強かな英雄は恋する乙女 〜貴方なんかに靡かない〜
「お前が清水家の娘か。全く要らない女を寄越してくれたものだ。私はお前を迎えることを認めたわけではない。余計なことはするな。いいな」
「…」
「はぁ、返事もまともに出来ないのか。お前は引っ込んでいろ。私を怒らせたくないのであればな」
そう言うと男は掌から水の渦を出現させるとそれを目の前の女に浴びせかけようとした。
女は諦めたように目を閉じた。
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ドンっ!
清水鮎子、15歳。
義姉の美子に突き飛ばされて前世と前々世を思い出した。
「貴女さえいなければ…!」
鮎子は急に記憶を思い出した混乱で何も出来ずにいると流石に悪いと思ったのか美子は表情を歪めて去って行った。
名家の庶子である鮎子は十歳の時に実母を亡くし引き取られた。義母となった珠代は妾の子である鮎子を見て複雑そうな表情を浮かべながらも夫である当主に逆らうことなく鮎子を受け入れた。といっても世話は基本的に使用人に任せており、それは実の娘である美子に対してもそうだった。
清水家の女には重要な御勤めがある。領地内にある大きな大きな神池の浄化である。清水家には代々、水を浄化する能力を持った女児が生まれ神池の水を守ってきた。この国は何代も前の大戦の影響で山々の土壌が汚染され、水汚染が問題となっている。困った先人たちは各地に大きな池を造り清水家の女たちを派遣した。そうしているうちに各地に清水家が根付き清水家としての権力は相当なものとなった。
美子や鮎子が住んでいるのはその本家である。父はその本家の一人息子であり妻である珠代は地方の清水家から嫁いできた。本家の使用人たちは地方から嫁いできた珠代を始めこそ見下していたが、懸命に神池の浄化を行い各地の清水家の女たちと密に連絡を取り彼女らを纏め上げた手腕をいつしか讃えていた。
珠代は本当は美子の側にいて子育てがしたかった。しかし本家の神池は広大でありその浄化と各地の清水家の女たちからの報告や問題の対応に追われて子育ては使用人に任せるしかなかった。父はと言えば毎日会合だと言って夜遅くに帰ってくるか朝に帰ってくる。実際は私腹を肥やすための汚い会合に行くか愛人のところへ行っているだけの男だった。
なぜ私がこんなことまで知っているのかと言うと、それはこの世界を舞台にした小説を前世で読んだことがあったからである。鮎子が主人公の物語であった。
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物語のあらすじはこうである。
妾の子であり本家とは離れた地域で暮らしていた鮎子は母が亡くなると本家に引き取られる。それは鮎子に浄化の力が出現する可能性があったからであり早い話が美子のスペアである。
鮎子が父や義母に会う機会はたまにしか無く、義姉の美子は鮎子が引き取られた当初こそ「妹が出来て嬉しい!」と抱きつき優しくしてくれたが鮎子が美子よりも強い浄化の力を発現したことにより鮎子を邪魔者扱いし始める。
元々親の愛に飢えた美子を不憫に思っていた使用人たちと美子がグルになり鮎子を能無しとして当主である父に報告し鮎子を龍神家に嫁がせようとするのだ。
龍神家は龍神の加護のお陰で敷地内の水源は浄化せずとも綺麗なため清水家に頼らずとも水に困らない唯一の一族であり、故に清水家の名声を良く思っていない。龍神家の男児は龍神家こそ国一番の名家と厳しく教育されるため確かに優秀ではあるが山よりも高く海よりも深いプライドを持ち他家をことごとく見下すモラハラ野郎集団であった。
仲が悪い清水家と龍神家ではあるが、龍神家の加護と清水家の能力を掛け合わせれば、国の汚染水問題を根本的に解決できるのではないかという噂が蔓延しており国民からの期待が高まってしまったため縁談が結ばれた。
国一番を争うような名家の結婚ということで準備のために婚姻の儀までまだ一年はあるが、さっさと結ばれて戻れなくなってしまえとばかりに鮎子は龍神家に送り出されることになる。
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龍神家に行く前日、鮎子は広大な神池の端にある祠へお茶を持って向かった。一日三回この祠で義母の珠代が浄化を行っており、ちょうど珠代が出てきたところだった。
「鮎子…」
珠代は疲れ切った表情をしている。鮎子がお茶を渡すと珠代はお礼を言いごくごくと飲み干した。少しスッキリした様子の珠代は鮎子に向き直る。
「明日、龍神家に行くそうね。御勤めを果たせるよう祈っているわ」
そうして鮎子の手を取って握る。その力はとても強かった。
「必ずや果たしてみせましょう」
鮎子が珠代を真っ直ぐ見て言うと珠代はフッと笑って去っていった。
珠代が去った後、神池上流域まで歩いて行くと一人の男の姿があった。
「あれお嬢さん、お久しぶりですなぁ。すっかり別嬪さんや」
座敷童のような髪型をした糸目の男は人懐こい様子で鮎子に話しかける。
「永衡さま、今年も見学してよろしいですか」
「ええですけど、こないなまやかし物を見て楽しいですか?相変わらずお嬢さんは変わったお人やなぁ」
「鮎子とお呼びくださいな」
「はぁ、鮎子はん」
永衡と呼ばれた男は困ったような顔をして鮎子の名を呼ぶ。彼は各地の水源から下流に向けて、水に棲む小さな神々が健やかであるよう祈る祈祷師である。普段は怪しげな物を売り歩いて各地をまわっており名家と名高い清水家や龍神家と違い本家を持たず何の権力も持たない流浪の一族で、一年に一回ほど神池が満水の時に顔を出している。
「それから今日は商品を見せていただけませんか」
「おや、そら嬉しい。そやけど若いお嬢さんが欲しがるような物はあったかなぁ」
永衡は背負っていた大きな籠を下ろし中から怪しげな品々を出す。
「これ、この綺麗な物をくださいな」
鮎子が指差したのは大きな貝殻のようなものがついた伸縮する杖だった。鮎子はこれが自分のお守りになるような気がした。
「ああ、これ。随分色褪せてるし安くしときますわ」
その後、商品を仕舞い込んだ永衡は祈祷にとりかかる。
「ほな始めますよ」
永衡は懐から白紙で作った小舟を取り出し掌にのせる。
「水に御座します神々へ願う。数多の均衡の健やかなることを」
ほのかに光を帯びた小舟を池にそっと入れると水の流れに沿ってゆっくりと進み始めた。水面下から見てもこの小舟は優しく光っていた。鮎子がこの祈祷を見るのは五回目だったが初めてみた時からなぜか目が離せず小舟が見えなくなるまで長い間、見惚れていた。
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次の日、龍神家に連れてこられた鮎子は夫となる予定の雷光と初めて出会った。そして冒頭に戻る。
鮎子は知っていた。雷光は清水家に不信感を持っており清水家の当主に関する調査を行い、その結果から鮎子を能無しの女と決めつけ龍神の力で水をぶっかけてくる最低な奴だと。しかし鮎子はこうも考えていた。この世界の物語を知っているとはいえ現実世界の雷光が本当に最低な奴だとは限らない。しかしそれは杞憂に過ぎなかったようだ。
「お前が清水家の娘か。全く要らない女を寄越してくれたものだ。私はお前を迎えることを認めたわけではない。余計なことはするな。いいな」
「…」
「はぁ、返事もまともに出来ないのか。お前は引っ込んでいろ。私を怒らせたくないのであればな」
そう言うと雷光は掌から水の渦を出現させるとそれを目の前の鮎子に浴びせかけようとした。
鮎子は諦めたように目を閉じた。
「シールド」
鮎子の一言で鮎子の前に水の壁が出現する。その壁は雷光からの水を防いだだけではなく雷光に向かって迫っていく。
「なっ!!」
急な展開に対応が遅れた雷光は鮎子が出現させた壁に襲われ全身びしょ濡れになってしまう。思わず尻もちをついた雷光を鮎子が覗き込む。
「あら、ごめんあそばせ」
不敵な笑みを浮かべた次の瞬間には真顔になって低い声を出す。
「二度と私のことをお前と呼ぶな」
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その後、奥の部屋へ引っ込もうと廊下を歩いていると雷光付きの使用人であるトヨがやってきた。
「鮎子様、大丈夫ですか?」
トヨは、小さい頃から父の苛烈な体罰に耐えてきた雷光の逃げ場のような存在で唯一雷光を嗜めることができるばぁば的存在だ。小説の中でも雷光に冷たくされる鮎子に優しくしてくれた。
「トヨさん…」
鮎子は雷光に水の壁を押し付けドスのきいた声を出したのが嘘のような、か弱い少女の顔をした。
「あらあら、やはり坊ちゃまは失礼なことをしてしまいましたか。鮎子様、申し訳ありません。坊ちゃまは捻くれたところがおありですが根は優しい子なのですよ」
「そうなのですね…。きっと私が至らなかったのでしょう」
丁寧に頭を下げるトヨに鮎子は儚げに笑ってみせる。心の中とは裏腹に。
『根が美しくても表に出る部分がクズならば、それはクズなのよ』
スッと目を細めた鮎子はトヨにお礼を言い、用意された自室へしずしずと消えていった。
『あら?鮎子様は既に部屋の場所を覚えていらっしゃる様子』
まだ案内していないのに勝手知ったる様子で奥に消えた鮎子を不思議に思いつつ、雷光坊ちゃんに少し小言を言わなければと客間に向かうトヨはこの後びしょびしょのまま尻もちをついて固まっている雷光を見て悲鳴をあげることになる。その後のトヨの話では雷光はトヨに「雨に降られた」と言い去っていったという。小娘にやられたとはプライドが邪魔をして言えなかったのだろう。トヨは「局所的に雨が降るなんて。龍神様のイタズラですかね」と不思議そうにしていた。
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数日間龍神家に滞在している鮎子はあれから一度も雷光に会うこともなく毎日運動をして過ごしている。トヨに「なぜ鮎子様はそのように身体を鍛えていらっしゃるのですか」と聞かれたので「趣味ですわ」と答えておいた。実際は清水家にいる頃は運動など面倒なことはしたことがない。
この屋敷には鮎子と雷光そしてトヨがおり他の多くの使用人は通いの者だった。そしてもう一人、離れに雷光の母親が療養している。小説の中であれば鮎子はそれを知らず、しばらくは雷光の機嫌を取ろうとトヨとお料理を作ってみたり雷光が出かける時に駆け付けて「いってらっしゃいませ」と頭を下げてみたり深夜に帰ってきた雷光を起きて待ってみたり健気に雷光との距離を縮めようとしていた。その鮎子の姿とトヨの「鮎子様は素敵なお方ですよ」という言葉を受けて雷光の中にだんだんと鮎子に対する好意が芽生えてくる。しかし現実の鮎子は決して雷光に歩み寄らず好意のカケラも芽生えていない。
『なぜ私が歩み寄らなければならないのかしら。ちゃんちゃら可笑しいわ』
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しばらくのんびりしていた鮎子だが次の行動に移ることにした。
朝食をどこかへ持って行こうとしている使用人に声をかけ同行させてもらう。美しく広い庭を横目に外廊下をしばらく歩くと品のあるこぢんまりとした離れに着いた。
「美玲様、おはようございます」
使用人に続いて離れに入ると既に布団が丁寧に畳んであり、髪も化粧もきちんと済ませた婦人がポツンと座っていた。
「おはよう。いつもありがとうね」
ふふっと笑った目には化粧で隠しきれない隈と小皺があった。この儚げなご婦人こそが雷光の実母である。
「あら、新しい見習いの方?」
鮎子を認めた美玲が尋ねる。鮎子は静かに頭を下げると挨拶をした。
「清水家から参りました鮎子と申します」
それを聞いた美玲は真顔になると凛とした姿で座り直し真っ直ぐにこちらを見た。
「貴女が雷光の…。私からお声掛けしなければならないのにわざわざ出向いてくれてありがとう鮎子さん。何の力にもなれないけれど、どうぞよろしくね」
深く頭を下げる美玲を鮎子は止めた。
「私はいずれ出て行く身です。美玲様が私に頭を下げることはありませんわ」
それを聞いた美玲はサッと顔色を悪くして使用人たちに席を外すよう命じた。
「貴女は既に龍神家を見限ったというの?」
さすが美玲様、理解が早くて助かる。雷光の母、美玲は他家から龍神家に嫁いだ身でありこの家の男たちの横暴さは身に染みて分かっているはずだ。実は美玲は清水家の遠い縁者の娘であり山の麓で慎ましく暮らしていた彼女に僅かながらも浄化の力が発現すると、国を救う能力を持つ子どもを作って権力を確固たるものにしたい龍神家によって無理やり嫁入りさせられてしまう。結果として息子である雷光にはこれまでの龍神家の男児と同じ能力しか持たないことが分かり夫に冷遇された美玲は心を病んでしまう。
それ故に療養している彼女は自分の息子が妻となる鮎子にさっそく横暴さを見せ鮎子は去ろうとしている、そう推測したのだろう。
「見限ったと言いますか…もちろん御勤めは果たしますけれど、雷光様とは仲良く出来そうにありませんので」
御勤め、つまり子作りのことだと美玲は思ったに違いない。夫となる雷光とは仲良くなれそうにないが子作りからは逃れられない哀れな少女に美玲は悲しげな表情で目を伏せた。鮎子はそんな美玲の心配を他所にふふふと笑ってみせる。
「私が言う御勤めは、この国の課題である水汚染を解決することですわ。雷光様と私が結ばれずともできる方法を私は知っていますの」
そう、小説では鮎子に徐々に好意を寄せていく雷光と、だんだん優しくなっていく少し俺様な雷光にときめきを覚えた鮎子は両思いとなり結婚するのだが、国の課題は二人の子どもによって解決するわけではない。
この国の中心に位置する山に二人で登り雷光がその山の龍神に語りかけ姿を現してもらい、鮎子が傷付いた龍神自体に浄化の力を注げば解決してしまうのだ。
とはいえそれはとても過酷な道のりで愛する二人は力を合わせ時に庇い合い成し遂げることができる。特に山の龍神の力は超大であり浄化の力を死ぬほど注がなければならず今の鮎子ではとてもじゃないが力が足りない。小説では倒れた鮎子に雷光がキスをし、雷光の中にある龍神の力が鮎子に流れ込み鮎子の力と合わさることで奇跡の力が発現する。そうして二人とも満身創痍になりながら山の龍神に力を注ぎ切ることができるのだ。
しかし前世の記憶がある鮎子には始めの横暴さで取り返しのつかないほど雷光のことが嫌いになっていたし、今後たとえ雷光が鮎子に好意を持ち優しくしてこようとも絶対に結ばれるつもりはない。
自分と同じような立場の少女が望まぬ結婚をしなくても良いという話に少しホッとした美玲はしかし気になることができたのか不思議そうな表情で問うた。
「ではなぜ私のところへ?」
龍神家には嫁ぐ意思はないというのに、なぜわざわざ雷光の母親のところへ挨拶に来たのかを聞いているのだろう。
鮎子はふふふと笑って話し出す。
「美玲様のご意志を確認しにきたのですわ」
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「うふふふふ!」
夕食の時間までに帰宅した雷光は居間から母の笑い声が聞こえてきたことに驚き足を止めた。出迎えをしていたトヨが嬉しそうに雷光に話しかける。
「美玲様と鮎子様ですよ。楽しそうでしょう。今朝、鮎子様が美玲様のもとを訪ねられて…あっという間に仲良くなられたのですよ」
雷光が知る母はいつも悲しげで決して前に出ない影のような人だった。こんなふうに心から楽しそうな笑い声を聞いた記憶がない。思わず急いで美玲たちがいる部屋の障子を開ける。
「雷光、おかえりなさい」
優しく微笑む母は確かに雷光の母であるが自分が知っている母とは違いまるで憑き物が取れたかのように清々しい表情をしている。それを見て自分だけがこの家に一人置いていかれるような錯覚を覚え焦った雷光はそのまま居座ることにした。
「あらあら今日は坊ちゃまもこちらで夕食を取られますか?なんてことかしら、行事以外でお揃いでお食事を取られるのは何年振りでございましょうね」
少し目を潤ませたトヨはいそいそと夕食の準備を催促しに部屋から出て行った。
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食事の量がとても少ない美玲は早々に挨拶をして退席した。残った二人は無言で食事を取り続ける。
「…あんなに笑う母を見たことがない」
「そうですか」
話し始めた雷光に仕方がないとばかりに鮎子は返事をする。
「母に何をした」
俺様な態度で雷光がこちらを射るように見る。小説でも雷光は母をずっと案じており鮎子が美鈴の笑顔を引き出した時は驚きから鮎子に詰め寄る描写があった。言い方がキツイだけで実際は怒っているわけではないのだが小説の中の鮎子はオロオロと説明し、その健気な様子に雷光は鮎子に惹かれていった。
しかし現実の鮎子はというと思い切り溜め息をつき冷たい目で雷光を見返す。
「知りたければ、教えてくださいと頭を下げてみては?」
「なぜ私がお前なんかに!」
鮎子はしぃとその美しい唇に指を当てて雷光の言葉を制した。
「お前と言うなと言ったはずです。この件について謝るまで貴方とは口をききません」
鮎子はそのまま何事もなかったかのように食事を食べ終え退席した。
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「なんなんだ、あの女は!」
雷光は腹ただしい気持ちで自室へ戻った。名家の一人息子で見目麗しい雷光は未だかつて同世代の女性からあのような仕打ちを受けたことが無い。年頃の女は皆、雷光に気に入られようと擦り寄ってきて迷惑していたほどだ。
「初日に水の壁を押し付けるわ、ドスのきいた声で反論するわ、今度は謝らないと話さないだと!?なんて傲慢な女なのだ!」
しかし今日の母の笑顔を思い出した雷光はふと冷静になって考える。あの女はトヨからの評価も良く、なんといってもずっと伏せっていた母の笑顔を引き出した。それに事前調査では父親は娘のことを完全な能無しと判断していたようだが、あの女は水を巧みに使っており高い能力が伺える。腹は立つがなかなかに面白い女なのかもしれない。
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それから数日が経ち滅多に帰ってこない龍神家の前当主、雷光の父が帰ってきた。前当主は早々に当主の座を雷光に譲り普段は愛人のところで暮らしている。しかし時折ふらっと本家に来ては現当主である雷光に口出しをしてくる厄介な男だ。雷光も子供の頃に父からの受けた厳しい体罰がトラウマになり父に強く出られず言いなりになっている。
今日ばかりは父の前で大人しくして欲しいと雷光が鮎子の部屋を訪ねてきた。
「父が君を呼んでいる」
「…」
「おい、聞こえているのか。早くしてくれ」
「…」
「全く強情な女だ。…分かった、謝る。お前と言って悪かった」
「…もう一つ」
「もう一つ?何のことだ」
「初日に私に水をかけようとしたことを謝ってください」
「なっ…!結局水をかけられたのは私の方だろう!?」
「正当防衛です。先に手を出そうとした貴方が悪いのでは」
「くっ…!…悪かった」
「ふふ、この件については許しましょう」
不意に見せた鮎子の笑みに雷光は少しドキリとしてしまう。
『いつも私の前では能面のような表情をしているのに急に笑うから…笑った顔は年相応なのだな』
雷光がそんなことを考えている間に鮎子は永衡から購入した杖を背中に隠した。
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「おおやっと来たか我が嫁よ!清水家の奴らは好かんが、なかなかに器量良しではないか。嫁でなければ私が貰ってやっても良かったな。わはは」
『この男には何の用もないわ。女を道具としか思っていないお馬鹿さん』
興味なさそうに下を向く鮎子が前当主には緊張している可愛らしい小娘に見えたらしい。
「ははは緊張しているのか。大人しい女はつまらないが口うるさい女よりはましだろう。それよりも雷光、この間の会合は上手くやったそうだな。どれ私にも一枚嚙ましてくれ」
「しかし父上、あれは今後の龍神家にとって重要な案件です」
前当主はこうして雷光の仕事に首を突っ込んでは掻き回すというなんとも迷惑な男だった。前当主は周りの者から煙たがられており、若くして当主を交代したのは前当主のせいで龍神家自体の価値が下がることを恐れた先先代の采配によるところが大きい。幸い雷光はそういったことに大変優秀であり雷光に任せておけば間違いないものを先代がこうして悪気もなく邪魔をしている状態であった。
焦った様子の雷光に対して前当主は急に怒気を含んだ低い声を上げる。
「私が邪魔だとでも言うのか」
こうして前当主が静かに低い声を出すことは雷光にとって子供の頃に受けた体罰の始まりの合図であり反射的に謝ろうとしてしまう。前当主はそれを分かっていて、わざとこのような声色を出すのだ。前当主とて今まともにやりあったら息子には敵わないことを分かっている。それを理解していないのはトラウマに囚われた雷光だけだった。
「そんな、邪魔などと…」
「ええ、邪魔です」
反射的に前当主の機嫌を取ろうとする雷光の言葉を鮎子がぶった斬った。一瞬ポカンとした表情を浮かべた前当主はしかし鮎子の言葉を理解すると顔を赤黒くさせて怒りだした。
「嫁の分際で何を言うか!」
女、子どもには怒鳴りながら暴力をふるえば言うことを聞くと思っている浅はかな男に怯むことなく鮎子は隠していた杖を出すとスラッと伸ばし前当主に突きつけた。杖に付いている貝殻のような物がキラリと光る。
「ねぇそこの貴方、子供の頃この男にこのような棒で何度も殴られたのでしょう」
杖を前当主に突きつけたまま鮎子が雷光に話しかける。二人は「なぜそれを…」と言いつつお互いに顔を見合わせている。
「その時は貴方も子供だった。でもよく見て。怒鳴って手を上げることしかできない哀れなこの男を。怖いかしら?ただの老いぼれでは?貴方の方がずっと力は強いはず。やってみてはいかが?この杖で子供の頃やられたようにこの男を殴るの。そうすればこの男は貴方に平伏してこれ以上貴方の邪魔をしてこないわ」
「…」
雷光は驚いた顔で鮎子を見て、そして父をまじまじと見た。その目に映るのはいつの間にか歳を取り自分よりも小さくなった男だった。雷光の目から自分への恐怖心が消えたことに気がついた前当主は逆に恐怖に苛まれる。今の息子にやられたらひとたまりもないだろう。
「な、何を言っているんだ。雷光は私の息子だ。私を邪険にするはずが…」
「…父上。これ以上掻き回すのはやめてください。それから他所の女性に入れ揚げるのは良いですか我が龍神家の資産からではなく父上の懐から出していただきますようお願いします。もう父上は引退された身です。本家には顔を出していただかなくても結構です」
それは実質、息子から父へ向けた絶縁状だった。
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前当主が逃げるように出ていった後、部屋には立ったまま杖を仕舞う鮎子と座り込む雷光の姿があった。
「…君は何者なんだ」
鮎子を見上げてポツリと呟いた雷光に鮎子は妖しく笑った。
「貴方の妻となる予定の女ですわ。貴方と結婚するつもりはありませんけどね」
ニヤリと笑う鮎子を見て雷光は表情を崩す。
「ははは…面白い女だ」
雷光が落ち着いた後、鮎子は雷光にこの国の水汚染を解決する方法について説明した。小説ではこの国の中心に位置する山へ二人で登るとしか書いていなかったが、その正確な位置は一年前に交わした永衡との会話にヒントがあった。
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一年前、鮎子にまだ前世で読んだ小説の知識が無かった頃。
「永衡様は各地の上流域をまわっていらっしゃるのでしょう。やはり他の水源も汚染されているのですか」
「そうですねぇ、龍神家の水源以外は汚染されているようですよ」
「どうして龍神家の水源だけ綺麗なのでしょう」
「そりゃあ龍神家は龍神に愛される一族ですからねぇ。お嬢さんは清らかな水に必要なのは何やと思われますか」
「浄化の力では?」
「いいえ。本来ならば浄化の力など無くとも清らかな水がこの地を循環してましたんやで。健やかな山の土壌と、この地に生きる全ての生き物の調和があったから。今じゃこの国の均衡は崩れてしもうてる。山々に御座す龍神様たちも弱っておられるから山の土壌も汚染されたまま。けれども龍神家はその昔、龍神様とお互いの力を交わす契約をしたいう伝説が残ってましてね。龍神家の山の土壌だけは健やかやから流れる水も清らかなんですわ」
「そうだったのですね…。他の龍神様方を癒す方法はないのでしょうか」
「うーん、私どもは水中に棲む小さな生き物や神々に対してしか祈りの効力がありませんからねぇ。でも噂なら聞いたことがありますよ。この国の中心に位置する山々の一つにこの国の龍神様たちを統べるそれはそれは大きな龍神様がいらっしゃると。麓に山守という地名の小さな村がありましてね、そこから入山すると大きな鳥居が見えて、そこから先は険しい山道が続くらしいですよ。その山の龍神様さえ元気なられたらきっと国中に良い氣が派生するでしょうね」
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雷光にはその山守村から鮎子と一緒に山に登ってもらう必要がある。その後、雷光に山の龍神を呼び出してもらい鮎子が浄化するのだ。
「分かった。準備を進めよう。そういえば我が家に所蔵されている伝説記に龍神を癒し国を救った英雄の話があったはずだ。私たちは国の英雄となるわけか」
「英雄かどうかは分かりませんが貴方の力が必要ですから期待しておりますね。それから龍神家ご当主としてもう一つ、お願いしたいことがあります。私の父だけではなく国の上層部の動きを探ってください」
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それからしばらく経って今度は鮎子と雷光揃って清水家を訪れることになった。婚姻の儀を前に雷光が清水家に挨拶をするという名目だ。清水家では神池が見える広い部屋で当主である父と義姉の美子が待ち構えていた。義母の珠代は神池の浄化をしているようだ。初めて雷光を見た美子と使用人たちはその麗しい見目にほぅと溜め息をついた。
「龍神家当主の雷光です。この度は」
と雷光が話し出すと父が遮った。
「まぁまぁ堅苦しいことは抜きにしましょう。うちの娘はよくやっていますか」
父は私が能無しだと勘違いしているので私を龍神家に押し付けて龍神家がこれからも国の水汚染を解決するような子孫に恵まれないことを喜んでいるのだろう。そんな父に対して雷光は爽やかな笑顔を崩さない。
「ええ、鮎子さんはとても能力が高くていらっしゃる。私も龍神家の中では加護が強い方です。私たちが力を合わせればきっとこの国の水汚染を解決できるでしょう」
それを聞いて焦ったように父は私を見る。
「こいつの能力が高いだと?こいつは能無しのはずだ!」
「おや?龍神家の加護と清水家の能力を合わせることで多くの国民が望んでいる水汚染問題を解決できる可能性が高いからこそ結ばれた縁談ですよね。そのために能力の高い御息女を我が龍神家に嫁がせようとしたのでは?その言い方では能無しとされる御息女をわざわざ龍神家に嫁がせたかったように聞こえますが」
心底不思議そうに話す雷光はなかなかの役者である。父はしどろもどろになって言い訳をしようとしている。
「いや、そういうことでなく…そうだ、そうです、この子の能力は開花前でして、しかしこの子はいつか必ず強い能力を発現するはずです。私には分かります。清水家の当主ですから。まさか私の言うことを疑われるわけではないでしょう」
清水家の能力が開花するのは遅くとも14歳までであり、それを超えている鮎子に現在能力が無ければ今後も発現する可能性は著しく低いのだが、それを知らぬ他家の者には誤魔化せると思ったのだろう。
父の言葉を聞いて雷光は頷き笑みを深める。上手いこと誤魔化せたと思っている父はあからさまにホッとした表情を見せた。
「なるほど開花前でしたか。開花前であの浄化の能力とは。これからがますます楽しみですね」
「…龍神家のご当主は何をもって娘に能力があると判断されたのか」
何かがおかしいと感じた父は真顔になって雷光に訊ねる。
「何って実際に見たのですよ。広い池の水を浄化する鮎子さんの能力を」
実際には浄化の力を雷光の前で使ったことはないが口裏を合わせている。それを聞いて本格的に焦った父は使用人を呼びつける。
「そ、そんなわけが…おいお前!すぐに珠代を呼んでこい!」
そうしてすぐに疲れた顔をした珠代がやってくる。
「まだ神池の浄化は残っているな?」
珠代が「ええ」と返事をすると父は私に指図してきた。
「おい、浄化してみろ」
「…偉そうに」
父に聞こえないよう悪態をついた鮎子が池へ向けて手をかざし力を込めると白い光が池の三分の一ほどを覆った。浄化の光である。
「!!!」
これに驚いたのは父である。父は珠代に力の大きさを確認し、美子よりも珠代よりも大きな力だと分かると一気に顔を赤くした。
「どういうことだ!こいつは能無しだと報告にはあったはずだ!」
美子と使用人は顔を青くして縮こまっている。その様子を見て美子と使用人たちは鮎子の能力の高さを知っており、何らかの理由で嘘の報告をしたと理解し、美子に平手打ちをかまそうとした。
バシンッ!!!
しかし父が打った手は美子ではなく美子を庇った珠代に当たり珠代は床に倒れてしまった。
「お母様!」
美子が珠代に寄り添うと父は二人に向かって怒鳴る。
「この大馬鹿者が!清水家の益を潰すような真似をしよって!」
これに黙っていられなくなったのは義母の珠代である。
「あなた、何を仰っているのですか!美子よりも鮎子の能力が高いから嫁がせたのでは無かったのですか」
「ええい黙れ!お前は水汚染問題を解決しなければならないと煩いから黙っていたんだ!よく考えてみろ!水汚染が解決してしまえば清水家の栄華はどうなる?清水家のためには無能な娘を嫁がせ水汚染など解決せぬ方が得に決まっている!」
激昂した父はあろうことか二人を蹴り上げようとした。
「シールド!ソード!」
急いで鮎子が水の壁で珠代と美子を守り水の剣で容赦なく父を切り付ける。鮎子の力は清水家の女たちの中でも特異なものであり、浄化だけではなく水を出現させ操るような能力は他の者にはなく家族の前では初めて行使した。
父は対抗できるはずもなく飛ばされ、ずぶ濡れのまま部屋の隅に転がった。
何が起きたのか理解できず顔を拭う父の前には雷光が立ったいた。
「調べさせてもらったぞ。貴方が一部の派閥と手を取り、国の水汚染問題を解決させず清水家に莫大な利益をもたらし続ける代わりに金品を渡していることを。龍神家と清水家の力を合わせれば水汚染を解決できるという事実も隠したかったようだが人の口に戸は立てられないな。もともと龍神家はその事実を知っていたが、清水家としては噂が広まってしまい民の強い願いを無視できず今回の縁談を結んだのだろう。能無しの娘を嫁がせて問題を解決する気が一切なかったようだがな」
ゾッとするそうな悪い笑みを浮かべる雷光に父は怯えてしまい言葉がでない。
「…なんてことを」
倒れたままの珠代の冷たい目と声が父を貫く。
「そ、それが清水家のためだとなぜ分からん!」
喚く父に珠代は怒りを露わにした。
「清水家のためですって!?清水家の男のための間違いでしょう!私たち清水家の女たちが今なお苦労して各地の水を浄化しているのを知っていながらなんということを!毎日毎日会合と言ってどこかに行っては酒を飲んで良いご身分だと思っていましたが、まさか私腹を肥やしていらっしゃったなんて!水汚染の解決は国民の悲願ですのに!何より私たち清水家の女たちが御勤めから解消される唯一の希望でしたのに!!!」
見たこともないほど感情を爆発させ父を射殺すような目で睨む珠代にその場にいる全員が驚いた。
「お母様…」
思わず美子が母を呼ぶ。珠代は美子に向き直ると叱咤した。
「美子、あなたもあなたです!幼い頃から浄化のために貴女に構えなかったことに罪悪感を覚えていたわ!そして清水家の女としての役目を背負わせることにも。だけどそれは鮎子を貶める理由にはならない!私たちは力を合わせなければならない存在なのよ!足を引っ張り合っている暇はないの!なぜ分からないの!」
子供のように怒られて、いや記憶の上では初めて母に怒られた美子は泣いて珠代と鮎子に謝った。そんな美子に鮎子は手を差し伸べる。
「お姉様、私に謝る必要はありません」
珠代と美子を起こした鮎子はにっこりと笑ってまずは父を見る。
「お父様はご退場願います。あとは私たちで話がありますので」
すっかり力を無くした父にはこれから水汚染を解決するために組織の膿出しをその身をもって手伝ってもらわなければならない。雷光に引き摺られるようにして父は連行された。
改めて鮎子は珠代と美子に向き合う。
「お姉様、母を亡くしこの家に連れてこられて小さくなっている私をお姉様は抱きしめてくださいました。当時の私にとってそれがどれほどの救いだったか。私の能力が出現してからは私よりも優秀でなくてはならないというプレッシャーから私を拒絶されましたね。それは悲しいことでしたがお姉様だけが悪いとは思いません。そのプレッシャーをかけていた父はもちろん、お母様、貴女にも責任があると思います。お姉様は親の愛を求めていた。私より能力が劣れば愛してもらえないと思っていたのでしょう。そんなお姉様を私は恨んでいません」
それを聞いた美子は泣きながら鮎子に深く頭を下げた。そんな美子を珠代が抱きしめる。二人とも嗚咽を漏らして泣いた。
「さて、泣くのはここまでにしていただいて、お二人には協力していただきたいことがあります」
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「ハァッハァッ!」
「フゥ…君、大丈夫か」
「ハァッハッーフー、フー…大丈夫ですわ」
「手を貸そうか」
「いいえ必要ありません。ふぅ、でも少し休憩します」
「ああ、そうしよう。君が言っていたとおり山の鳥居を過ぎてから一気に険しくなったな。男の私でもなかなかに辛いのに君はよくここまで来れたものだ」
「このために運動をして体力を付けてきましたから。それにこの杖もありますし」
「父を脅した杖を登山に使うとは。全く変わった女だ」
なんとか山頂に辿り着いた二人は荒くなった息を整えてから、いよいよこの山の龍神様を呼び出した。
「山の龍神よ、その姿を現したまえ!」
雷光の声で地響きと共に大きな龍が現れる。
「…これがこの山の龍神…!」
雷光が驚いた様子で空を見上げる。さすがの鮎子もその大きさに驚きを隠せない。
「しかし君が言っていたとおり覇気がないようだ!」
「ええ、ここからは私たちの出番ですわ!」
鮎子は試しに龍神に向かって掌をかざし力をこめる。龍神の一部を白い光が覆い癒されていく。それだけでは到底足りそうにないが、何度も何度も繰り返せば注ぎきれそうな気もしてきた。しかし、
「龍神の鱗が剥がれている部分から力が漏れ出しているぞ!」
雷光が指す方を見ると確かに一箇所鱗が剥がれていてせっかく浄化をかけてもそこから力が漏れ出てしまっていた。
『なるほど、小説の中の私が苦労するはずね。浄化をかけてもかけても漏れていればいくらかけてもかけ足りない。浄化の力で鱗まで再生できるとは思えないし。…小説の中ではこんな描写は無かったはず。
物語では雷光と鮎子がキスをして雷光の中にある龍神の力が鮎子に流れ込み鮎子の力と合わさることで奇跡の力が発現したのよね。もしかして雷光の力を取り込み私の能力と合わさったから鱗が再生されて浄化の力を注ぎきれた?だとしたらキスしなければならないの?』
「どうした?何か分かったのか」
雷光が黙ったまま考えている鮎子の顔を覗き込む。鮎子は反射的にその顔を押しのけた。
「…絶対嫌よ」
「おい、心配してやったのに失礼な奴だな」
雷光が呆れたようにこちらを見る。すると雷光は鮎子が持っていた杖を見て何かに気が付いた。
「もしかしてこれは龍神の鱗では?」
杖に付いている大きなキラキラした貝殻のようなものは確かに龍神の鱗に似ている。鮎子の許可を得てさっそく雷光は龍神に呼びかけた。
「山の龍神よ!この鱗で傷を塞いでくれ!」
龍神はぐるりと旋回し杖を認めると小さい竜巻のような風を起こして杖を空高く持ち上げた。そのまま杖は粉砕し鱗だけが吸い込まれるようにして傷口を覆う。色味と大きさは違うもののしっかりと塞がったようだ。これで浄化の力をかけまくれば龍神は元気になってくれるだろう。
「杖がこのように役に立つとは…でも助かりましたわ。さて私はあと数回浄化をかけますので先に下山の準備をしてください」
「あと数回で足りるのか?」
雷光が疑わしい目で鮎子を見る。鮎子は「ふふ」と笑って他の山々の方を向いて仁王立ちになった。
「みなさーん!!!お願いしまーす!!!!」
みなさーん!!!お願いしまーす!!!
鮎子の声がこだまする。しばらくすると下の方から何十もの浄化の光が龍神に届いた。それらは途切れることなく続き鮎子も数回浄化をかける。龍神は沢山の光に包まれ一気にその力を取り戻していく。
「凄い…これが清水家の力か」
下山の準備の手を止め驚く雷光に浄化を終えた鮎子が振り向く。
「そうです。清水家の女たちの力ですわ」
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無事に下山した鮎子と雷光は麓に集まった珠代、美子を含む各地から選抜された清水家の女たちと合流した。人選と協力の取り付けは全て珠代と美子がしてくれた。
その時、空の上を旋回していた龍神が大きな声で吠えた。その声は青い波紋となって国を覆う。この日、この国の山々の土壌が各地の龍神たちの力によって浄化されたのだった。
「これで山々の土壌が浄化されたはずです。水の循環には時間がかかりますが、これでこの国の水汚染問題は徐々に解決されていくでしょう!」
わっ!とその場にいた女たちが喜びの声を上げ鮎子も珠代たちと抱き合いながら屈託のない笑顔を見せる。そんな彼女たちを眩しいものを見るように目を細めた雷光が呟いた。
「この国の英雄は彼女たちだったか」
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それから数ヶ月後、清水家本家に分家の者たちが集まる大きな総会が開かれた。
皆の前に凛とした表情の珠代が立つ。
「皆も知っているとおり清水家元当主であった夫はその身を拘束された。ここに新たな当主として私、清水珠代が就いたことを報告する」
多くの者は歓喜し、幾人かの者は戸惑いながらも皆頭を下げた。
父は雷光の指示のもと、その身を囮として使い国中枢の膿を特定し、まとめて拘束された。様々な思惑から自分たちさえ得をすれば良いと考え、わざと水汚染の解決を邪魔する者たちだった。元当主が拘束されてしまい清水家の今後を心配する声が上がる。
「静粛に。清水家元当主のしたことは本来であれば家全体としての瑕疵となる。実際に他の家からは清水家としての処罰を望まれた。しかし、この国の水汚染を解決したのは我ら清水家の女たちであることを龍神家ご当主が主張してくれたおかげで清水家全体への処罰はなくなった。
まだ完全に水汚染問題が解決したわけではないので今後とも清水家には各地の水源の監視と浄化をしてほしいと国から要請がきている。この件についてはそれ相応の対価が浄化をする者本人に支払われるよう契約を結ぶつもりだ」
この珠代の発言に異を唱えたのは幾人かの男だった。
「浄化をする者本人というのは妻の名を使うということでしょうか。そのような重要な契約の甲乙に女の名を使うのはいかがなものかと。ここは責任の持てる夫たちに託しては」
この発言に意見したのはこれまで女を見下していたモラハラ野郎集団の当主、龍神雷光だった。
「責任、ね。この度の龍神への浄化に同行した者として貴方たちに問おう。今まで各地の池を責任を持って浄化し、この国の水汚染問題を解決に導いたのは誰か。国の英雄とも言える彼女たちを差し置いて貴方が適任であると?」
その圧倒的な強者の威圧に異を唱えた者たちは竦み上がってしまう。
『誰が言っているのかしら。貴方も私のことをなめくさっていたくせに。ちゃんちゃら可笑しいわ』
鮎子は鼻で笑いそうになるが、この度の国との正式かつ働きに見合った契約書案の作成には雷光の威光が存分に発揮されたことを知る鮎子はグッと我慢した。そもそも今までは報酬もなく清水家の女たちはただ御勤めだからと毎日毎日浄化を行っていたのだ。所謂ただ働きで、膨大な金が清水家に落ちようとも直接女たちの懐に入る訳がなかった。
この現状を珠代はずっと嘆いており、珠代が当主となったからには成し得るべき大きな課題だった。しかし新女当主は例え英雄であろうとも足下を見られる。契約書案を作成する国の担当者は正当な契約を結ばんと力を注いでくれたが何度も一部の上層部を取り込んだ他家からの横槍が入り決裁が降りず、かといって折衷案を提示されるでもなく時間だけが経過しようとしていた。それを知った雷光が龍神家の金と権力と本人の威光で何重もの決裁をすっ飛ばし先に長から了を得てしまった。そうなると他の者たちは多少の修正を加えて擦り合わせはするものの結果として頷かざるを得ず、短期間で契約書案が了承された。
『悔しいけれどこれは私たちにはできなかったこと。もしできたとしても長い時間がかかったはずだわ。彼には感謝しなくてはね』
鮎子が一人考えている間に契約についても清水家の者たちの了承を得た。
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その後、清水家の能力のある娘たちが親が決めた婿を取らず好きな者と結婚し苗字が変わっても良いとしたことで次第に国との契約に他家の苗字も混じり始めた。
その契約も必要がなくなるほど国の水質が安定しだした頃、山守村に美玲と鮎子の姿があった。
「美玲さま、すっかり日に焼けましたね」
「ふふふ、毎日山を歩いていますからね。貴女がこの山の麓での暮らしを提案してくれてから運動して体力を付けて栄養を取って充分に寝て備えてきたのよ。元々子供の頃は山を駆け回っていたのですもの。こちらの生活は私に合っているわ」
初めて鮎子が美玲のもとを訪ねた時、国の水汚染問題が解決したら龍神様がいる山の麓で暮らしてはどうかと提案したのだった。一つは美玲の心の健康のため、もう一つは山から出る湧水の定期的な確認のためだ。美玲は少ないながらも浄化の力があるため山の水に異変があれば察知できるし、それを美子に報告するように取り決めている。清水家の当主は依然珠代のままだが美子が各地の池の管理者たちとの連絡役に就いたのだった。
「それよりも鮎子さん、雷光は元気だったかしら?」
「ええ、結婚式でお会いした時はお元気そうでしたよ。そうそう、お手紙も預かっています」
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雷光と鮎子は結局のところ婚約を解消し各々の道を歩んでいる。雷光と最後に会ったのは美子の結婚式であり、龍神家当主として出席した雷光はその麗しい見目に加え、女性に対して物凄く紳士な対応を取るようになったことで人気は爆発し頬を染めた女性たちに囲まれていた。その後上手く抜け出した雷光は鮎子を探し一直線にやってきた。
「随分人気者ね」
鮎子が笑いながら言うと雷光は嬉しくなさそうな表情をする。
「君ほど面白い女には会えそうにもないがな」
「あら私だって貴方を取り囲んでいた女性たちと変わらないのよ。自分の直感に正直になって狙いを定めているの」
「へぇ、君にもそんな相手がいるとはね」
意外だとばかりに雷光は驚いた表情で鮎子を見る。鮎子は雷光から美玲への手紙を受け取ると「またね」と言いながらさっさと親族の席へ戻ってしまった。雷光はその後ろ姿を暫く見つめていた。
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「お〜い、鮎子はん〜!」
雷光からの手紙を美玲に渡していると鮎子を呼ぶ声がした。
「そろそろ行きましょか」
「ええ、永衡さん」
あれから鮎子は永衡に付いて回り各地の水源を巡る旅を始めた。永衡が言うにはたとえ山の土壌の汚染が解消され水が清らかであっても、全ての生き物の調和が健やかでないと上手く循環しないのだという。鮎子がついて行きたいと頼んだ時、永衡は困った顔をして「若いお嬢さんが行くようなところでは」や「俺かて男やし何かあったら困るしなぁ」などと渋ったが、何度も粘った鮎子に押し切られるようにして随行が許された。
「鮎子はん、そこの段差気ぃつけてくださいよ」
『このお嬢さん、すぐに飽きると思てたけど毎日文句も言わずついてきてホンマに変わってはるなぁ』
永衡がそう思いながら「手を貸しましょか」と手を差し出すと何故か頬を染めた鮎子が永衡の手をしっかりと握った。段差を越えてから永衡が手を離そうとしても鮎子の華奢な手は離れまいと握り返してくる。おかしいと思って鮎子を見ると鮎子は上目遣いのまま小首を傾げて強請った。
「永衡さん、このまま手を握っていてはだめ?」
不覚にもドキリとした永衡は空を見上げて嘆いた。
「俺の理性を試さんとって〜」
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苦しい、なんだか苦しいの
もっと泳がなければならないのに
キラキラキラ
水面に光る何かが浮いている
何て優しい光なの
命の均衡を永く願う光
わたしを癒すこの光
ああいつか会いたい
優しい光の持ち主に
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柔らかい芝生の上で鮎子は大きな木にもたれかかるように座って眠っている。
「鮎子はん、こないなところで昼寝してたら風邪引きますよ」
「あ…永衡さん」
目を覚ました鮎子の頬に涙が伝った。
「どないしました?どっか具合でも悪いんですか?」
オロオロする永衡を見ながら鮎子は涙を拭う。
「いえ。昔の記憶を夢に見て…」
『前々世、短い生涯だったけれど確かに貴方と同じ魂を持った人に救われたと言ったら永衡さんは信じてくれるかしら』
永衡がそのまま黙ってしまった鮎子の顔を覗き込む。鮎子は反射的に永衡の胸に飛び込んだ。弾みで永衡が後ろに倒れ、鮎子が永衡を押し倒したような体勢になる。
「私、前々から永衡さんのことをお慕いしておりますの。どうかこれからもお側にいさせて」
すっかり鮎子に翻弄されている永衡は片手で鮎子を支え、もう片方の手で顔を覆い嘆く。
「だから、俺の理性を試さんとってよ〜!鮎子はん〜!」
糸目のキャラって関西色付きがち(大好物)
飄々としたおかっぱを困らせたい(大好物)
怪しげなサポートキャラ良い人説(大好物)
ヒューマンドラマか恋愛か…ヒューマンドラマ成分の方が多そうなのでヒューマンドラマとしました。