* 無自覚なヒントおばさんと意外な縁 *
「はぁー……」
真実子は、掃除道具を小脇に抱えて、廊下をとぼとぼ歩いていた。
気合いを入れて現場を調べたというのに、結局、決定的なものは見つからなかった。
(……なんか、肩透かし)
気になったことといえば、ローテーブルに落ちていたチーズの食べかすくらい。
けれど、それもワインを飲んでいたのなら自然なことだ。
つまみとして食べていたのかもしれない。
チーズを盛り付けた皿は見当たらなかったが、それも証拠品として回収したのだろう。
(……さすがにドラマみたいにはいかない、か)
小さく息を吐いたそのとき――
廊下の突き当たり、壁際にしゃがみ込んでいる人影に気づいた。
「……え?」
こんな時間に、こんな場所で?
思わず足を止めた真実子は、様子をうかがいながらそっと声をかけた。
「大丈夫ですか?」
その男性が顔を上げた。
――リディアの婚約者、セドリックだった。
「あっ……! すみません、具合が悪いのかと……」
「いや、大丈夫。驚かせてしまってすまないね」
セドリックは苦笑しながら、自分の前を指さす。
その指先には――小さなネズミが、ちょこんと立っていた。
(……ね、ネズミ!?)
驚きのあまり、声が出なかった。
けれど、セドリックは柔らかく笑って言った。
「たまにね、この廊下で見かけるんだ。……なんだか愛嬌があってね」
手に持っていたのは、小さなチーズの欠片。
彼はそれをそっと床に置くと、ネズミが近づいてきて、ちまちまとかじり始めた。
「こうして時々、チーズをあげているんだ。……そしたら、少し懐かれたみたいでね」
そう言って微笑む彼の表情に、真実子の胸がほっこりとあたたかくなる。
(優しい人なのね……)
ひとの見えないところで、小さな命にも気を配れる――
そんな彼の優しさに、真実子はほっこりと心を和ませた。
* * *
翌日。
昼食の片付けも終わり、午後の仕事が始まるまでのひととき。
真実子は、メイド長オルガの部屋で、執事イーヴリンと三人で紅茶を囲んでいた。
「ほらほら、マティルダさん。クッキーいっぱい食べてね〜!」
オルガはご機嫌な様子で、大皿の上のクッキーを真実子の方へ押しやった。
「いつもいい働きしてくれてるから、私からの――ご・ほ・う・び、よ♪」
ウインクを添えて、口いっぱいにクッキーをほおばる。
その勢いだと、ご褒美を渡す前に本人が全部食べ尽くしてしまいそうだ。
「メイド長の言う通りです」
イーヴリンが、紅茶をひとくち含んでから真面目な口調で続ける。
「第一、ちゃんと食べているんですか? こんなに細くては、いつ倒れてもおかしくない。
仕事に支障が出ては困りますから、栄養はしっかり摂ってください。あなたは、もうこの屋敷の一員なのですから」
イーヴリンの声は、いつも通り厳しい口調だった。まっすぐな視線とともに、まるで上司が新人を叱るような厳格さ。
「それに……」
と、彼は視線を落とし、少しだけ語気を和らげた。
「今朝も厨房で、パンとジャムだけだったでしょう。あれでは午前の仕事すら乗り切れません。
しっかり食事を取って、体を温めて、睡眠も……そう、睡眠も大切です」
まるで母親のような勢いで真面目に続く“生活指導”に、真実子は思わずぷっと吹き出しそうになった。
(……ほんと、真面目でいい人だわ)
胸の奥に、じんわりと温かいものが広がっていく。
「もっと、メイド長のように、たくまし――」
「……イーヴリン?」
オルガのカップを持つ手が、ピタリと止まった。
にこにこしているのに、なぜだろう、空気が急に冷えた気がする。
「い、いえ、その……つまり、健康的で……っ」
しどろもどろに言い訳を始めるイーヴリン。
紅茶をこぼしそうになり、慌ててカップを置く。
その様子を見て、真実子は思わず吹き出しそうになった。
(この2人、いいコンビだわ……)
怖いもの知らずの陽気さと、几帳面すぎる杓子定規。
タイプはまるで違うのに、不思議と息が合っている。
(こういう人たちに囲まれて、私、今ここで生きてるんだなぁ……)
クッキーを一つ口に運びながら、真実子は心の奥にじんわりとしたあたたかさを感じていた。
気を取り直したように、オルガの手がまたクッキーへと伸びた。
「そういえば、ヴィダル様のこと……まだ調べてるんですって?」
「はい。なんか引っかかるんですけど、特にこれといって証拠もなくて……」
「なるほどねぇ〜」
クッキーをボリボリとかじりながら、オルガは大きく頷いた。
その音を聞きながら、真実子はふと目線を落とす。心の奥に、抑えていた不安が、またひとつ顔を出す。
(セオリー通りなら……"あの人"が真犯人ってことになる)
――真実子は小さく首を振った。
(ううん、あんな人がそんな事をするはずがない……。それに、証拠と動機がないもの……)
迷いと葛藤で思考が絡まりかけたそのとき――
「あ! そうそう!」
間の抜けた明るい声が部屋に響いた。オルガがぽんと手を叩き、隣に座るイーヴリンに話しかける。
「ねえイーヴリン。あれ、やってくれた?」
「……あれ、とは?」
真顔のまま問い返すイーヴリンに、オルガは肩をすくめて笑う。
「もう、忘れちゃったの〜? 壁の補修よ、補修! あちこちネズミが穴あけちゃって困ってるのよ〜。もう、クッキーが何枚犠牲になったか……!」
その言葉を聞いた瞬間――
真実子の中で、いくつかの点が弾けるようにつながった。
ヴィダルの部屋。
密室。
チーズ。
『こうして時々、チーズをあげているんだ。……そしたら、少し懐かれたみたいでね』
(……!)
真実子は勢いよく椅子を蹴って立ち上がった。
「メイド長、お手柄です!!」
「え? な、なにが?」
「私、ちょっと行ってきますっ!」
クッキーの残りを尻目に、真実子は勢いよく部屋を飛び出す。
「あっ! クッキーなくなっちゃうわよ〜〜〜!」
その声が追いかけてきたが、もう真実子の耳には届いていなかった。
* * *
オルガからヒントを得た真実子は、再び調査を行なった。
ヴィダルの部屋。
床に控えめに置かれた植木鉢。三本脚でわずかに浮いていた。
その中央下――壁の継ぎ目に近い床板に、直径数センチの穴が隠れるように開いていた。
よほど注意深く見なければ気づかないような位置だ。
しゃがみ込んで覗き込む真実子。
その目が、静かに細められる。
*
隣室。
こちらにも同じような小物棚が、床近くに設置されていた。
どかしてみれば、そこにもやはり、同じサイズの穴。
空気の流れが、かすかに鼻先をかすめた。
*
隣室前、廊下。
「ええ、その方なら確かに……その日、この部屋でお泊まりになったわよ」
聞き込みに答えたのは、年配のメイド仲間。
真実子は、短く礼をして――そしてまた、ひとつ頷いた。
*
再びヴィダルの部屋。
窓のレバーが、わずかに震え――次の瞬間、**「カチッ」**と音を立てて倒れた。
クレセント錠が、内側から確かに閉まった音。
真実子は、ゆっくりと窓に近づいた。
ふと、レバーの付け根に目を凝らす。
そこには、ごく細い糸の繊維が一本、絡みつくように残っていた。
さらにその周囲には、わずかな摩擦の跡。
人の指ではつかないような、尖った力で引かれたような擦れ。
真実子は、小さく頷いた。
「よし……これで、トリックは解けた。あとは――動機ね」
小さく呟いたその時、ドアがノックされ、オルガが姿を見せた。両手に、布袋を抱えている。
「マティルダ。悪いけど、これね〜、ルドエール大聖堂に持って行ってくれる?
旦那様の葬儀のことで、大聖堂にお渡しするお金なの〜」
「はい。分かりました」
袋を受け取り、真実子は大聖堂へと向かった。
* * *
祭具室の扉を開けると、そこには――あの優しいシスターがいた。
「あ……」
「いらっしゃいませ。どうかなさいましたか?」
変わらない、静かで澄んだ声。
「葬儀のお礼金です。……メイド長に届けるよう言われて」
「まあ、ご丁寧にありがとうございます」
シスターは両手で布袋を受け取り、深く頭を下げた。
真実子も会釈して踵を返しかけた、そのとき。
「失礼しまーす、お届けものです!」
軽い声とともに、郵便配達の青年が祭具室にひょっこり顔を出す。手には一通の封筒。
「手紙、こちらにお預かりしてます」
青年が差し出した封筒を、シスターが少し驚いた様子で受け取った。その一瞬。
封筒を受け取ったとき、真実子の目にふと左上――差出人の名前が入り込んだ。
「……えっ」
思わず声が漏れた。
「このお名前……」
その瞬間、シスターの手がぴくりと震えた。
「あっ、ご、ごめんなさい……つい、目に入ってしまって……
あの……お知り合い、なんですか?」
静かな空気の中に、ピンと一本の糸が張る。
シスターは、まるで打たれたように真実子を見つめ――
すぐに俯き、何かを整えるように微笑み直した。
「……ええ。幼いころからの、幼馴染なんです」
その瞬間――
真実子の中で、いくつもの点が音を立ててつながった。
ヴィダルの婚約破棄。
大聖堂の中庭での奇妙なやり取り。
そして、この手紙。
(そういうことだったのね……)
真実子は、真正面から、シスターを見つめた。
「お願いがあります」
「……え?」
シスターは少し驚いたように、真実子の顔を見つめ返した。
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次回エピソード
* エピローグ 〜崖〜 *
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