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無気力聖女、皇帝に見初められ正妃へ ~亡国王女が趣味のインテリアで敵国の皇后になります~

いつも誤字報告ありがとうございます。

 

 シンドラ――それが、今の私の名前。

 祖国がテュラン帝国に滅ぼされてから、そう名乗っている。


 かつてはリュミエラと呼ばれ、王女として何不自由ない暮らしを送っていた。


 だが、それも遠い昔の話。

 私の婚約者であった騎士副団長、ダリウスが帝国に寝返ったあの日。

 私の国――ソレイユ王国は地図から消えた。


 そして私は今、敵国であるテュラン帝国の教会で、『聖女』の一人として息を潜めている。

 いつか、何かを成すための潜入。

 そう信じて、心を殺して生きている。


 教会に集められた聖女たちは、皆一様に若く、美しい。

 この国では教会と貴族社会が密接に繋がっている。

 家門の箔付けや、政略の駒として送り込まれた貴族の子女も少なくない。

 そんな彼女たちはやがて、有力貴族に召し上げられるのが慣習だった。


 彼女たちの最終目標は、有力貴族の目に留まり、第二夫人として召し上げられること。


 だから教会内部は、女たちの見栄と野心が渦巻く噂話の中心地だ。

 皆、美容に余念がなく、舞踏や作法、芸事の稽古に明け暮れている。


 そんな中で、私は異質な存在だった。

 顔の半分を覆う醜い火傷痕。それを隠すように深く被ったヴェール。


『醜い聖女シンドラ』


 それが、私の通り名。

 身分を隠し、誰の目にも留まらないようにするための偽りの傷。

 おかげで、きらびやかな聖女たちの輪に入る必要もなかった。

 私はいつも一人でいることができた。


「ねえ、シンドラ。私の部屋のカーテン、新しいものにしたいのだけれど、相談に乗ってくれないかしら?」

「シンドラさん、今度の茶会で使う応接室の飾り付け、手伝っていただけます?」


 ――ただ、一つだけ例外があった。


 私の趣味は、インテリアコーディネート。

 元王女として培われた審美眼は、こんなところにまでついてきてしまったらしい。

 いつの間にか、私の風変わりな美的感覚は教会内で評判になっていた。

 貴族を自室や応接室に招く機会の多い聖女たちに、私の知識は利用価値があったのだ。


「はいはい、わかったわかった」


 それが私の口癖になっていた。


 別に、彼女たちに呆れているわけではない。

 ただ、興味の方向がまったく違うだけなのだ。


 聖女たちの色恋沙汰など、正直どうでもよかった。

 誰がどの貴族に見初められ、どんな高価なドレスを贈られようと、私の知ったことではない。

 見栄や野心が渦巻く浮ついた話に、私の心は一ミリも動かなかった。


 彼女たちが「相談に乗って」と口にした瞬間。

 私の思考はすでに、依頼された部屋のことであふれ返っている。


 あの壁紙の色には、どんな質感の織物が映えるだろうか。

 窓から差し込む光を、どうすればもっと優雅に見せられるだろうか。

 床材との相性は。

 そこに置くべき一輪の花は。


 だから、返事はいつもどこか上の空になる。


 彼女たちの浮ついた依頼に、私はいつもそう応じながら、殺風景な部屋を息を呑むような空間へと変えてみせるのだった。



 ◇◇◇◇



 いつものように図書室の片隅で建築様式の本を読んでいると、教会の廊下がやけに騒がしいことに気がついた。

 聖女たちの甲高い声と、慌ただしい足音。


「まあ、カイゼル陛下が直々にいらっしゃるなんて!」

「どんな御用件かしら? もしかして、新しい第二夫人を……?」

「まさか! 陛下はご正妃様を亡くされて以来、後添えをお迎えになっていないのよ」


 カイゼル陛下。

 若くして帝国の頂点に立つ、冷徹にして怜悧な皇帝。

 ソレイユ王国を滅ぼした、張本人。


 心の奥底が、氷のように冷えていくのを感じる。

 だが、私の顔はヴェールの下に隠れている。表情を悟られる心配はない。

 私は静かに本を閉じ、騒ぎが通り過ぎるのを待った。



 ――しかし、運命とは皮肉なものだ。

 足音は私のいる図書室の前で止まり、重々しい扉がゆっくりと開かれた。

 入ってきたのは、豪奢な祭服をまとった教会長。

 その隣には――息を呑むほどに精悍な顔立ちの青年が立っていた。

 金の髪に、空と同じ色の瞳。彼こそが皇帝カイゼル・フォン・テュラン。


 教会長が、室内にいる数人の聖女たちに下がれと目で合図する。

 彼女たちは、皇帝を一目見られた興奮と、下がれと言われた落胆をない交ぜにした表情で、そそくさと退出していった。

 もちろん、私もその一人として、壁際に寄り、静かに出ていこうとした。


「――待て。お前は残れ」


 低く、けれどよく通る声だった。

 有無を言わせぬ響きに、私の足が縫い止められる。


(いや、なんで私だけ?)


 その他大勢に紛れて、空気のように消えるはずだったのに!

 ゆっくりと振り返ると、カイゼル帝の蒼い瞳が、まっすぐに私を射抜いていた。

 ヴェール越しの、醜い火傷痕を持つ聖女を。


「陛下、こちらはシンドラと申しまして、少々見目が……」


 教会長が慌てて取り繕おうとするのを、皇帝は手で制した。


「教会で一番、部屋の設えに詳しい女がいると聞いた。お前だな?」

「……御意にございます」

「そう固くなるな。噂を聞いて、実物を見たくなっただけだ」


 皇帝は図書室の中をゆっくりと歩き回り、私の手元にあった本を一瞥した。


「ほう、古代の建築論か。随分と渋い趣味だな」


「……」


 何を答えるべきか分からず、私は沈黙した。

 下手に言葉を発すれば、ボロが出るかもしれない。


「良い機会だ。貴様に仕事を頼みたい」


 皇帝はそう言うと、悪戯っぽく口の端を上げた。


「我が城の謁見の間。あれを、もっと『皇帝らしい』空間にしてみせろ」


 謁見の間。

 それは、帝国の権威を象徴する場所。

 対面する者に、皇帝の威光を最大限に見せつけるための舞台装置。


(皇帝ともなれば、対面する相手と交渉を有利に進めることも仕事のうち、か)


 なるほど、理にかなっている。


 ――だが、なぜ私に?

 疑問に思ったが、断る選択肢など、私にはない。


「……はいはい、わかったわかった」

 思わず、いつもの口癖が出た。


 しまった、と内心で舌打ちする。皇帝に対してあまりに不敬だ。


 しかし、カイゼル帝は怒るどころか、面白そうに目を細めた。


「威勢のいい返事だな。気に入った。では、後日城へ招く。詳細な図面と、お前の考えを聞かせろ」


 そう言い残し、彼はあっさりと図書室を去っていった。

 嵐のような皇帝の来訪。

 私は一人、その場に立ち尽くすしかなかった。



 ◇◇◇◇



 数日後、私は言われた通り、帝国城に召し出された。


 案内された謁見の間は、確かに豪華絢爛。

 だが、どこかまとまりがなく、威圧感に欠けていた。

 ただ金と宝石をちりばめただけの、成り金趣味の空間。

 これでは、歴戦の諸侯や他国の使者を威圧するには不十分だろう。


 私は数枚の設計図を広げ、待っていたカイゼル帝に説明を始めた。


「まず、壁際に等間隔で空の甲冑を配置します。それも、歴代皇帝が実際に着用したとされる様式のものを。歴史の重みと、声なき監視者の視線は、訪れた者に無言の圧力を与えるでしょう」

「ほう、面白い」


「次に、玉座。現在よりも三段ほど高くし、周囲の床材を大理石のような硬質で、靴音の響きやすいものに変えます。陛下が立ち上がる際、その靴音が広間に響き渡り、一つの動作が威厳ある演出となります」

「……続けろ」


「窓から差し込む光も計算に入れます。午前中の謁見であれば、玉座の背後から光が差し込むように。そうすれば、陛下は逆光に包まれ、神々しいシルエットとして相手の目に映ります。表情を読ませず、神秘性を高める効果も期待できます」


 次々と提案を述べる私を、カイゼル帝は感心したように、それでいて値踏みするような目で見つめていた。


「素晴らしい。私の考えていた以上のものだ。即刻、採用する」

「光栄にございます」

「それにしても……」


 カイゼル帝は玉座から立ち上がると、ゆっくりと私のそばまで歩み寄ってきた。

 ヴェールのすぐそばまで顔を寄せられ、思わず身がすくむ。


「お前のような女が、なぜ教会の隅で埃を被っている? その知識、その発想、そこらの貴族令嬢には到底及びもつかないものだ」

「……」


「私は第二夫人を娶るつもりはなかったが、お前を囲うためならありかもしれないな」


 からかうような、試すような口調。

 その蒼い瞳の奥に、底知れない光が揺らめいている。


 ……この男、趣味悪くない?

 ただの一介の聖女をからかって楽しんでいるに違いない。

 人を試すような真似も、大概にしてほしい。


 私は皇帝から一歩下がり、静かに首を振った。


「私は醜い聖女です。皇帝陛下の閨を汚すことなど、畏れ多い」

「火傷痕のことか。俺は気にならんがな」

「いいえ、そういうことではございません。私は教会から出て暮らすつもりはございませんので、陛下がわざわざお心を砕く必要もございません」


 私は皇帝に背を向け、設計図を片付け始めた。

 これ以上、彼と関わるのは危険だ。

 私の正体が暴かれれば、すべてが終わる。


「今日のところはこれにて」


 そう言って逃げるように謁見の間を去ろうとする私。

 その背中に、皇帝の忍び笑いが聞こえた気がした。



 ◇◇◇◇



 それからしばらく、皇帝が私に関わってくることはなかった。

 謁見の間は私の提案通りに改装され、諸侯の間で大層な評判を呼んでいると風の噂に聞いた。


 私はといえば、相変わらず教会の片隅で『醜い聖女』を演じ続ける。

 時折、聖女たちの部屋のコーディネートをする。


 そんなある日、帝国の戦勝を祝う大規模な祝宴が城の庭園で催された。

 教会からも多くの聖女が招かれ、もちろん私も末席に連なることになった。


 きらびやかなドレスをまとった聖女や貴婦人たち。

 その中で、ヴェールを被った私はひどく浮いていたが、誰も気に留めはしない。

 それが好都合だった。


 私は人混みを避け、テラスのそばで、ただ時間が過ぎるのを待っていた。

 夜の庭園は美しくライトアップされ、遠くで楽しげな音楽と笑い声が響いている。


 ふと、テラスの近くで遊んでいた小さな子供たちが目に入った。

 貴族の子だろう。追いかけっこをしてはしゃいでいる。



 その時だった。



「きゃあ!」


 かん高い悲鳴。

 追いかけっこをしていた一人の少年が、足を滑らせて庭園の大きな池に落ちたのだ。

 水面が激しく波立ち、小さな体がもがいているのが見える。


「誰か!」「坊やが池に!」


 周りの大人たちは悲鳴を上げるばかりで、誰も動こうとしない。

 突然の出来事に動転しているのか。

 騎士たちも、持ち場を離れられないのか、すぐには駆けつけられないようだ。


(このままでは、溺れてしまう!)


 そう判断した瞬間、私の体は勝手に動いていた。

 考えるよりも先に。


 私はまず、動きの邪魔になる豪奢な上着を乱暴に引き剥がした。

 次に、視界を塞ぐヴェールを、ためらうことなく自らむしり取る。

 一瞬、周囲の空気が凍り付いたのが分かった。

 私の顔が、偽りの火傷痕が、衆目に晒される。


 だが、そんなことはどうでもよかった。

 私はテラスの柵を乗り越え、そのまま池へと飛び込んだ。


 ざぶん、と冷たい水が全身を包む。

 泳ぎは、王女としての嗜みの一つだった。

 私は水面をもがく少年の腕を掴み、力強く岸辺へと引き寄せた。


「大丈夫、もう大丈夫よ」


 侍女たちが少年に駆け寄り、毛布で包む。

 私は全身ずぶ濡れのまま、その場に立ち尽くした。


 水に濡れたせいで、顔に塗りたくっていた偽の火傷痕が、べろりと剥がれ落ちていた。

 その下から現れたのは、傷一つない、元の私の肌。


 ソレイユ王国王女、リュミエラとしての、私の顔。


「……まあ……」

「なんて美しい……」

「あの醜い聖女が……?」


 ざわめきが、波のように広がっていく。

 月光と庭園の灯りに照らされた私の顔を見て、誰もが言葉を失っていた。


 しまった、と思ったが、もう遅い。


 その輪をかき分けるようにして、一人の男が私の前に進み出た。

 カイゼル帝だった。

 彼は、楽しそうに喉を鳴らしながら、私の方へと歩いてきた。

 ずぶ濡れの私を頭のてっぺんからつま先まで、面白いものでも見るように眺める。


「ははっ、これは傑作だな! お前、あの謁見の間の偉そうな聖女か!」


 彼は声を上げて笑い、羽織っていた豪奢なマントを脱ぐ。

 そして、芝居がかった仕草でばさりと私の肩にかけた。


「化けの皮が剥がれたら、ずいぶんと麗しい女が出てきたではないか。なるほど……そういうことだったのか」


 その蒼い瞳は、もはや驚きはない。

 極上の玩具を見つけた子供のような、無邪気で残酷な光を宿していた。

 私の最大の秘密が暴かれたこの状況を、この男は、心底楽しんでいるのだ。


 その不遜な笑みを境に、私の運命は再び、予測不能な奔流へと飲み込まれていくことになるのだった。



 ◇◇◇◇



 祝宴の夜の出来事は、瞬く間に帝国中に知れ渡った。


『醜い聖女、その正体は絶世の美女』

『身を挺して子供を救った、勇気ある聖女シンドラ』


 面白おかしく、そしてどこか英雄譚のように語られる噂。

 私は再び教会に身を置き、固く口を閉ざしていた。


 しかし、周囲の視線は明らかに変わっていた。

 聖女たちは遠巻きに私を眺め、好奇と嫉妬の入り混じった囁きを交わしている。


 そんなある日、再び皇帝からの召令が下った。

 今度は密かに、そして私一人だけが城へと呼ばれた。

 通されたのは、謁見の間ではなく、皇帝の私室。

 二人きりになった部屋で、カイゼル帝は静かに口を開いた。


「あの美貌、あの気高さ、そして何よりあの胆力。そこらの貴族令嬢とは何もかもが違う」


 彼は窓の外を見つめながら、独り言のように呟く。


「どこの馬の骨とも知れぬ女、と思っていたが……そうではなさそうだな」


 値踏みするような視線が、私に突き刺さる。

 二人きりになった部屋で、カイゼル帝は窓の外を見つめていた。

 が、やがてゆっくりと私に向き直った。


「シンドラ、か。灰や燃え殻を意味する名だな。光を失った者には、ふさわしい偽名かもしれん」


 その言葉に、私は息を呑んだ。

 彼の蒼い瞳が、すべてを見透かすように、まっすぐに私を射抜いている。


「だが、その顔には『光』の方が似合う。……例えば、リュミエラ、とかな」


 彼は、私の本当の名を、こともなげに口にした。


 血の気が引いていくのがわかる。

 もう、隠し通すことはできない。

 この男の前では、どんな嘘も通用しないのだ。


「……どこで、その名を」


 絞り出すような私の声に、カイゼル帝は満足げに口の端を上げた。


「お前が謁見の間に足を踏み入れた時から、疑ってはいた。その立ち居振る舞い、その知性。そして、あの夜に見た顔は、ソレイユ王家の肖像画に残る最後の王女と瓜二つだったからな」


 彼の言葉に、私は観念して、静かに頭を垂れた。


「……御明察の通りです。私が、ソレイユ王国王女、リュミエラにございます」


 私の降伏宣言に、カイゼル帝はただ蒼い瞳を興味深そうに細めた。


「やはりな。道理で、その立ち居振る舞いには育ちの良さが滲み出ているわけだ」


 彼はゆっくりと私の方へ向き直った。

 その顔には、冷徹な支配者の表情が浮かんでいる。


「リュミエラ……良い名だ。だが、お前は我が帝国にとって、本来であれば危険分子だ。滅ぼした国の王女が、素性を隠して教会に潜り込んでいたのだからな」


「……処罰は、甘んじてお受けいたします」


 私は静かに頭を垂れた。

 これが、私の潜入の結末。

 復讐も、再興も、何も成せぬまま。


 だが、皇帝の口から出た言葉は、私の予想を完全に裏切るものだった。


「俺の妃になれ」


「……え?」


「正妃だ」


 思わず顔を上げる。

 彼の蒼い瞳は、冗談を言っているようには見えなかった。


「聖女が第二夫人になるなどという下らぬ慣習は廃止する。お前を、俺の唯一の妃として迎えよう」


 あまりに突飛な提案に、言葉が出てこない。

 そんな私を見て、カイゼル帝は初めて、彼の本当の狙いを口にした。


「どこの馬の骨とも知れぬこの女をいきなり俺の隣に置けば、旧来の大貴族たちはどんな顔をするだろうか。貴族間のパワーバランスを崩し、俺の権力を絶対的なものにするための、これ以上ない『切り札』になるかもしれない」


 彼の目は、獲物を見つけた獣のようにギラついていた。


「だが、理由はそれだけではない。理屈を超えて、この女が欲しい。この気高く美しい女を、俺だけのものにしたい。ただ、それだけのことだ」


 なるほど、実にこの皇帝らしい考え方だ。


「滅びた国の王女……。それが露見すると後々面倒にはなるが、些末なことだ。お前の出自は俺が隠してやる。ただの聖女シンドラが、その美しさと才覚で皇帝に見初められ、妃となった。そういう物語を、帝国中に広めてやる」


 それは、あまりにも魅力的で、そして危険な取引だった。


 敵国の皇帝の妃になる。

 祖国を滅ぼした男の隣に立つ。

 それは、裏切りではないのか。


 けれど。


 私一人がここで死んだとて、何が変わる?

 何も変わらない。

 だが、彼の妃になれば?

 帝国の心臓部で、私は生き続けることができる。

 それは、新たな潜入の始まりになるかもしれない。

 いつか来るべき時のために、力を蓄えることができるかもしれない。


「……しょうがない、ですね」


 諦めにも似た呟きが、私の口から漏れた。

 それは、承諾の言葉。


「もし私が妃になって差し上げたなら、一つだけお願いがございます」

「ほう、言ってみろ」

「元ソレイユの民が、不当な扱いを受けぬよう、ご配慮を」


 カイゼル帝は一瞬虚を突かれたような顔をしたが、やがて満足そうに頷いた。


「良かろう。約束する」


 こうして、私の運命は決まった。

 醜い聖女シンドラは死に、皇帝の妃リュミエラが生まれる。


 ため息を一つついて、私は差し出された皇帝の手を取った。

 その手は、ひどく熱かった。



 ◇◇◇◇



 皇帝カイゼルが、一介の聖女を正妃に迎えるという報は、帝国中に衝撃をもって駆け巡った。

 特に、教会や貴族社会の動揺は大きかった。


 かつて私を『醜い聖女』と蔑み、存在しないものとして扱っていた聖女たち。

 彼女たちは、私が帝妃となった今、手のひらを返したように媚びを売り始めた。


「リュミエラ様、おめでとうございます! まさか、このようなことになるなんて!」

「以前から、リュミエラ様は他の方とは違うと思っておりましたのよ」


 彼女たちの軽薄な笑顔を見ていると、胸の奥が冷えていく。

 私はただ、無表情に頷くだけだ。


(はいはい、わかったわかった……)


 彼女たちは一瞬戸惑ったような顔をするが、すぐにまたお追従の言葉を並べ立てる。


 ――哀れな人たちだ、と思う。

 自分の価値を、他者からの評価でしか測れない、空っぽの人形。


 貴族たちも同様だった。

 出自も知れぬ女が皇后になったことに反発する者。

 いち早く皇帝に取り入ろうと、私に近づいてくる者。

 帝国城は、欲望と策謀の渦の中にあった。

 だが、それは私にとって、慣れ親しんだ水の中のようなものだった。


 そんなある日。

 城の廊下で、私は見知った顔とすれ違った。

 帝国騎士団の制服をまとった、長身の男。


 ダリウス。

 私の元婚約者であり、祖国を裏切った男。


 彼は私を見ると、目を見開き、その場に凍り付いた。

 無理もないだろう。

 彼が捨てた王女が、彼が忠誠を誓う新しい主の隣に立っているのだから。


 彼の顔に浮かぶのは、驚愕、混乱、そして――焦がれるような羨望。

 彼は何かを言おうとして、しかし言葉にできずに口を開閉させた。


 私は、彼に一瞥もくれずに通り過ぎる。



 ――もう、彼に何の感情も湧かなかった。



 憎しみさえ、とうの昔に色褪せてしまった。

 彼はただの過去。

 私の踏み台の一つに過ぎない。


 ただ、彼は敵国の頂点で輝く私の姿を、遠くから羨望の目で見つめ続けるしかない。

 その事実が、彼に対する何よりの復讐になるのかもしれない。



◇◇◇◇



 皇后リュミエラとなってから、数ヶ月が過ぎた。


 私の私室は趣味の限りを尽くした部屋。

 帝国で一番居心地の良い空間になっていると自負している。

 柔らかな陽光が差し込む窓辺には、私が選んだ織りのカーテン。

 壁には静かな色合いのタペストリー。


 いつものように、建築様式の本を眺めているとノックの後に、断りもなく扉が開かれた。

 この部屋に、こんなにも遠慮なく入ってくる人物は一人しかいない。


「……陛下。ご自分の執務室に戻られたのでは?」


「ああ、終わった」


 部屋の主のようにソファに深々と腰掛けながら、皇帝カイゼルは首を軽く回した。


「自分の部屋より、お前の飾った部屋が一番落ち着く」


 彼はそう言うと、私の手元にある本を覗き込んだ。


「また難しい本を読んでいるな」

「ええ、まあ。陛下にはご興味のないことでしょうけれど」

「いや、お前が楽しそうなら、それでいい」


 私はため息を一つついて、彼のためにお茶を淹れに席を立った。


 いつからだろうか。

 彼がこうして私の部屋に入り浸るようになったのは。

 そして、私がそれを当たり前のように受け入れているのは。


 お茶を差し出すと、彼はそれを受け取るよりも先に、私の手をそっと握った。


「落ち着くのは、部屋のせいだけではないな。……お前がいるからだ、リュミエラ」


 その蒼い瞳が、今はただ穏やかに私だけを映している。

 熱を帯びた視線に、思わず心臓が跳ねた。私は慌てて視線を逸らす。


「……はいはい、わかったわかった」


 昔の口癖が、今度は照れ隠しのように私の口からこぼれ落ちた。


 カイゼルがそれを聞くと、目を細めて笑うのだった。


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