第3話
「では、早速開始させていただきます。予約票をお手元に持ってお並びください」
アナウンスがされるなり、室内の数十人は、いや百人以上いるかもしれないが、一斉に前方へと詰めかけた。
段取りの分からない初参加の奏太も、気圧されながら並びの汚い列に加わった。
「押さないで!押さないでください、一列にお並びください!順番は関係ありませんので!」
十数人はまだ後方で様子を見ており、何となく強者感を覚えた奏太もそっちに混ざろうかと一瞬気を引かれたが、逸る気持ちに負けてそのまま大勢に流れた。
列は遅々として進まず、奏太は手癖でスマホを取り出したが、圏外だったのを思い出してまた鞄にしまった。
ここが地下だからではない、地角町図書館の建物に一歩でも入ると、スマホは圏外になる。
図書館内でインターネットに繋がっている端末は全て有線接続であり、スマホ、携帯、パソコン、ゲーム機、ウェアラブルデバイス、利用者が持ち込んだ機器の通信機能は悉く働かなかった。
情報化という言葉が社会に溶け込み、ネット環境が生活必需になっているこの時代にスマホ等が使えないのは、公立の施設、ましてや図書館としてどうなのかという声は当然あり、抑止装置を付けるべきではないと、初当選したての町議会議員から抗議があったが、当局の回答は「そのような装置は設置しておりません」というものだった。
何故圏外になるのかについては、建物がシールドルーム化されているわけでもない、というにこやかな回答だった。
そういう措置を取っていないことは、予算を審議する議会なら知っているのでは、というニュアンスが含まれていた。
しかし、はぐらかしに怒ったのは当の議員と、議員を突いた支持者だけで、議員は程なくして辞職し町を去り、支持者は口を噤んだ。
通信ができるかどうかを問わず、企画展示ではスマホを始めとした一切の通信機器は持ちこめないと決められている。
先程の説明では、本以外の荷物は全て預けなければならないということだった。
持ち込んで発覚すればこれも失格になる。
余計な物の持ち込みで失格になる者が最も多い。
超小型カメラなど、見た目では絶対分からないレベルで服に仕込めたりするはずなのに、どんな精度でサーチしているのか、ほぼスタート直後に発見される。
誤ってシャープペンシルを持ち込んでしまったというケースも失格になり、かつ永久追放になるため、入る前に自分で何回もチェックするのがセオリーだと、ごつい男が周囲に得意げに話していたのを奏太は盗み聞きしていたので、荷物入れ用として配られたビニールに持ち物を突っ込み、自分の番が来るまで、ポケットの中を何度も漁った。
奏太の前には難しそうな中年、20代くらいの茶髪、年齢不詳のポニテなどが並んでいた。
久しぶり、のような滑り出しから親し気に会話している2人は、小脇に抱えている本がハードカバーのごついもので、強者感が溢れており、奏太は自分の本の薄さに今更ながら不安を感じ始めた。
本を1冊持ち込めるというルールは事前に聞いていたが、持ち込んで何に使うのかは
、またしても調べても情報なしだった。
しかも本と言っても、漫画は全部アプリ読みしているから紙では持っていないし、字の本なんて最後に眺めたのは高校の教科書くらいだったので、捨てるのも面倒で実家に放置していた中から、一番分厚いという理由で英和辞典を持って来た。
英語が読めない時にも使え、良いアイディアだと思ったのだが、見渡す限り立派そうな本ばかりで、自分の辞典が場違いに見えて内心焦り、手癖でスマホを触って圏外だったと気づくループを何度かやった時、間もなく奏太の番だということに気が付いた。
*
まず、予約票を職員の1人に渡し、本人確認のためフルネームと生年月日、住所を確認される。
もう1人の職員から入れ忘れはないかを確認された上で、持ち物を詰めたビニールの口を太い輪ゴムで留められ、受理番号と名前が印字されたシールがその上に貼られた。
ビニールはそのまま回収され、注意事項が早口で復唱される。
その1、ゴールに到達した場合、その場で待機すること。
その2、リタイアする場合も、その場で待機すること。
その3、適時にリタイアすれば次回もエントリーができるため、決して無理をしないこと。
その他いくつかは昂揚と緊張で耳に入らず、
「では準備はよろしいですか?」
という区切りで我に返ると心臓が鳴り過ぎて痛いことに、奏太は気が付いた。
「は、い」
押し出す息とともに返事をすると、
「では、エレベーターの列に並んでお待ちください」
とギャラリー前方の角にある鉄のドアの方を示された。
ドアは開いていて、何人かが並んで待つ少し暗い先にはエレベーターがあり、1人乗り込み扉が閉まると職員がホールボタンを押す、が繰り返されていた。
表示はB1とB2が交互に点灯し、会場は地下2階にあることを示していた。
1人ずつしか乗せないため、順番待ちがなかなか減らず、玉突きでギャラリーの人も捌けない悪循環に陥っているのが見て取れ、一気に降ろせばいいのに、と奏太が思っていると、前の男に話しかけられた。
「乗るだけ乗せりゃいいのに。なあ」
「え、あ、そっすね」
「君は初めて?」
「あ、ハイ」
「俺もなんだけどさ、ここの地下2階って、管内図に機械室と書庫って描いてあったんだけど、書庫めちゃめちゃ小さいんだよな。こんなに人入るのかね」
奏太より年上らしく、背も高く眼鏡を掛けている社会人風の男は軽く言ったが、若干のわざとらしさが感じられた。
ギャラリーにいる間は誰にも話しかけられず、人がいすぎるのに臆して自分からも声をかけられなかったが、これはもしかすると、企画展示について情報を得るチャンスだと、初参加だと聞いたことも忘れて奏太は思わず尋ねた。
「あの、俺らって具体的に何するんですか、何するか分かります?」
「うーん」
「本何に使うんですかね?図書館なのに本持って来いってのも分かんないし」
「それは」
社会人の回答は、奏太の背後から来たせせら笑いで飛んだ。
振り向くと、「そんなのも知らないで来たのかよ」と毛穴が開き気味の小太り中背が、脂ぎった鼻を上下させた。
「何ですか」
「瞬殺だな、お前みたいなのは。何その英語、どう使うかも分からねーで持って来てんじゃん、情弱」
脂鼻が持っているのは、タイトルは読み取れなかったが分厚く、A4版より一回り以上大きいハードカバーで、持って来る本がやはり間違っているのではないか、と不安が急激に大きくなっていると、社会人眼鏡が奏太の代わりと言わんばかりに食ってかかった。
「あんたはクリアしたことあんの」
「はあ?」
「ないんだろ。クリアできなけりゃ瞬殺でも何でも同じじゃないの、部分点ないって聞いたけどこのゲーム」
「はあ?何、部分点って。意味分かんねーけど」
「部分点の意味も知らないわけ、普通の日本語だけど」
「そうじゃねえよ!」
鼻デブが声を荒らげて掴みかかろうとするのを、「そこの方達、止めてください!始まる前に失格になりますよ!」と厳しい声で職員が裂いた。
「すみません……」
「いやいや。俺、塾講師だからさ」
静まってから小声で前に声をかけたが、返って来たのは照れ隠しなのだろうが無意味な情報で、いやそれは聞いてないし、と内心でツッコミつつ、さりげなく抱えている本の表紙に、『アイスランド・サガ』と書かれているのを盗み見た。
何の本だろう、聞いてみるかどうか迷ううち、社会人眼鏡の番が来てしまった。
「お互い頑張ろうな」と奏太に声をかけてから、狭いエレベーターに収まった彼は、職員の「B2を押してください」という指示に従って、眼鏡の人は閉まるドアに消えて行った。
閉まるや否や後ろから放たれた、死ね、即死しろという鼻デブの小声の罵倒を、心底うざいが言い返すと本当に失格になりそうで、苛々を抑えながら、
「次の方、どうぞ」
という促しに応じて、再び開いたドアの中に一歩進んだ。
エレベーターには、開閉以外にはB1とB2のボタンだけが付いていて、上部の階数表示もB2の右側に、丸い点が1つ付いている以外は基本的には同じだった。
先程乱闘を止めた職員が、初めてだという会話を聞いていたのだろう、笑いかけながら奏太を見送った。
「下まで降りたらスタートです。では頑張って」
古いエレベーターなのか、ドアが閉じる時だけはガチャンと揺れて騒がしかったが、下がり始めると喧騒が絶たれモーター音だけの閉鎖空間になる。
B1からB2へ降りるのはそれほど時間はかからない。
間もなくチン、と慣性が体重を引き戻し、軽くふら付いた奏太の眼前で、ドアがずるっと開いた。