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第32話 幸せな若い日の終わり

「そんな高等予科時代の馬鹿も俺が18の時に終わりを迎えた。幸せなんて長続きしない。そんなもんだと俺はその時しみじみと感じたね。時代は戦争へ一直線の時代だ。たぶんこんな別れは甲武の街中に転がってただろうな」


 嵯峨は突然真面目な表情になって周りを見回した。


「俺に陸軍大学校に入らないかって話が有ってね……高等予科学校を満点の首席で卒業すると特例として士官学校も軍務も経ずに陸軍大学校に進めるって言う特典がある。俺はその『特例』って言葉につられて何の考えも無くそれに飛びついた。それは……今考えて見りゃ若気の至りの際骨頂だったんだがね。そんな事で今ある幸せを捨て去るなんて馬鹿のすることだ。当時の俺は若かった。野心も有った。そして何より今の俺から見ると馬鹿野郎だった。その結果、あの大戦であんなことをさせられることになるとは……俺が蒔いた種だったんだな」


 嵯峨の顔に影が差し、その表情に後悔の念が浮かんでいるのが誠にも分かった。


「でも、爛れた女郎屋での日々よりはよっぽど陸軍大学校での寮生活の方が健康的なんではなくって?何よりあそこは当時は女人禁制でしょ?戦時中に男性の七割が戦死して女性の兵士が駆り出されるようになってあそこも共学化されましたけど寮は男女別のはずですよ」


 反撃の機会を伺っていた茜が刺すような視線で嵯峨を見つめた。


「健康的?確かに身体の健康には良いかもしれないな。でも俺は不死人だぜ。そんなの関係ねえよ。それより心の健康には最悪の環境。あんなもん監獄と一緒だよ。まあ、日曜日に休みが有るのがその違い位のもんだ。しかも期待して入ってみればやってることは戦争の始め方とか俺の知ってる事ばっかり。そんな事学ぶのも嫌だってんで教官に言って鏡大の法律研究室と政治学研究室に通ってたの。そちらの方できっちり陸軍大学校の2年間の間に博士号を取って舞い戻ったら教官の奴、腰を抜かしてね。『奇才現る』とか抜かして俺を陸軍大学校の首席に推薦したんだ。そんな大したことはしてねえっての……」


 嵯峨は自虐的な口調の割に得意げにそう語った。


「他の連中もそれぞれの道に進んだ。貞やん、は陸軍士官学校。忠さんと一学は海軍兵学校に進んで相模屋の悪ガキどもは悪所から足を洗った……いや、一学は海軍兵学校に行きながらも相模屋に残ったな。愛しのお美代さんとは離れられないってね。もうその頃にはアイツの恋愛はそれこそ甲武の平民の間じゃ大層話題になってね。『天才画家にして未来の軍を担うエリートとか弱い女郎の禁じられた恋』とか言って海軍兵学校の話の分かる教官達も二人を引き離せなかったんだ。でもあまりに有名になりすぎて相模屋は女郎屋をやめて文化人のサロンみたいなことを始めた……お蔦さん。そう言えば相模屋がそんな様になったあの後あそこの女郎たちはどこ行ったの?文化サロンじゃ女を売るような真似は出来ないじゃん。俺もお蔦さんに会いに行ったのにあそこには一学とお美代さんと気取った芸術家連中しかいなかった。気になるなあ、あの後お蔦さんがどうしたか。年季はかなり残ってたはずじゃないの」


 嵯峨は不思議そうな視線をお蔦に向けた。


「そうだね、相模屋が女郎屋の看板を下ろした後の話かい?これは一学さんとお美代さんのおかげなんだけどさ、アタシ等は花街の藤の屋に売られたんだ。あそこは花街一の大店だ。待遇もこれまでとはまるで違う天国みたいなところだった。殿上貴族御用達の店だからね。そこでアタシは一気に階段を駆け上って太夫になり、あっという間に花街一の花魁になった……新さん、鼻が高いだろ?」


 得意げにお蔦は嵯峨を見つめた。


「そうかい。陸軍大学校の規則で花街への出入りは禁止されてたんだ。道理で会えないわけだ。そんな寂しさから俺は日曜になるといけ好かない貴族の女共を狙って舞踏会とかに出かけるようになったんだ。そこで会ったのがエリーゼ。典型的なドイツ美女だったがそれ以上に男を喜ばせる達人だった……ありゃあ並みの女郎なんかとても歯が立たないね。アレも立派な玄人だ」


 そう言って嵯峨は娘の茜に眼をやった。


「お母様を侮辱するのは止めていただけませんか?母はドイツ貴族で騎士です!売春婦ではありません!」


 毅然とした口調で茜は父に向けて抗議した。


「だって事実だもん。それに俺と付き合ってる間も俺が居ない月曜日から土曜日は違う男を引っ張り込んでた。ただ、俺はアイツを満足させられる唯一の男だった。だからお前さんが産まれた。これは厳然たる事実なんだ。認めなさいよ。アイツは下手な女郎なんかよりよっぽど女郎そのものだった。違いは金を取るか取らないかだけ。夫だった俺が言うのも何だが、見てくれと気位の高さと身分以外は女郎と何の違いも無い女だった。茜、お前の母さんはそんな女だったんだよ」


 嵯峨は茜を余裕の笑みで見つめていた。

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