第61話 『大正の国』のカフェーと『昭和の国』の喫茶店
「喉が渇いたのかい。それならこの近くに良い店がある。自動販売機の缶のお茶なんてそれこそあの人の恩人の女に出せたもんじゃないよ」
そう言うとレイチェルは思い出したように歩みを速めた。草履姿のお蔦はそのレザーブーツを履いたレイチェルの早い足取りについていくのがやっとだった。
「その先の角を曲がると有るんだ。ちょっとした隠れ家みたいな店でね。あの隊長の下に居る中では切れ者の艦長さんもご愛用の喫茶店さ」
レイチェルは自分の歩みが早すぎたことに気付いてしばらく立ち止まった後、振り返ってそうつぶやいた。
「新さんの部下の切れ者?そんなのはアタシは会わなかったけどねえ……ただうるさい女と生意気な若造しか新さんの部下には居ない感じで新さんは可哀そうだった」
お蔦の言葉にレイチェルは大きくため息をついた。
「そうでもないさ。あの連中……うちの人の後輩たちは意外としっかりしているんだよ。あの中にひと際デカくて紺色の髪をした目の細い女が居たろ?アレが隊長の運用艦の艦長なんだ。ああ見えて油断のならない女さ。アンタも気を付けた方が良いよ。たぶん隊長の任期が切れたらあの女が『特殊な部隊』を率いることになるだろうね。まあそうしたらアタシ等もこの街を去る。それもまた人生さ」
レイチェルはそう言うと再び繁華街に入った道の中でもひときわ地味な喫茶店の扉を押し開いた。
「いらっしゃい……こりゃあ、レイチェルさん。今日も一人……いや、そのお方は」
顎髭を蓄えたマスターが慣れた調子でカウンターに座るレイチェルに声をかけた。一方のお蔦は店の薄暗い雰囲気や西洋風の調度品にどぎまぎしながら立ち尽くしていた。
「ああ、マスター。この人は東都の浅間の芸者じゃないよ。甲武の人……そう考えれば日本髪に和服でも少しも不思議じゃないだろ?」
レイチェルはそう言って視線をお蔦に向けた。
「アタシはこういうハイカラなカフェーに来るのは久しぶりでね。あの新さんがまだ高等予科学校の生徒さんだったころに行ったきりで……あの頃は甲武にもこういうカフェーが沢山あって春を売る女給を沢山雇うんで新さんに変な虫がつかないように目を光らせていたんだ。それにしてもこの店には女給はいないのかい?」
落ち着いた雰囲気の店内に圧倒さっれながらお蔦はレイチェルの隣に座った。
「ああ、甲武の喫茶店のウェウトレスは実際は飲み物を運ぶなんて言うのは建前で売春が目的だったものね。売春が違法なこの店じゃそんなものは居ないよ。それにこの店はマスター一人でやってる店だ。純粋にコーヒーを楽しむ店。それがこの店なんだ」
レイチェルは甲武と東和の常識の違いをお蔦に説明するとマスターに向き直った。
「ブレンドを2つお願い。この人は……甲武生まれでコーヒーには慣れていないから、それなりに腕によりをかけて煎れておくれよ」
レイチェルはそう言うとマスターに笑いかけた。そしてお蔦に目を向けると静かな笑みを浮かべた。
「私も女だからね。隊長の昔の話に興味があるんだ……聞かせとくれよ……戦争に行く前の隊長の話」
そう言うとレイチェルはお蔦に笑いかけた。それまで借りてきた猫のようだったお蔦の顔に笑みが浮かんだ。