第8話
階段は下りだけが存在し、踊り場から上階に行くスペースはコンクリートで塗り固められていた。
それ以外は、蛍光灯と手すりが付いているごく普通の階段で、降りたところによく見る金属製のドアがあった。
重くて分厚いそれを引いた地下3階もまた書庫だったが、今度は2階のように広大ではなく、2階と同じ複柱書架がぱらっと並び、2階のようなラベルは貼られていない。
本は全て大型で、日本語、外国語の百科事典各種が、同タイトルごとに固めて収められており、固まりと固まりの間は大分空いて見通しが良い。
そういう立て付けの書庫の部屋が十数室ある、というのが3階の配置だった。
小夜は、時々えーと、と呟き、書架の間を覗き込みながらじぐざぐと進んでいく。
歩みはゆっくりだったが、どこを直進してどこを曲がるかをほとんど迷うことなく選んでいる。
地下2階のショックを引き摺っている奏太は、とりあえず黙って着いていきながら、どういう基準で通り道を選んでいるのだろうと不思議に思った。
迷った感じでもなく、1台の書架を一周して順路に戻った時は、何の儀式かと本気で困惑したが、尋ねられず手をこまねいているうちに、至極あっさりと次の降り口に辿り着いてしまった。
特に本を触ったりすることなく、そのせいなのか何も現れず何も起こらなかった。
2階のあのアロサウルスもどきの出現を、小夜はトラップだと言ったが、もしかすると書庫内の本に触らなければトラブルは起きないのではという希望を持った。
もっとも、触らなければ良い、という予想は下階ですぐに砕かれる運命だった。
地下4階は長く狭い通路だった。
図書館ではなく温泉旅館の廊下といった雰囲気で、レトロなランプシェードに裸電球が灯り、通路の両脇に、高さ1mほどの低い木の本棚が隙間なく並んでいた。
本は全て文庫本で、しかも古本のような草臥れ方をしていた。
並べ方は、ここまでの書庫と異なりバラバラらしい、何とかの事件簿というタイトルの隣に、部下の"しつけ方"、史記、風の時代が分かる本、とごちゃ混ぜに仕舞われている。
請求番号は貼ってあるがもちろん順番通りではなく、まるで掻き集めた本を適当に突っ込んだような、図書館らしくない収納の仕方だった。
ラノベも混ざってる、と奏太が身を屈めて見ていると、小夜に声をかけられた。
「軽くでいいので、ちょっとだけ走れますか」
「え、あ、はい」
奏太が身体を起こすと、小夜は軽く眉を顰めて、ドアのない通路の入口、今降りて来た階段の方を振り向いたが、ぱっと顔を戻して、
「行きましょう、腕痛かったら無理しないでください」
と駆け出した。
何故走るのか、階段に何かあったのか先に聞きたかったが、腕に響かないように走るのに気を取られて出遅れた。
途中で聞くのは物理的に無理だった。
横の広がりこそないものの、2階に負けず劣らず延々と長い部屋を、いつまで続くのかと苛々し、焦り、それを通り越してうんざりするまで抜けることはできなかった。
最終的にはちょっとだけ、では全くなく、走っているとはとても言えない速度、速めに歩いているというのが正しいペースまで落ちてしまい、やっとのことで踊り場スペースに飛び込んでからしばらく、2人とも肩で息をするのを止められなかった。
「あの、聞きたい、んですけど」
「は、い、何で、しょう」
「何で、走る必要が、あったん、ですか」
5分以上経っただろうか、奏太は、壁に手を付いたままだがようやく問いを吐き出せた。
肝心の小夜の方は、しゃがみ込んだ上、さらに息も絶え絶えになっていて、しばらく発声もできずにいたが、ようやく言った。
「走った方が、良かった、んです。トラッ、プが」
「トラップ!?どこに!?」
「うえ、上の、方、に」
「どこの上!?」
小夜は天井、と不明瞭に言った。
4階の始まりにはドアはなかったのに、終わりにはあって、閉ざされてしまった今は4階の光景は見られなくなっている。
天井なんて、電灯が下がっていたことくらいしか記憶にない。
トラップがあったことに全く気づかなかった。
ここから何か見えないか、と僅かな期待を持ち、ドアを見ながら「開けない方がいいですよね?」と念のため尋ねると、無言で何度も頷かれた。
どんなトラップが何に仕込まれていたのか、走ったということは留まっていると発動するのか、ここでは何の本にも触っていないが何が出て来るトラップだったのか。
またしても疑問が積み上がっただけで終わったことに加え、今度は無事に切り抜けたという成功体験が、「教えてくれれば良かったのに」という不満を口に出させる。
「すいま、せん、あそこで、もたもた、してるの、良くないな、って」
なかなか復活しない小夜は、高校が帰宅部だった奏太よりも体力がないらしい。
床と大分仲良くなってしまっている小夜に、奏太は後でまとめて聞こうと諦めることにした。
奏太の方も、脚がまだ生まれたての小鹿状態で、この後何階まで降りればゴールなのかと気が遠くなる思いだった。
*
ようやく脚が回復し、降りていって地下5階のドアを開けると、両脇に、ドアと同じ幅で、奏太の背よりもかなり高い、むしろあと10数センチで天井に付きそうな木製の本棚が聳えていた。
それだけではない、正面にも同じように丈高い本棚があって、入室した者と相対する状態になっている。
ただ、三方囲われ行き止まり、ではなかった。
両サイドの棚は正面とくっついてはおらず、 左右に曲がって行けるようになっていた。
木製本棚にも本が詰まっていたが、複柱書架と違って背面にも板が付いているため、奥が全く見通せない。
「うわ、迷路か……」
奏太が呟くと小夜が、「地下3階よりも難易度が高いやつです」と答えた。
「え、3階ってあれ迷路だったの」
だからあんなにきょろきょろしてたのかと合点がいった奏太に、小夜は頷いて
「3階は道さえ間違えなければ大丈夫だったんですが、ここは迷路の難易度が高い上に、間違えても間違えなくてもいろいろ起こります。慎重に行きましょう」
と言った。
「いろいろって……さっきのもどきみたいなのが出て来るとか?」
「出て来ると思っておいた方がいいです。この構造の階は毎回必ずセットされてるんですが、起こることは毎回違うんです。もちろん何も起こらないで抜けられるルートもあるんですが、絶対とは言えないです。それに、この階に留まってる時間が長いほど、何か起こる率が上がっていきます。多分、ここでリタイアする人結構いるんじゃないかな」
小夜に「行きましょう」と促されたが、奏太はすぐには足を動かせなかった。
地下3階、4階とトラブルなしで抜けて来られたせいで、この階はほぼ確定で何かが起こると宣言され、少し落ち着いていた腕の痛みがぶり返した気がした。
「ちなみに、何か起こったらどうすりゃいいの、迷路だけど……逃げればいい感じ?」
躊躇いながらもそう尋ねざるを得なかった。
しかし予想に反して、小夜は真面目だがあっさりと「大丈夫です、何とかするので。何とかなります」と請け合った。
経験者ゆえ、高難易度というこの迷路の攻略法はよく知っているということだろうか。
奏太は思わず、
「何とかって、どうやって」
と尋ねたが、小夜の答えは、異常事態、小さくない音量で鳴り出した呼び出しチャイムによって、遮られた。
はっと見上げると、直上の埋め込みスピーカーが、ピンポンパンポンというよく聞く音階を奏でていた。
余韻を帯びて音が終わった後、さーっというオンマイクでの無音が数秒あった後、明らかに機械による女性風の声が、
『運営事務局からお知らせします。受理番号42番の方は失格となりますので、その場から動かずにお待ちください』
と読み上げるように述べた。