第14話
「準備はいいですか」
「……いい、と思いますけど」
背中越しに聞かれて、こうなるといいと答えるしかないが、語尾に逆のニュアンスが滲んでしまった。
奏太は冷や汗を掻き、言われた通り、英和辞典を一応開きながら、もう何度目かの「大丈夫か」を内心で反芻した。
集密書架の1ブロックは、両端の棚が床に固定されて動かない仕様になっている。
2人はまず、2方向が壁寄りになっているブロックに移動し、ハンドルを回して端の1台とすぐ隣の棚にスペースを開けた。
そして、両脇の棚のうち、可動する棚に収めてある本を全て取り降ろし、邪魔にならないところに、できるだけ順番を崩さないように積み上げた。
そしてハンドルがない方の口を塞ぐように、奏太が通路側を向いて立つ。
小夜は反対側からスペースに入り、奏太と背中合わせに立った。
ハンドル側の侵入口を正面にした小夜の手はボールペンを握っている。
奏太の偶然の行動を種に、小夜が思いついたのは、この階にある文字を悉く手中に収めたい犯人を、固定した順路を移動させて、確実に居場所を把握し待ち受けるという作戦だった。
奏太が一方を塞ぎ、移動棚と合わせて凹型になった空間の最奥に小夜が立ち、己の本に書き込んだ字を奪いに来た犯人に対処する。
2方向が壁なので、犯人の経路をある程度限定させることができる。
端を選んだのは、動くのが一方だけであり、万が一両棚が迫って来て挟まれる事態を潰すため。
片方は動く恐れはあるが、空の棚になったことで相当に軽くなっていて、押し返すこともできそうだった。
本を取り降ろしたのは、棚が揺れて落ち、通路を塞がないように、また気を取られないように。
他の手が思い浮かばない以上、作戦通りにやってみるしか術はないが、空いている上から飛び込んで来られたら意味がないのではとか、奏太が立っている側からの侵入はこれで防げるのかとか、もし奏太側から"突破"された時、突破された壁の奏太には何の被害もないのかとか、次から次へと不安要素が思い浮かぶ。
第一、計画通りに犯人が行動したとして、ストレートで突っ込んで来た犯人にどう対処するつもりなのか。
彼女曰く、「何とかするので大丈夫です」と、空っぽのままの本を持ち上げたが、正直何が大丈夫なのかは分からない。
愛読書だったとはいえ、字を失い、ただのノートになってしまった紙束をどう使うのか。
奏太は思わず問いを接いでしまう。
「本当に……これで行けますかね」
「もしダメだったら他の方法を探しましょう」
探す機会は来ない、と言いたげな力強さに続けて小夜は背中合わせに、行きますよ、書きますねと、奏太に告げるだけでなく、自分にも言い聞かせるような調子で呟いた。
奏太が唾を飲み込んでから小さく同意を示すと、カチッとボールペンをノックする音に続いて、ペン先に押されて紙が鳴り始める。
と、一呼吸置いて何処かでハンドルが揺さぶられ、先程と同様、それが急激に近づいて来るのを奏太の耳が拾った。
「来ました」
英和辞典はきっちり開きながら、身体で止めるつもりで、そもそも物理的に止められるかはともかく、腕を上げて両肘を張り、片方は痛いし力は碌に入らないが、とにかく隙間を塞ぐ体制で仁王立ちする。
書き終えた小夜はボールペンを投げ捨てて、正面へと顔を上げる。
しかし予想に反して、ハンドルの揺さぶりがこのブロックに移動して来ない。
それどころから、少しの間を置いて、何かをガッと押し込む音が近づく。
何の音か、という疑問が脳内を勢い良く駆け巡り、奏太の記憶を絡め取る。
この階で何度もやった、押し込む動作、その後でハンドルを回し棚を動かす―――。
「川上さんまずい、ロック外してる!」
2人が行動を始める前に、このブロックには全てロックをかけた。
勝手に動き出されると挟まれる危険があるからだ。
他方で、先程奏太が辞書に名前を書いた時、犯人は他の行動なし、まっしぐらに字を奪いに来た。
だからこそ、すぐ隣の棚の重量を落として対策を取ったのだが、両端の不動の棚を除いた6台が一気に動かされるパターンは想定していなかった。
離れた位置でハンドルがガチャ、と鳴り、ぎぎ、という軋みとともに、聳える棚が移動を開始した。
1台だけ動かすのとは異なり、重さで初動こそ鈍いが、棚と棚との隙間が狭まり始め、いずれは重量から速度を得て指数関数的に動き、あっという間にささやかな隙間はなくなるだろう。
2人を押し潰してから文字を奪うつもりだ、青くなった奏太が後ずさりして棚の間から身を引きかけた時だった。
小夜が猛然と隙間から通路へ飛び出しながら、左を向くよう身体を捻った。
そして視線の先、恐らく勝手に動いているハンドル付近に向かって間髪入れず、鋭く一息で言い切った。
『我はわが愆を知る、わが罪は常にわが前にあり』
奏太の視界外から、黒板をプラスチックケースで擦ったような、キキァ、と甲高い耳障りな音程が轟き、旋風のような気流の流れが、下から上にわっと吹き上がった。
それから一呼吸置いて、潰そうとする棚の力が明らかに弱まる。
慣性で動いているだけのようで、奏太が力一杯押し返してみると、大分重たくはあったが逆らわずに離れていく。
そうして再び開けた間を戻って、奏太は脱力してしゃがみ込んだ小夜に、「どう、ですか?いなくなりました?」と声をかけた。
小夜は手の中の本を見下ろしながら、「みたいです」と答えた。
開いてあるページは裏表紙の裏、そこには下の端に、川上小夜、と少し雑に名前が綴ってあった。
「名前書いたんですか」
「はい、何を書いたらいいのか思い浮かばなくて。大事な本だったので落書きは嫌だったし、晴山さんの真似しました。持ち物に名前を書くのは普通だから、本も許してくれるんじゃないかな、雑でも許して欲しいなー、って」
ぱた、と閉じた表紙には、『夏目漱石全集(二)』という文字が戻っており、奏太の本も捲ると中身があった。
書庫内の本も同様のようで、すぐ傍の背表紙には、『判例集』という金文字が揃って光っている。
「今のって、やっぱりその本の文章なんですか」
「え、ああはい、そうです」
「すごいですね。もしかしてその本の内容、暗記してるんですか」
小夜はきょとんとしたが、すぐに照れくさそうに、
「強烈だったので偶然覚えてたフレーズなんです。はー、効いて良かった……」
と小さく笑った。
偶然覚えていたと言うが、ともすると丸暗記しているのではないかと思われる淀みのなさだった。
片づけないと、トラップが発動しそうということで、小夜がまとめて運んできた本を、本を片手で1冊ずつ棚に戻していく。
休んでいていいと散々言われたが、片手は全く問題がないからと押し切った。
本を順番に収めて行きながら、小夜がさっき読み上げた、三四郎がどのくらいの長さの話かは知らないが、白紙の本を前に、思い出そうとする予備動作もなく、一言一句間違えずに記憶から形にできるのは、強者感があるなと奏太は何となく思った。
片付け終えて最初の案内板を見に行くと、A4の紙に印字は戻っていたが、内容は
『次の階へ進むことができます』
と変わり、下向きの矢印が付け足されていた。
「何これ、ここから下に降りろっていうこと?」
床は切れ目のない絨毯地で、どこかが開き地下への階段、ということはなさそうだ。
「いえ下じゃなくて、戻れ、ってことじゃないでしょうか」
小夜が振り向きながら言った。
2人の背後には、地下6階に降りて来た時の鉄扉が控えている。
「……このドアって5階から降りて来た時のやつですよね」
「そう、ですね」
「開けたら階段が変わってる、っていうことですか」
「多分……というか変わっててくれないと降りられない……」
開けてみますね、と小夜が恐る恐るノブを回し、押し開けた先を、奏太がその後ろから覗くと、空間には同様に下り階段しかなかった。
ただしそれは、地下5階からのではなく、地下7階へのものであったが。
もう何故、どうやればこうなる、というところには疑問を持たなくなったが、変わってんのかい、と苛立ちとともに突っ込まざる得ない心境ではあった。
そうして降りた地下7階は、書庫というよりは広大な閲覧室で、しかも子供向けの背の低い棚ばかりがある部屋だった。
棚も、列をなして整然と並んでいるわけではなく、自由配置というか、三角形に組んであったりだとか、本棚自体が直方体ではなく筒型だったりしているため、導線がくねくねとしている。
そして、そのくねくねに、マンモス校の小学校低学年を丸ごと引っ越しさせてきたのかと思うほどの子供達が、走り回ったり、座り込んでお喋りをしたり、もちろん本を読んだりと、思い思いの行動をしていた。
図書館だというのにかなり騒々しい。
もちろん、この子達は本物ではない、トラップか企画展示の演出かどちらかというところだが、この見た目は子供だらけの空間で、どう行動すればいいのか、見通しは非常に良いが、またしても果てが見えない部屋に、奏太が地下2階を思い出して途方に暮れていると、子供達の笑いや叫びを縫うように、左の方から突然
「あれ、小夜ちゃんじゃーん」
と男の、場違いに明るい声がした。