* プロローグ *
※文章の執筆に、ChatGPTを使用しています。
警部補・北川陽一の警察手帳シリーズ第六弾――『幻惑の踊り子』。
あの終盤、崖の上で犯人と一騎打ちする名シーンを、真実子はもう何十回と見返していた。
そして今日。
その「夢が丘の崖」に、ついに来てしまった。
「テレビと同じ……! すごい……。ああ、ここで“陽ちゃん”が犯人に銃を向けたのよねぇ……」
気分は完全にドラマの世界。
真実子、五十二歳。独身。夫は六年前に病気で他界。
悲しみを乗り越え、二人の息子を無事に独立させた。
ようやく訪れた“自分の時間”で、彼女は「崖の聖地巡礼」を趣味にしていた。
「やっぱりこの角度よねぇ……犯人と睨み合う感じ……」
そう言って、真実子は、崖ギリギリまで歩を進めた。
――その瞬間だった。
足元が、崩れた。
「あっ」
声が出る暇もない。
景色がぐるりとひっくり返り、風を切る音だけが耳に残った。
* * *
「マティルダさん」
呼ばれて、はっと顔を上げた。
……どこ、ここ?
気がつくと、見知らぬ屋敷の一室に立っていた。
目の前には、六十代くらいの白髪の男性。燕尾服に身を包み、完璧な姿勢でこちらを見ている。
「今日から初日で緊張しているのですか? ……まったく、しょうがないですね」
低く落ち着いた声。背筋を伸ばし、目を細めながらも、その表情には確かに厳しさがあった。
無駄のない所作で指先を揃えると、言葉を継ぐ。
「いいですか。ここは見た目に反して、非常に厳格なお屋敷です。些細な失礼でも見逃されません。すでに何人もの使用人が、一言の失言で姿を消しました。くれぐれも、旦那様や奥様、そしてこの屋敷の方々には――絶対に、無礼のないように」
(……え? え? え??)
頭の中が追いつかない。
でも、勢いがすごすぎて、とりあえず反射的に返事をしてしまう。
「は、はい……」
自分でも驚くほど、澄んだ声が出た。
(……ん? 今の……私の声?)
思わず目を見開く。
高くて、若くて、どこか張りのある――まるで少女のような声だった。
(うそ……これ、私?)
声が、若返っている。というより、まったくの別人のものだ。
困惑していると、男の眉がわずかに寄る。
「――具合が悪いのですか?」
さっきまでの口調とは打って変わって、心底心配するような声だった。
わずかに前に身を乗り出し、こちらの顔を覗き込むようにする。
「顔色が、優れないように見えますが……立っていられますか?」
「えっ、あ……だ、大丈夫です! たぶん、はい!」
変に元気アピールしてしまった。
そう言うと、男は一度頷き、ほんの少しだけ安堵の色を見せた。
「それでは、まずはメイド長にご挨拶を。
メイド長の部屋は、廊下を出て右、一番奥の部屋ですよ。始業まで時間がありませんので急いでください。……行けますか?」
「はいっ、行ってまいります!」
勢いよく返事してから、すぐにくるりと踵を返す。
……考えたいことは山ほどある。ていうか、まずこれは夢? 幻覚? なに??
でも――
(まずは、やることをきっちりやる)
長年、家の中でも、外でも、何があっても“やるべきことは後回しにしない”をモットーに生きてきた。
真実子は、言われた通りに、すぐに廊下を小走りで進んだ。
その途中――ふと、壁際に立てかけられた鏡が視界に入る。
「あ……」
思わず足を止めた。
鏡の中に映っていたのは、見知らぬ少女。
赤みのあるウェーブのかかった髪、細い首筋、大きな目――
そこに、五十二歳の主婦・真実子の面影はなかった。
(私……本当に、別人になったのね……)
一瞬だけ、目の奥がじんとする。
だけど、すぐに首を軽く振って自分に言い聞かせた。
「いけない、急がなきゃ!」
小さく気合を入れて、再び足を速める。
* * *
──廊下の一番奥。
木のドアをノックする。
「どうぞ〜」
やけにのんびりした声が返ってきた。
おそるおそる中へ入ると、そこには――
ふくよかな女性が、机に向かって座っていた。
年の頃は五十代ほど。片手にクッキー、もう片手で分厚い本のページをめくっている。
真実子が部屋に入ったとき、彼女はすでに読書の最中だった。こちらを見ようともせず、本に目を落としたままクッキーをかじっている。
「あなたが、マティルダさんね〜?」
ページをめくりながら、口元にかすかな笑みが浮かんだ。
机の上には、クッキーの食べかすと、散らばった書類。
けっこう散らかっている。けれど、本人はまったく気にする様子もなく、ポリポリと音を立てながら読書に没頭している。
(……この人が、メイド長?)
真実子は戸惑いながらも、一礼して声をかけた。
「本日からお世話になります、マティルダです」
「うんうん、聞いてるわよ〜」
ページをめくりながら、まるで天気の話でもするような口調。
ほんのり甘いクッキーの香りが漂ってくる。
(……もっとピリピリした人を想像してたけど、案外ゆるいのね。よかった)
そんな安心が、胸に広がりかけた――その瞬間。
パタン、と本の閉じる音が部屋に響いた。
メイド長が、ゆっくりと顔を上げる。
丸い目がすっと細まり、じりじりとこちらを見据える。
「……マティルダさん」
その声は、さっきまでの“ゆるさ”が嘘のように低く、鋭かった。
なぜか背筋が伸びる。
思わず反射的に返事してしまった。
「は、はい……!」
「掃除道具、そこにあるでしょ」
机の横に置かれたバスケットには、雑巾、ハタキ、ほうきがきちんと並んでいる。
パンッ、と乾いた音が室内に響く。
見れば、机の縁に、ふっくらとした手のひらが堂々と添えられていた。
「この机の上。掃除してごらんなさいな」
ピリッとした空気。
先ほどまでのゆるい雰囲気はどこへやら、完全に“試されている”眼差し。
その視線が、"家政婦歴八年"のプライドに火を点けた。
売られたケンカは――買う。
真実子は一つ、力強く頷いた。
「分かりました」
咄嗟に掃除道具を手に取り、机に向かう。
見れば、クッキーの粉が書類の間に入り込み、インクのシミが紙の端をじんわりと染めている。
だが、その程度で慌てる真実子ではない。
数えきれない現場をくぐり抜けてきた経験が、迷いを許さない。
真実子は机の上をひと目見ただけで、掃除の段取りを頭に描いた。
“まずは粉を払って、次にインクの処理。書類は崩さず、順序通りに戻す”
すべてを一瞬で組み立て、目を細める。
息を吸う。
空気が張り詰める。
――そして、次の瞬間。
"動いた"
乾いた布巾を取る。
その動きは、一拍の間もなく。
粉を舞い上げぬよう、するりと滑らせる。
同時に、もう一方の手が湿らせた布巾へと伸びていた。
書類をめくる。――次。次。次。
紙のすき間に潜んだ粉を、狙い澄ました指先が、寸分の迷いもなく払い落とす。
にじんだインクを見つけたのは、ほんの一瞬。
すぐさま布巾を替え、紙の繊維を壊さぬように、ピンポイントで押さえ込む。
動きに一切の無駄がない。
それはもはや、考えるより先に身体が動いていた。
気がつけば、散らかった机は見違えるほど整えられていた。
「終わりました」
真実子は、メイド長の判定を待つように、じっと見つめた。
メイド長の視線が、じりじりと突き刺さる。
微動だにせず、ただじっと――こちらを見つめている。
喉が渇く。背中に冷たい汗が一筋、つうっと流れた。
……と、次の瞬間。
「――ようこそぉ〜〜っ!」
パァァァッと一転、メイド長の顔が花のようにほころぶ。
「あなた、すごいじゃない! クッキーの粉、全部取れてるし、書類も順番どおり! いやもう、うれしい〜〜!」
両手で頬を押さえて、ひとりで感動しながら小躍りしている。
「こんな人が来てくれるなんて、ラッキーだわ〜。ねえ、新人でしょ? 新人とは思えないわ〜! ああ、仕事が楽になるわぁ〜〜〜!」
呆気にとられる真実子。
ようやく思考が追いついて、ふと閃く。
(……二時間ドラマでいたなあ、こういう人)
普段はゆるゆるで振り回されるけど、ふとした一言が事件解決のヒントになるキャラ。
しかも、本人はそれにまったく気づいていない。
(いたいた。絶対いた!)
おかしさと安心感が混ざり、つい口元がほころぶ。
「さあ、マティルダさん!」
メイド長がパン! と手を打つ。
「今夜はね、うちの子爵家の次女――リディア様の婚約パーティーなのよ! もう、めっちゃくちゃ忙しいけど、あなたなら全てお・ま・か・せ、で大丈夫ねっ!」
にこりとウインク。
(いやいや、丸投げかーい)
心の中で盛大にツッコミを入れる真実子だった。
* * *
その後は、まさに目まぐるしい忙しさだった。
「マティルダさん! あそこ片付けて! あと、テーブルクロス、アイロンかけ直してね! あっちの花瓶も整えて!」
指示はどれもざっくり。細かいやり方までは一切説明なし。
(うそでしょ、本当に丸投げ!?)
慌てつつも、身体が勝手に動くのが悲しい性。
手際よく片付け、直し、整え……気づけば一日が飛ぶように過ぎていた。
そして、あっという間に夜会の時刻。
ホールでは煌びやかなシャンデリアが灯り、貴族たちが続々と集まってくる。
真実子は、ホールの隅に控え、給仕係が運ぶ飲み物の準備をしていた。
追加のグラスを取りに、廊下へ出た。
重い扉が音を立てて閉まる。
ふと顔を上げると、奥の方から二人の男女がこちらへ歩いてくるのが見えた。
女は、淡い青のドレスに身を包み、髪には宝石の髪飾り。首元のネックレスは繊細で、それでいて存在感がある。
あまりの美しさに、思わず足を止めてしまう。
(わ……まるで、お姫様みたい……)
呆然と見とれていると、その“お姫様”がピタリと立ち止まり、こちらを鋭く睨んだ。
「――なにをボーッと見ているの、あなた。無礼よ」
背中がゾクリと冷える。
反射的に背筋が伸び、慌てて頭を下げた。
「も、申し訳ございません……!」
「気分が悪い。お父様に報告するわ。名前を言いなさい」
「え……あ、あの……」
やばい。
このままじゃ、初日でクビになってしまう――
あの初老の男性の言葉が、頭をよぎる。
「早くなさい!」
「リディア、もういいだろう」
静かで落ち着いた声が、ぴりついた空気をすっと溶かした。
「初めて見る顔だ。……今日が初日だろ? 緊張してるだけさ」
いつの間にか隣に立っていた青年が、やわらかく微笑む。
「……ふん」
リディアと呼ばれた女性は、不満そうに目をそらし、そのまま足早に会場へと消えていった。
(リディア……って、たしかメイド長が言ってたこの家の次女よね? ってことは、あの子が今日の主役……?)
「驚かせてしまって、すまないね」
残された男がこちらに向き直り、優しい笑みを浮かべて頭を軽く下げた。
「彼女、悪気はないんだ。少し、言い方がきつくてね……」
整った顔立ち。気品のある物腰。そして、低く穏やかな声。
彼が“婚約者”なのだろうと、すぐに察しがついた。
「あなたが悪いわけじゃない。気にしないで、仕事に戻ってくれ」
それだけ言うと、彼もまた静かにホールへ向かっていった。
(なんて性格悪そうなお嬢様。それに反して、婚約者はずいぶん優しそうね……。
いたなあ、こういう“いい人ポジ”。二時間ドラマではよくあるのよね。
やさしい仮面の裏に、悲しい事情を抱えた“真犯人”が――ってパターン)
真実子は胸の中で、これまたサスペンスあるあるを思い出しながら小さく頷いた。
* * *
会場に戻った真実子は、すぐそばで談笑する男女の姿を見かけた。
見るからに気位が高く、そして――性格が悪そう。
真実子が通り過ぎようとしたそのとき、二人の会話が耳に入ってきた。
「ふふ……見て、あの顔ぶれ。なんだか、あの夜会のこと思い出すわね」
女が、うっとりしたような声で言った。
「ああ、あの女に婚約破棄したやつだろ。
“俺にふさわしいのはイザベラだ”――そう言ってやったら、あの女、黙り込んでたな。滑稽だったよ」
男は鼻で笑いながらグラスを傾けた。
「可哀想に、あの子、真っ青になってたわ。“なぜですか”って震えながら聞いてきて……。涙ぐんじゃって、ほんと、みっともなかった」
「立ってるのもやっとだったな。あんな地味な娘に、俺が釣り合うとでも思ってたのか?」
イザベラは肩をすくめ、扇子で口元を隠しながら、くすくすと笑った。
「しかも、その後は実家からも見放されて、修道院に放り込まれたんでしょ? ……ほんと、あの夜会、最高だったわ」
(……うわあ、クズカップル!)
真実子は、表情に出さぬよう必死に取り繕いながらも、心の中では完全にドン引きしていた。
それでも会話は続く。
「そういえばリディアの婚約者……あの男、なんか気に食わないのよね。
雰囲気が、あの女に似てるっていうか。義弟になると思うと、ゾッとするわ」
イザベラがワイングラスを揺らしながら、ふと眉をひそめた。
「確かに。でも、どこかで見たことあるような気がするんだよな……」
(……え? リディアって、たしかさっき私に「無礼よ」ってキレてきた、あのお嬢様よね?
ってことは……この人、あの子の姉なの!?)
真実子の脳内に、さっきの高飛車な美貌と、この目の前の“クズ姫”が重なっていく。
(うわー……姉妹そろって性格終わってるじゃない……)
呆れと今後への不安で、胃のあたりがきゅうっと痛んだ真実子だった。
* * *
パーティーの開始を告げる鐘の音が響き、会場のざわめきが一段と高まった。
中央の大階段を、リディアとその婚約者が腕を組んでゆっくりと降りてくる。
ドレスの裾が揺れ、招待客たちの拍手がホールいっぱいに広がる。
「本日、我がリーヴェル子爵家の次女、リディア・ロゼリナ・ド・リーヴェルと……」
司会役がそう紹介すると、ふたりは揃って優雅に一礼した。
そして――
ロフトの上、吹き抜けのホールを見渡せる特等席に立ったリーヴェル子爵が、ゆっくりとグラスを掲げた。
「皆様、本日はお忙しい中お集まりいただき、誠にありがとうございます。
本日をもって、我が娘リディアは婚約いたします。
この良き日に、皆様と杯を交わせることを、心より――感謝いたします!」
拍手の波が広がる。
煌びやかなホールに、笑顔と笑声、そしてワイングラスが触れ合う澄んだ音が響き渡った。
「乾杯!」
一斉にあちこちから声が上がり、グラスは天井のシャンデリアの光を受けてきらめく。
真実子も周囲に倣い、そっと頭を下げた――その瞬間だった。
「……っ、う……ぐ……っ!」
子爵の表情が凍りつくように固まる。
頬から血の気がみるみる引き、胸元を押さえた指先が震えた。
「だ、旦那様……?」
かすれた声が響いた、次の瞬間――
ぐらり、と体が揺れる。
足元がもつれ、体勢を立て直せぬまま、
子爵の巨体がロフトの柵を乗り越え――
――赤い絨毯の上へ落下した。
ドンッ!!
鈍い音がホール中に響き渡る。
「――きゃあああああっ!!」
「リ、リーヴェル子爵様がッ!!」
悲鳴と怒号が飛び交い、ドレスの裾がはためき、グラスが床に落ちて砕ける音が鳴り響く。
ざわめく貴族たち。
真っ青な顔で落下地点へ駆け寄る者たち。
静寂に包まれたその場で、震える声が漏れた。
「し、死んでる……ッ!」
真実子は、ただ立ち尽くしていた。
(ま、まさか……!?)
息を呑むことすら忘れ、頭の中は混乱でいっぱいだった。
目の前で起きた出来事が、まだ現実として形を成さない――。
「こ、これって……」
毒入りワイン、乾杯の直後、そして落下――
これまで何十回と見てきた二時間ドラマの名場面が、頭の中をぐるぐると駆け巡る。
現実感がまるでない。
だが、起きてしまったことは間違いなく、冷たく重い現実だった。
ご覧いただきまして、誠にありがとうございました。
次回エピソード
* 刑事と怪しい男と第二の殺人 *
よろしくお願いいたします。
ーーー
6/30 次女と長女の会話シーンを一部変更しました。
7/2 全体的にブラッシュアップしました。