第1話 猫、令嬢剣士に拐われる
鬱蒼とした森を走る小さな影。
ズキズキと響く幻視痛を抱えながら、月明かりを頼りに慣れぬ四脚を操る。痛みと驚きで混乱する頭はどうにかして現状を整理しようとした。
名はゼラ。
今は冬至祭を控えた夜の頃。
場所は東の森の中。
映る視界は猫のもの。
私の身体は猫のまま。
短い脚は、こんなにも走りにくいのか……
恐らく、あと数刻で日が沈むことだろう。
追っ手が迫っているかも分からない。
ここは魔の森だ。留まっていれば、たちまち魔物に食い殺されてしまう。
どこか身を隠せる場所を探さなければ……
近くにあるのは……例の貴族の屋敷くらいか。
魔王崇拝者の嫌疑すらかかっている一族。賭けみたいなものだな。
方角は、南西。
距離はこの脚でもぎりぎりと言ったところか。
この身体も悪い事ばかりではなかった。あの目ではきっとまともに進めないだろう。不幸中の幸いだ。
まったく、嬉しくないがな。
だが、まあ。
不思議と方角も分かるし、迷うこともないはずだ。
脚に力を入れて全力で駆ける。
身体の真ん中が痛いほど脈打ち、全身に血を巡らせていく。
爪を使って地を掴み、蹴る。飛ぶように駆ける。
獣道ですらない森の中を草木に幹枝をかいくぐりながら進むと、匂いを感じた。
実に『美味しそうな』匂いだった。
目を瞑り、鼻を鳴らす。すぐに、見当がついた。向こうの木の裏に何かある。
温かい。新しい。強く、大きい。
抜き足、差し足ゆっくりとそこにある何かを窺う。
こんなことに気を取られている場合じゃない。だが、我慢ならなかった。
やはり、そうだった。魔物の死体だ。それも新しい。
恐ろしく牙を発達させた姿。名は知らないが、そこそこの魔物ではあったはず。
町に居た頃、酒の席で聞いたことがある。
その肉は大変美味であると。
自分の喉が鳴った気がした。
口を半開きにしながら、誘われるように近付いてしまう。
気付けば私は牙豚の肉を貪っていた。
鋭利な刃物で付けられたのだろう傷口から、皮下の肉に食いつき咀嚼する。
身体中に気力が巡る気分だ。
これは仕方がないことだ。
あのまま走っていたら、倒れて動けなくなっていたに違いない。
だから。
私はこの身体より数倍もデカいこの肉塊を堪能することにした。
鼻先が何か固いものにぶつかる。
これと言って匂いもなく、骨という訳でもない。
石だ。
そうか、これが魔石か。牙よりは柔らかく、軟骨よりは固い。
処理されていないものを見るのは初めてだが。いけそうな気がする。
食べてみるか。これを……
私の耳がすごい勢いで近づいてくる何かに気付いた。
四本脚の何かがこちらに駆けてくる。
茂みの向こう側だ。
これは、まずいかもしれないな。
あれが魔物なら逃げきれる気がしない。
そうだというのに、私は魔石から口を離せないでいる。
首を振り回して魔石を牙豚から千切ろうとしても上手くいかない。
こんなことをしている間にも、足音は近付いてきている。
すぐにでも……
来た、熊の化け物だ。
口から煙を吐き続けている熊の魔物。
それがまっすぐこちらに近付いている。
あれも血の匂いに惹かれたのだろうか。
「あら、猫ですわ」
場違いな声とともに小剣が飛来し、烽熊の首に突き立った。
呻き怯むままに、近付く影が白刃を一閃。
血が噴き上がり、烽熊の首が私の足元にまで転がって来た。
私は驚きのあまり咥えていた魔石をやっと口から離せた。
恐る恐る顔を上げてみる。
「んん。血で汚れてしまいましたわね。奇麗にしなくては」
上半身に鎧を纏い、下半身をドレスで包んでいる。冗談みたいな姿の女。
そいつは懐から取り出した紙で刃を拭くと腰に差し、歩いてくる。
「どうしましたの猫ちゃん。そんなにも怯えになって……魔物なら既に退治致しましたわ。どうか、安心なさって」
一歩一歩。カチャカチャと金具の音を立てながら近づくと。私に向かって手を伸ばしてきた。
逃げられない。ヘビに睨まれてたカエルの気分だ。
「まあ、御利口さん。どこから来ましたの貴方は?」
女の腕に抱かれ、私は震える事しかできない。
「御食事の途中でしたか……はい。どうぞ」
女は牙豚の肉に手を突っ込むと魔石を掴み、ぶちぶちと筋や管が切れる音を立てながら引きちぎった。
母が赤子に乳をやる様に、腕の中に閉じ込められた私は魔石を咥えさせられた。
「いい子ですわ。さあ、行きましょうか」
女は左腕に私を抱き、右手に烽熊の頭を掴むと鼻歌を歌いながら歩き出した。
恐らく、私は誰かに害されることはないだろう……この女以外には。
そういえば、例の貴族に妙齢の娘がいた。そんなことを思い出した私は使い魔の身体に囚われながら女に拐われたのだった。




