第78話 嵯峨が戦場に置いてきた心
「しかし、新さんは……正直手に余るよ。太夫として男の精を吸い尽くして男を駄目にしたことは何度もあるけど、あの人はアタシを潰すつもりだよ。あの最中だってアタシは気持ちが良すぎてなんどきを失ったか……前の新さんはあんなに上手じゃ無かった。なんでも、死んだ奥さんに鍛えられたとか言ってたよ。死んだ奥さんは東和で言うと『ビッチ』だったらしくてね。太夫なんて目じゃない床上手だったらしい。それで散々鍛えられて……その死んだ奥さんはそれでも足りなくて他の男を引きずり込んで遊んでたらしい。アタシも多くの女郎を見てきたがそんな貪欲な女は見たことが無いよ。さすがはゲルパルト女は欲が深いねえ」
お蔦は熱燗を飲みながらそう言って笑った。春子もまた嵯峨に抱かれて自分が自分でなくなっていくようなあの圧倒的な力の前になすすべもなかった時代を思い出して微笑んでいた。
「新さんは……普通の一人の女じゃどうすることもできないものね。私の前から新さんが消えた時……最初に感じたのは寂しさ。次に感じたのはあの快楽を二度と味わえないのかと思う体の真の熱くなる感じ……そして自分では満足させてあげられなかった後悔。そんなところかしら」
酒を飲みながら春子はそう言って笑った。その笑顔に合わせるようにお蔦も笑みを浮かべた。
「聞いてるよ。アンタを置いて新さんは東和に来た本来の目的である『遼南統一』の為に遼南に行った。そしてそこで戦い続けた。あの人の心は女に半分、戦場に半分。その戦場が今でもあの人を蝕んでいる……」
イカを肴にしながらお蔦は続けた。
「あの人の身体がアタシから離れた瞬間、あの人は寂しそうな顔をするんだ。そしてアタシがあの人の責めに耐えられなくて気を失ってしばらくたって目覚めてあの人が眠っているのを見た時、あの人の顔は苦痛に歪んでいた。あの人は……アタシの居た『相模屋』と言う女郎屋を出て陸軍大学校で立派な士官さんになってそして戦争に行った後何をしていたか……アタシはこれまで知らなかったけど、今日ちょっとした偶然でそれを知っちまった……あんなことをさせられたら誰でもおかしくなっちまう。あんな思いをしたからあんな苦しそうな寝顔を浮かべるような大人になっちまったんだ。あの人が16から18まで。『相模屋』でつけ馬と称して居候をしていた時にはあんな顔は見たことが無かった。いつも幸せそうに笑ってた。春子さん。アンタはあの人が地獄を見てから抱かれたんだろ?当時はあの人が地獄を見てから月日も経っていなかったんだ。さぞ酷い寝顔をしていただろうねえ」
お蔦は同情するように春子を見つめた。
「そう、今でもなんだ。その通り。あの人の寝顔はいつでも苦しそうだった。何かを忘れてきた。何か大事なものを失ってしまった。そんな顔で新さんは何時も眠っていた。まあ、私は気持ち良さで身体を動かすのがやっとだったんだけどね。それでも涙を流しながら眠る新さんには辛いものをいつも感じていた。そしてそこから救ってあげられない自分の無力も……あなたに言われてあの頃の楽しいけどどこか自分に足りないものが有るんじゃないかと感じる日を思い出しました。そして足りないものは有った。あの人は足りないものを埋めるためにまた戦場に向った。それしかあの人の心を埋めるものは無いのかなって……娘の茜さんが新さんが出て行ったことを知らされた時感じたのはそんな感覚。今でもはっきりと覚えてる」
春子はそう言って熱燗をお蔦の空のお猪口に注いだ。