつく者の前に、最も哀れな姿で立つのだと。
『わたし、ずっと寂しかった。みんな、華やかな花ばかり褒めそやして。土の下で、わたしが本当に育てているものを、誰も見てくれなかった』
女神は、甘えるようにわたくしの膝にすり寄る。寂しがり屋の、小さな神様。
わたくしは、そっとその薄汚れた頭を撫でた。
「では、これからはわたくしが。あなたと一緒に、この土を耕しますわ」
『……いいの? あなたを追放した国に、報いなくて?』
「報復は、わたくしの仕事ではありませんもの」
わたくしは立ち上がり、地平線の向こう——王都の方角を見た。
「あの者たちの祭壇には、来年、あなたが正しく“答え”をお返しになる。ちがいまして?」
女神の痩せた尻尾が、ぱたり、と揺れた。
『ふふ。あなた、やっぱり好き』
その夜から、荒れ地は少しずつ色を変え始めた。
堆肥の匂い、芽吹きの緑。輪作の畝が、整然と大地を彩っていく。
報われずとも蒔き続けた種が——今、静かに、女神の祝福を受けて。
◆
「……お前の畑は、女神の匂いがする」
低い声に振り返ると、麦畑の畝の向こうに、一人の騎士が立っていた。
長身に、鋼のような体躯。漆黒の髪と、縦に裂けた金の竜眼。頬には、古い鱗のような紋様が浮かんでいる。
竜人。それも、辺境守護を担うという——ヴァルク・ドラグローヴ。『冷酷無比』と噂される、あの。
「まあ。視察のお方かしら」
わたくしは、泥まみれの膝を土につけたまま、顔を上げた。日焼けした指先に、掘り返したばかりの黒土がこびりついている。
きっと、ひどい格好でしょうね。着飾った聖女とは、比べるべくもない。
だが、ヴァルクの竜眼は——大きく見開かれていた。
「……」
彼はわたくしの顔を、麦畑を、そしてもう一度わたくしを見て。
なぜか、頬をわずかに赤らめ、ふいとそっぽを向いた。
「あら? ……なぜ、そっぽを向かれますの?」
冷酷無比、ではなかったのかしら。
「王都では、大凶作の兆しが出ている」ヴァルクは硬い声で言った。「聖女の花が、咲いた端から枯れ落ちていると」
「……そう。もう、始まっていますのね」
わたくしは驚かなかった。むしろ、暦通りだと思った。
幻術は、大地に何も返さない。見栄えだけを奪って咲かせた花は、根を持たぬまま枯れる。そのツケを、今、王国全土が払い始めている。
「なぜ、驚かない」
ヴァルクの竜眼が、鋭くわたくしを射抜く。まるで、心の底を覗き込むように。
わたくしは、微笑んだ。
「知っておりましたから。——この土地こそが、女神の真の祝福地だと」
足元では、いつの間にか痩せ犬が——ディアーナが、ヴァルクを見上げて尻尾を振っていた。
ヴァルクは、その犬に一瞬だけ視線を落とし、何かを了解したように、静かに目を細めた。
まるで、旧知の相手を見るように。
「……お前は、最初から気づいていたのだな」ヴァルクがぽつりと零す。「十年、誰にも見られず祈り続けたことも。その手だけが、真に土に触れていたことも」
わたくしは、少しだけ目を見張った。
この人は——知っている。女神の理を。わたくしの沈黙の意味を。竜眼と、麦の穂が、同じ色に輝いている……。
「あなた、いったい何者ですの?」
ヴァルクは答えず、ただ黄金の竜眼を、夕陽に照らされた黄金の麦畑へと向けた。
その瞳と、麦の穂が、同じ色に輝いていた。
◆
翌年の収穫祭。
王都の大祭壇で、聖女ミレーユは高らかに指を掲げた。
「見なさい! 豊穣の女神は、この華やかなわたくしをこそ——」
ぱぁっ、と花が咲く。真紅、黄金、菫色。去年と同じ、見事な花。
だが。
数瞬の後——花は、音もなく崩れ落ちた。
枯れ、萎び、灰のように散っていく。
「……え? なぜ? なぜ枯れるの! なぜよ! わたくしの魔法は本物のはずよ!」
民のどよめきが、悲鳴に変わった。
その年、レイフィール王国全土を、かつてない大凶作が襲っていた。麦は実らず、畑はひび割れ、王都の市場から穀物が消えた。
「幻術……だったのか……あの花は、見せかけだけの……」
ガイウスが、真っ青な顔で呟いた。
「聖女が、我らを騙していた!」
民の怒号が、祭壇へと押し寄せる。神殿の権威は、その日、音を立てて崩れ落ちた。
——報復は、わたくしの手ではない。女神と、大地の因果が、静かに執行しただけ。
◆
一方、辺境アディント領。
地平線の果てまで、黄金の麦が波打っていた。
「大豊作、大豊作ですーっ! お嬢様、王都から使者が来ましたよ! それも、ものすごーく偉そうな人たちが、ものすごーく頭を低くして!」
ロッタが畝の間を駆け回る。
門前には、憔悴しきった王都の使者たちが並び、地に膝をついていた。飢えた民のため、食糧を乞うために。
その後ろに——ガイウスの姿もあった。
彼は、わたくしの顔を見た瞬間、崩れるようにうなだれた。
「セレナ……俺は……お前の価値に、失ってから、初めて……」
わたくしは、黄金の麦を背に、静かに歩み出た。
侍女服のままの、泥のついた指先。けれど今、その手には、王国を救う実りが宿っている。
「豊穣の女神は華やかな者を選ぶ、でしたかしら?」
わたくしは、去年と同じ言葉を、静かに返した。
「どうぞ、来年の収穫祭で。——あの、干からびた祭壇の前で、もう一度おっしゃってくださいませ」
ガイウスは、二の句が継げず、ただ地に額をつけた。
ロッタが、わたくしの隣ですっと胸を張り、ドヤ顔で便乗する。
「……で? どうなんですか? 干からびた祭壇の前で、もう一度、おっしゃってくださいます?」
わたくしは、民に分ける麦を惜しみなく差し出した。
「民に分ける麦は、惜しみなく。飢えた者を見捨てるほど、わたくしは狭量ではありませんもの。——ただ、祝福がどこに宿るのか。それだけは、大地が正しく答えを出しました」
畑のあぜ道で、痩せ犬が満足げに寝そべっていた。その毛並みは、いつの間にか、少しふっくらとしていた。
◆
収穫祭の喧騒が去った、静かな夕暮れ。
わたくしは麦畑のあぜ道に腰を下ろし、傾く陽を眺めていた。
「隣、いいか」
低い声。振り返れば、ヴァルクが立っていた。相変わらず、必要最低限しか語らない、寡黙な竜人騎士。
「どうぞ。土だらけですけれど」
彼は無言で、わたくしの隣に腰を下ろした。竜眼が、黄金の麦を静かに映している。
しばらく、沈黙が続いた。心地よい、土の匂いのする沈黙。
「……ヴァルク様。あなた、あの痩せ犬と——ディアーナ様と、正体を分かち合っておいでですのね」
わたくしが問うと、彼はわずかに目を伏せた。
「俺は、女神の眷属だ。大地の理を守る役目を負う」
だから、知っていたのだ。わたくしの十年の沈黙も、その手だけが真に土に触れていたことも。最初から、すべて。
「では、去年、あなたが頬を赤らめたのは——」
「……あれは」ヴァルクが、ぐっと言葉に詰まる。
「あれは?」
縦に裂けた金の竜眼が、めずらしく、うろたえるように揺れた。
「土まみれで、麦畑に膝をついて、笑っている女を見て……その、なんだ」
わたくしは、思わず微笑んだ。
冷酷無比と噂される辺境の竜人騎士が、言葉を探して立ち往生している。
「ふふ。冷酷無比の竜人騎士が、言葉を探して立ち往生ですの?」
「……その女が、いちばん、美しいと……思っただけだ」
そっぽを向いたまま、彼はぽつりとそう零した。頬の鱗の紋様が、夕陽のせいか、ほんのりと赤い。
(……あら。攻略本にも、こんな展開は書いてありませんでしたわね)
わたくしは前世でこの国の伝承を読み込んだ。けれど、この胸の高鳴りは、どの頁にも記されていなかった。
政略でも、身分でもなく。ただ、真価を見抜く眼だけで結ばれる関係。
それは、きっと——攻略本の外側にある、わたくしだけの物語。
足元で、痩せ犬が満足げに欠伸をした。黄金の瞳が、わたくしとヴァルクを見比べて、いたずらっぽく細まる。
『ふふ。ようやく、ふたりとも土のもとへ帰ってきたのね』
風が、黄金の麦を揺らす。
報われずとも蒔き続けた種は、やがて実り。
見過ごされてきた献身は、やがて、いちばん確かな祝福となる。
——さあ。豊穣の女神は、貧しい辺境で、今日も静かに微笑んでいる。
(次巻へ続く)




