第35話 戦時下の花街
「そのうち戦争が始まった……俺は戦争がはじまるとすぐに任務で東和に行っちまってそれ以来甲武にゃ顔を出さなかったんだが……苦労したんじゃないのかい?お蔦さん」
嵯峨はそう言ってお蔦を見つめた。
「戦争がはじまると政府は『風紀を乱す』という理由で花街に圧力をかけてきた。多くの店が無くなってそこの女達は軍需工場の女工に徴用された……でもそんな中で藤の屋は店を開き続けたんだ」
厳しい表情でお蔦はそう言った。
「義親父と義兄か……そう言うことにうるさい警察も関白太政大臣の威光には逆らえねえからな。でも、客は酷いのが来たろ?当時は町じゃ軍人がさも偉そうに威張ってたって……まあ、俺も憲兵隊に居た口だから偉い事は言えねえが当時の鏡都じゃ軍人は神様扱いだったらしいからな」
苦々し気な笑みを浮かべて嵯峨はそう言った。
「他にもやってる店に来るのは偉い軍人さんばかりだったけど藤の屋は無粋な軍人に敷居は跨がせなかったよ。それじゃあやっていけないって思ってたらある御仁が毎日のようにアタシと残った格子格の遊女目当てに来るようになった」
お蔦は笑みを浮かべてかなめとかえでに目をやった。
「義兄だろ?あの恐妻家。よく康子さんの目を盗んでそんなこと出来たな」
嵯峨は呆れたようにそう言った。
「義基公は毎日のように店に来て決まってアタシを指名するんだけど一度もアタシの肌に手を触れようともしないんだ。ただ、その店の最高の料理と酒を頼んでそれを上手そうに飲んで話をするだけ。呼ばれた客と寝ないなんて最初は太夫の矜持ってもんがあったから何度もあの御仁を押し倒そうとしたんだがうまい事逃げられてね……こりゃあかなり若い頃は遊び慣れてた御仁で上には上が居るもんだと感心させられたよ」
お蔦は笑顔で娘であるかなめとかえでに目をやった。
「確かにお父様が結婚なさったのは45歳の時だったからね。それまではそれこそ花街で大層お大尽な遊びをしていたらしいと僕も聞いているよ」
かえではすかさずそう言った。
「そうかい、でもあの御仁のおかげで憲兵隊が毎日来るくらいで戦争前と何一つ変わらず藤の屋は店を続けられた。そして、あの事件だ……」
お蔦の顔が曇り、悲しげな表情でかなめを見つめた。
「爺さんを狙ったテロ……アタシがこんな身体になった理由……爺さんも朝は外食と決めてて鏡都ホテルのラウンジで家族で食事をするのを日課にしてたからな。アレを理由に多くの外食店が治安維持の名目で当局により無理やり閉店に追い込まれた。ホテルや旅館もテロの標的になるという理由で全部閉店させられた。要するに戦争する以外のすべての行為は当時の甲武じゃ違法にしたかったんだよ、軍部の連中は」
かなめは寂しげに自分の制服の腕をまくった。そこにはサイボーグの証である人工皮膚のつなぎ目がはっきり見て取れた。
「それがあって、さすがに藤の屋の楼主も店の事を諦めて店を閉じた。アタシは……女工なんてアンタには似合わないとその御仁に言われて身請けされて西園寺御所の長屋に住みこむようになったんだよ。今の『平民宰相』西園寺義基。あの人が政治をするようになって甲武はだんだんマシになってる。以前みたいに軍人と警官が威張り散らす国じゃなくなってきてるんだ。藤太姫、かえで様。お二人ともいいお父様を持って幸せだね」
お蔦の言葉に嵯峨の顔色が変わるのを誠は見逃さなかった。
「そうかい……お蔦さんはあそこに居たのかい……あの時……俺が西園寺御所を隅々まで捜し歩いていれば……歴史は変わったかもしれないわけだ……そうなったらたぶんこの『特殊な部隊』は存在しなかった。そして、今でもランは『真紅の粛清者』として今は無き遼南共和国で罪もない人々を殺し続けていた。当然、遼州同盟なんてものも無かった。それはそれで運命のいたずらか神の差配と言う奴かね」
嵯峨の言葉を理解できるものはこの場には緊張した面持ちを嵯峨に向けているランの他には居なかった。