招かれざる平和
ロシュフォール伯爵は、ライオネルの部屋の暖炉の前に立っていた。その背中は、戦場の最前線で指揮を執っていた頃の彼とは違い、どこか重く、疲弊しているように見えた。彼は老いてなお、この国の行く末を背負っているようだった。
「ご無沙汰しております、伯爵様」
ライオネルは深く頭を下げた。伯爵は、彼にこの国の行く末を託した恩人だ。戦争で功績を上げたライオネルを、誰よりも評価してくれた人物でもあった。
「ライオネル、顔を上げなさい。お前はもう、この国の英雄なのだから」
伯爵の声は、どこか寂しげだった。
「英雄…ですか。多くの命を奪った私が、英雄だなどと」
ライオネルは苦々しく言った。伯爵は、その言葉に静かに首を振った。
「奪ったのではない。守ったのだ。それが、お前の戦いだったはずだ」
伯爵の言葉は、ライオネルの心を締め付けた。ライオネルは、イザベラの言葉を思い出した。彼は、この国のために、民のために戦ったと信じていた。しかし、その信が揺らいでいることを、伯爵は理解しているようだった。
「…本題に入ろう」
伯爵は、暖炉の前に置かれた椅子に座るようライオネルに促した。
「ライオネル、お前は王太子殿下のことをどう思う?」
ライオネルは、伯爵の言葉の真意を測りかねた。
「優秀な方だと存じます。しかし…」
「しかし、何だ」
「…戦争を軽んじておられるように感じます。今日の祝宴も、ただの形式に過ぎないような気がしてなりません」
ライオネルが率直に答えると、伯爵は静かに頷いた。
「それが、王太子の真の姿だ。彼は、血を流さずして、すべてを手に入れようとする。…だが、それこそが、この国に必要なことなのだ」
伯爵の言葉は、ライオネルの理想とはかけ離れていた。
「私は、血を流してこの国を守ったつもりでいました。しかし、伯爵様の言葉を聞くと、まるでそれが無意味だったように聞こえます」
「無意味ではない。お前が流した血は、この国の和平の礎となる。…そして、お前自身が、この国の未来を担う礎とならねばならない」
伯爵は、ライオネルの目を見て言った。
「ライオネル、お前を王太子の側近として、この国の軍事を任せたい。病弱な国王に代わり、レオンハルト殿下が実権を握る。その際、軍を掌握している貴族派閥は、必ずや反発するだろう。お前には、その派閥を抑え、王太子殿下の権力を確固たるものにしてもらいたいのだ」
ライオネルは言葉を失った。それは、彼にとって、まさに権力争いの泥沼に身を投じることを意味していた。
「しかし、それは…」
「お前は、正義のため、民のために戦ってきた。ならば、今こそその正義を、戦場ではなく、政治の場で示さなければならない。貴族たちの私欲にまみれた陰謀を暴き、この国を真の平和へと導くのだ」
伯爵は、ライオネルの信念を揺さぶるように語りかけた。しかし、その言葉には、どこか自分自身を納得させようとしているかのような響きがあった。
「…お前を英雄として祭り上げたのは、私だ。お前の純粋な正義感が、この国を救うと信じていたからだ。だが、その純粋さが、やがてお前を破滅させるかもしれない。だからこそ、お前を王太子の懐に入れ、守りたいのだ」
伯爵の言葉は、ライオネルへの心配と、ロシュフォール家の保身が入り混じった、複雑なものだった。
その時、扉が再びノックされた。
「伯爵様、ヴァルガス様がお見えになりました」
ライオネルの心臓が、ドクンと音を立てた。ヴァルガス。かつての親友。そして、今や、貴族たちの陰謀に巻き込まれているかもしれない男。
運命の歯車が、さらに大きく、重く動き出した。