第12話
地下6階は、3階と同様複数の部屋があるようだったが、ハンドル式の集密書架が並んでいた。
集密書架は、移動棚が8台ずつの固まりになって6列あり、1部屋に収まっている。
書庫であることは今までの階と同じだったが、入室してすぐのところに、ホワイトボードの案内板が立っていて、そこにA4の紙が貼られていた。
紙には『奪われた文字を取り戻せ』と印刷されていた。
「奪われた……?」
「どういうことですかね……」
小夜も意味が飲み込めないでいるらしい。
2人が紙を前に佇んでいると、紙上のゴシックの文字がぺり、と音でも立てそうな様子で紙から"剥がれた"。
驚いたそばから、文字はてんでばらばらの方向に浮き、案内板の後ろに回り込んだ。
しかし後ろを覗いてみると、文字はどこにも存在していない、無地の白が沈黙を示していた。
どういう仕組みで文字が自走ならぬ自飛したのかは、どうせまた本の力という謎要素なので、早々に思考の外に追いやったが、指示の謎は考えなければならない。
「今の文字を取り戻せ、っていうことでしょうか。元に戻せ、っていうことなのかな……でも何処に行ったんだろう」
「裏に隠れましたよね。隠れたあと消えたとしか思えないけど」
「書庫の中に散らばったのかな……とりあえず進んでみますか」
もし、剥がれて散って行った文字を探して紙に戻せという指示だとすると、書庫の中から11文字を探し出して紙に貼ると考えるのが素直だが、例えば一文字ずつ書架の上や本の間に挟まっていたりするのを、この移動棚を1台ずつ動かして丁寧に探していくのは恐ろしく手間がかかりそうで大分鬱陶しい。
見たところ、この階の棚は基本みっちり詰まっていて、棚の数だけ本があると考えて良さそうだった。
今までの常識外れのパターンだと、剥がれた文字が外からは見えないところ、下手をすると本のページの中に紛れている可能性も否定できず、気が遠くなりそうだった。
しかも、問題は11文字がどこに行ったのか、だけではなかった。
奏太に同意して歩き出した小夜が、手前の移動棚の横を過ぎた時に、それが兆候として現れる。
ハンドルが独りでに回り出し、移動棚がすうっと一列スライドしたのだ。
小夜と、後ろに続いていた奏太がほぼ同時に気づいて立ち止まったその前で、棚はカチャン、と静音だけさせて隣の棚と接触した。
奏太と小夜は顔を見合わせた。
棚と棚の間には誰もいない、もとい"何も"いない。
奏太が勇気を出して反対側を見に行ったが、何も異常はなかった。
その上、この移動棚には一方にしかハンドルが付いていない。
つまり、反対側からの操作でこの棚を移動させることは不可能だということだ。
にもかかわらず、2人の目の前でハンドルが回った。
図書館外だとただの怪奇現象だが、この企画展示では起きてもおかしくない事象ではあった。
分かってはいるが少し怖気付きながら、棚が動いて幅が狭まったりしないよな、と奏太は足早に引き返した
引き返す間に、何気なくここの書庫は何の本置き場なのかと棚に目を遣り、奏太は、ふと3つ目の異常に気が付く。
何もなかったことを伝えてから、奏太はそれを口に出した。
「ここの本って、どれもタイトル書いてないやつばっかりですね」
「え?あ、ホントだ」
棚を覗いた小夜が目を丸くした。
近くに収められている黒茶色の10冊ほどは、同じ高さ、同じ表示素材が使われており、何某かのシリーズだという推測はできた。
しかし、背表紙に何の文字も刻まれておらず、シリーズ名は分からない。
さらに解せないのが請求番号のシールはあるが無記載なことだった。
デザインとして、背表紙にタイトルを書かないことはまだあり得たが、請求番号の方は変だった。
しかももう一度移動棚の間を通り、左右両方を確認してみると、全てにタイトルなし、請求番号なしだった。
隣のブロックの8台、空いている箇所も同じ状態だった。
入手したばかりの本の整理中で、シールだけ貼ってまだ番号を振っていない、という読みは、シールの上から保護シートで養生してある時点で外れが確定していた。
図書館が、番号を書く前にシートを貼る愚をするはずがない。
難しい顔で考えていた小夜が、思い切ってというふうに、棚から1冊を抜き取った。
本棚から本を取る、地下2階で出くわしたトラップが再来したら、と身構える奏太をよそに、小夜は本を開く。
開いて、息を飲む音がはっきり聞こえた。
「真っ白だ……」
同じ呟きを、奏太も内心でした。
その本は中身がなかった、一切の文字が消えてなくなっていた。
中表紙だったらしいページには枠囲いが、目次には恐らく章ごとのタイトルとページ数を繋いでいたのだろう線が残っていたが、文字は全く存在していない。
本文の方は、どこまで捲っても完全に真っ白だった。
別なシリーズの本も何冊か見てみたが同じ状態で、ただ挿絵だけが、捲ったページに突然出て来ることはあった。
絵は奪取の対象外だったらしい。
これで分かったのは、タイトルがないというのは見立て誤りだった。
ないのではない、本文を含めてタイトルごと"奪われた"と考えるのが正しいようだった。
では誰に、または何に奪われたのか。
佇んでいる2人の背後で突然、別な移動棚がガチャンガチャンと鳴った。
ロックがかかっていて移動はしなかったようだが、その接触音は、誰かがふざけて揺すぶったような耳障りな響きを持っていた。
まるで揶揄い声のようでもあり、奏太はビビったが、喉元過ぎるとイラッともした。
小夜はちょっと眉を寄せてから、「奪ったのって、あれ、ですかね。正体は分かりませんけど」と呟いた。
「あれもトラップなんですかね、姿見えないですけど」
「うーん、まあ似たようなものだとは思います」
「こういうのって前ありました?ホラー系謎解きっていうか」
「謎解きはありましたが、文字が盗まれるパターンは初めてです。まあ、いつも同じ謎ってことはあり得ないので仕方ないですけど」
小夜はうーんと悩みながら、「奪われた文字ってさっきの11文字だけじゃなくて全部、ってことですよね。ここにある本ぜん、ぶ」
小夜は返答を途中で切った。
どうしたのかと思っていると、小夜は酷く慌てて自分の本を開き、今度こそあっと声を上げた。
上の階で開かれた時は、2段組みになった文章が整然と並んでいた本は、どのページも白紙に変わってしまっている。
表紙と背表紙に記されていた、夏目漱石全集(二)というタイトルも失われ、灰色の中に生成色の長方形というデザインだけが表紙の名残を留めていた。
驚いている奏太に、小夜が切羽詰まって指摘をした。
「晴山さんの辞書は!?」
そういえば、と奏太は慌てて自分の英和辞典に目を遣ったが、表紙は既にのっぺらぼうになっていた。
念のため開いた、中は言うまでもなかった。
地下6階に存在している何かが、トラップなのか別なものなのかは判然としないが、このテリトリーにあった全ての文字、表示紙や書庫内の本だけではなく、図書館の所有しない本からも、その何かが奪っていったことを意味した。
「やられた……」
立ち尽くす2人の背後で、移動棚が喜ぶようにガチャガチャンと揺れた。