Ep.1
──朝、目が覚めると、途方もない喪失感で胸が締め付けられる。──
星の煌めく夜空が世界の全てを覆い潰して、この世のあらゆるものをなかったことにしてしまっていく、そんな夢を見るんだ。
深い群青色の天幕いっぱいに散らばる無数の光は、静かに瞬きながらも、どこか不気味な意思を孕んでいる。
星々はただ輝くだけでなく、渦を巻く潮のように蠢き、まるで生き物の群れのように世界の隅々へと伸びていく。
そして、それは触れたものを容赦なく呑み込み、跡形もなく消し去っていった。
家も、道も、そこにあった木や看板も、人影すら──すべてが光に溶け、音もなく消滅する。
だが夢の中の俺は、それが夢だとは到底思えないほど、必死だった。
……けれど、守れなかった。
家族も、友達も、星の海に呑まれ、姿を失った。
その消え方はあまりにも冷酷で、まるで最初から何も存在しなかったかのようだ。
声も、笑顔も、思い出も──星々は全てを飲み干していく。
夢の中の俺は、誰よりも弱かった。
目の前のものから逃げてばかりで、うまくいかないことばかり。
それでも……夢の中にいた〝あいつら〟は、そんな俺を「仲間」だと笑ってくれた。
彼らと肩を並べ、手を取り合い、正体もわからない恐怖と、抗いようのない未来に挑んでいた。
──けれど。
この世界の全てを瞬く間に覆い潰す星空を見上げながら、俺は、多分──。
「……のせ……一ノ瀬!」
鋭い声が、意識を引き戻す。
俺はゆっくりと目を開けた。そこには、木目の机、消えかけのチョークの匂い、窓から差し込む午後の光──見慣れた教室の風景が広がっていた。
視線を上げると、目の前には呆れ顔の社会科教師が立っている。
進藤先生──四十代半ば、黒縁の眼鏡をかけた、短めの癖毛が少し白く混じった男性だ。
教科書を片手に、眉間に皺を寄せて俺を見下ろしている。
「……って……やべ」
机の上には、じんわりと冷たくなった涎の跡。
慌てて袖で拭い、そっと顔を上げる。
「また寝てるのか」
進藤先生の低い声が、教室中に響く。
俺はもう一度、机に突っ伏した。
「……〝へんじがない。ただのしかばねのようだ〟」
わざと棒読みで呟くと、先生の視線がさらに冷たくなる。
「…………」
「え、先生知らないんですか? これ、ドラクエでさ、骨とか死体に話しかけた時の──」
「…………」
「先生まさか、ドラクエやったことない……?」
「お前まさか、夜中にやりすぎて授業中寝てるんじゃないだろうな」
「いやいや。魔王から世界を救った勇者に、授業中の一眠りくらい許されても──
言い終わる前に、机をコン、と指で叩かれた。
その軽い音が、やけに重く感じられる。
放課後。
職員室に呼び出された俺は、机を挟んで進藤先生から三十分間みっちり説教を食らった。
進路の話から未来のこと、授業態度、ゲームのやりすぎ、アニメやドラマの見過ぎ──あらゆる方向からの攻撃が飛んでくる。
その間、職員室の中では他の先生や生徒の視線がチラチラと刺さる。
羞恥心はとっくに限界を超え、説教が終わる頃には俺は本当に〝ただのしかばね〟になっていた。
肩を落として職員室を出ようとした時──。
扉の向こうから、プリントの束を抱えた女子生徒が入ってくる。
肩までの黒髪をきちんと結び、眼鏡の奥には落ち着いた瞳。制服もきっちり着こなしていて、胸元のリボンも形が崩れていない。背筋を伸ばしたその姿は、いかにも真面目そうだ。
……が、俺は慌てて避けようとして、足を滑らせた。
「……いって……」
尻餅をついた俺に、彼女は一瞬だけ申し訳なさそうに振り返る。
口がわずかに動いたので、多分「ごめん」と言ったのだろうが、声が小さすぎて聞き取れなかった。
その様子を入り口の外で見ていたのは──。
「……あ〜惜しい! 運命の出会いならず!」
2組の木見嶋 誠。
俺の幼馴染で、やたら人懐っこい笑顔と、伸びかけの黒髪を無造作に整えた頭。
平均より少し高い背と、どこか軽薄そうな目つきがトレードマークの男だ。
こいつは悪い奴ではないのだが、とにかく変態だった。
小学生時代のエロ知識はほとんどがこいつからの輸入だ。
しかも、小6の頃に下校中の低学年女子達にチ◯ポコの絵を描いた紙を配ったり、同じく小6の頃、団地に住んでいる幼稚園児のチ◯ポコを枕にしながらゲームしていたり、用務員室のおばちゃんの靴を盗んで匂ったり、失敗には終わったが中3の頃に同じクラスの女生徒の検尿を盗む作戦を画策していたり、やたらと守備範囲の広い変態だ。
そして彼は、なぜか本気で悔しそうに地団駄を踏んでいた。
「何が惜しいんだよ」
俺が尻餅から立ち上がりながらそう言うと、誠はやれやれと首を振る。
「……なにがって……そりゃお前、そこはあえてぶつかっとく場面だろ」
「は?」
「んで、倒れそうになった彼女をサッと抱き寄せる。ほんの少しだけ近づいた顔の距離──その瞬間、優しい言葉をひとつやふたつかけておけ? たとえば、『大丈夫か?』とか、『怪我はない?』とか。そうやって彼女の胸に、恋と運命の火種を植え付けるわけだ」
誠は両手を広げ、演劇でもしているかのように身振りを交えて説明する。
いつも通り少し大きめの声で、しかも真剣な表情。
「で、後日。彼女がその時落としたハンカチをお前が返しに行く──そう、そこにメアド入りのメモを挟んでな? 恋の交通事故、ラブ・ハプニング方程式証明完了──QED。ちなみに俺は子供、6人欲しい」
「なに言ってんの?」
「うるせえ黙れタコ! 高校生活なんてたった3年なんだぞ!? 運命くらい捏造してけ!?」
彼の目は真剣そのもので、こちらが笑えないほどだ。
とはいえ、その真剣さのベクトルが間違っていることは火を見るより明らかだった。
「いやなにキレてんのよ、こえーって。あえてぶつかっとくってなんだよ」
「お前は恋のダンプカーだ」
「頼むから日本語で喋ってほしい」
「いや、あの眼鏡っ娘──あれは2組の学級委員長、学年1位の秀才・遠坂芽衣だぞ?」
「ああ……」
「わかるか? あの落ち着いた表情の奥に隠れた、情熱的な恋の炎が! もしお前が俺ならもう俺の股間も情熱大陸だ。あんな可愛い子、適当に運命でっちあげてでも近づくわ」
「ああああうるせぇな。暇なんだろ?」
「あと5分で塾始まるわ」
「お前なんで生まれてきたの?」
「いや、幼馴染のズッ友だろ? 俺と君。君と俺。俺たち」
誠はにやりと笑い、制服のポケットから黒い財布を取り出した。
少し使い古された革の表面は、角が丸く擦れている。
その中から、白い背景にハンバーガーのイラストが描かれたカードを4枚、扇のように広げて見せた。
「……マックカード?」
「そう。今日、登校中に拾ったんだ」
「……で?」
「これで──カラオケ行こうぜ」
✳︎ ✳︎ ✳︎
気がつけば俺は、駅前の雑居ビルのカラオケ店にいた。
エレベーターで上がる途中から、もう嫌な予感しかしなかった。
「うっしゃ〜! オケろ〜!!!」
狭い個室に入ると、誠のテンションは天井を突き抜けていた。
そしてそこにいたのは──。
2組の陸上部所属、結城紗里。
肩までの髪をポニーテールに結び、陸上で鍛えられた細身の女生徒。
笑顔は明るく、口元には小さな八重歯がのぞく。
今もソファに座って、マイクを片手に楽しそうに笑っていた。
もうひとりは、腰まで伸びた金髪をゆるく巻き髪にして派手なギャルメイクを施した白銀さん。
長いマスカラの奥の視線は鋭く、表情はどこか退屈そうだ。
「盛り上がってますかあ〜!」
「そーですね!」
〝笑っていいとも!〟よろしく、盛り上がっているのは結城さんと誠だけ。
白銀さんは気怠げにガラケーを操作し、俺には一度も視線を向けてこない。
……正直、早く帰りたかった。
俺は、部屋の隅に置かれた小さな丸椅子に腰を下ろした。
四人が入るには少し狭いこの個室は、壁に貼られたポスターや落書きめいたサインでごちゃごちゃしていて、タバコの匂いがほんのり染み付いている。
テーブルの上にはすでにコーラとオレンジジュース、ポテトと唐揚げの盛り合わせが置かれていて、油の香りが空腹でもない俺の胃を刺激する。
誠はマイクを片手にソファの背に片足を乗せ、まるでライブ会場にいるかのように全身を揺らしている。
「いくぜぇぇぇぇぇ!!!」
リモコンのボタンを勢いよく押すと、スピーカーからイントロが流れ出した。
「おおおおおおお!!!」
結城さんも負けじと声を上げ、手拍子を始める。
一方で、白銀さんはソファの端に深く腰を下ろし、片足を組んでガラケーのボタンを淡々と押していた。
誠が歌い出す。
懐かしのアニメのオープニング曲を原曲の勢い2割増しで叫ぶように歌い、音程なんて完全に置き去りだ。
結城さんはノリノリで一緒にサビを叫び、二人だけで勝手に盛り上がっていく。
俺はその様子を見ながら、そっと誠に声を寄せた。
「なあ……どうやってこの二人呼んだんだ?」
「え? ああ、あれな」
誠は小声で耳打ちする。
「クラスの女子に“カラオケ大会やるぞー! 優勝賞品はマックカード千円分!”って言ったら、結城が速攻で食いついたんだよ」
「……なるほどな」
「で、結城が『莉愛も行こうよ!』って言ったら、白銀さんは『は? ……別にいらないんだけど」って超冷めてた。でも結城がどうしても一緒に来てほしいって言うから、渋々な。ああいうのは友情パワーってやつだな、エロいね」
俺も目線だけで白銀さんを見る。
彼女は相変わらずガラケーに視線を落とし、こちらの会話なんて聞く気もなさそうだ。
無関心を絵に描いたようなその横顔に、ほんの少しだけ興味が湧く。
「──奏汰! お前も歌えよ!」
誠が唐突に俺にマイクを突き出してきた。
「いや、俺はいい……」
「なに言ってんだよ。ほら、お前が最近よく夢で見てるっていう世界を救う系の曲とか歌っとけ?」
「そんなジャンルねえから」
誠は笑いながら、強引に俺の手にマイクを握らせる。
マイクの金属部分はほんのり温かく、それがなぜか余計に居心地の悪さを増幅させる。
結局、誠が「お、これいこうぜ」とリモコンを操作して俺の曲を入れる。
すると画面いっぱいに鮮やかな桜色の背景と、丸文字で描かれた「LUNA」のロゴが表示された。
画面の中の少女は、赤いリボン付きのカチューシャに、レースの付いた白い膝丈ワンピース。どこか昭和歌謡のステージ衣装を思わせるレトロな装いだ。
軽快なイントロが鳴り、ルナの声がスピーカーから流れ出す。
昭和歌謡を思わせる甘くて少し切ないメロディ。
画面の上には、カラオケの採点ゲージと一緒に、見覚えのある白いコメントの流れ──「かわいい」「神曲」「昭和回帰」といった文字が映し出されている。
「……あ、ルナじゃん」
その瞬間、白銀さんのまぶたがわずかに開いた。
今までの無関心な態度がほんの少し崩れ、声には微かな高揚が混じっていた。
「知ってんのか?」
と、誠がニヤつく。
「当たり前でしょ。ニコニコで一番伸びてるし」
白銀さんは、唇の間にストローをくわえたまま、透明なグラスの中で氷がコロコロと音を立てて転がるのをじっと見つめていた。
その視線は決して画面から外れることなく、無表情のまま淡々とした佇まいだ。
だが、耳を澄ませば、ふんふんと鼻歌のような小さな音がかすかに聞こえてきた。
「同い年なんだよ、ルナ。16歳で、これだけ歌えて踊れて……それに、あの昭和っぽいファッションとメロディが、逆に新鮮で新しいんだ」
白銀さんは隣でそんなことを熱っぽく語った。
「お前、めっちゃ語るじゃん」
白銀さんは軽く舌打ちしつつも、決して視線を画面から外さなかった。
その足先がテーブルの下で、自然とリズムに合わせて小さく揺れている。
画面の中のルナは、赤いカチューシャとレースの白いワンピースを身にまとい、まるで昭和歌謡のステージから抜け出してきたかのように、懐かしい振り付けを軽やかに踊っていた。
どこか昭和のアイドルたちが見せた微笑みと、現代の若者らしい躍動感が混ざり合っていて、眩しい光の輪の中でルナは輝いていた。
───そんな光景を眺めていると、不意に懐かしさが胸を締め付けてきた。
それは自分でも説明できない、遠い記憶の片鱗を掻き立てられるような、不思議な感覚だった。
ルナの歌声が部屋の空気を優しく揺らし、まるで時間がゆっくり流れているかのようだった。