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小鼠のお仕事

作者: 神宮雅


 まだ日入りには早い、梅雨時の薄暗い空。絶え間なく降り頻る雨が、黒いレインコートのフードを強く打つ。

 背後から迫り来る車の音は掻き消され、水飛沫を大きく上げながら横を通るまで気付けずに、無骨な長靴が泥に濡れる。

「ちっ……」

 少しは速度を落とすか、避けて横を通れと、既に視界から消えた車に対して男は舌打ちをすると、目の前に出来た大きな水溜りに足を浸す。

 舗装されてるとは言え、アスファルトでは無い土の道。男の足取りは、気持ちとは関係無く重い物だった。

 なら、気持ちは軽いのかと問われれば、そうでは無い。寧ろ、男の人生の中で一番気乗りせず、足取りの重い場所へ向かっているのだ。

 堅気はまず情報すら知らず、半グレ共は視界にすら入れず、権力者や国家機関ですら手放しで存在を黙認している、黒より黒い悪の楽園。そこに、男は向かっていた。

 今の時代。悪は悪として滅され、秘匿とは無縁の情報社会であり、顔も知らない赤の他人と隣人の様に接する時代に、果たしてそんな場所があるのか。男は、その場所に向かっている今も尚、悪の楽園の存在を疑っている。

 そもそも何故、大学を卒業したばかりの、何の変哲もない普通の男が、その場所を知っているのか。それは一つ。男の縁が普通では無かったからだ。そしてその縁を信じ、普通であれば足を向けない場所に足を向ける思考回路も、普通では無かった。

 レインコートに隠れたショルダーバッグに入っている“物”が、水飛沫を上げる足音に合わせて滑らかな金属音を鳴らす。

 既に聞き慣れた音を聞き流しながら、未だ慣れないバッグの重さに肩紐の位置を大きくずらす。この動作は何度目なのかと、端から数えていない回数に舌打ち混じりの溜息を吐く。

 目的地は目と鼻の先という所まで来ている。だが、遥か遠くに感じてしまうのは、男が内心、行きたくないと思っているからだろうか。それとも、近くだと言うのに変わり映えのしない日常を見てか。あるいは、あまりの大きさに認識すら出来ていないのか。

 男は足を止めると、顔を濡らしながら、正面に見える建築途中の商業ビルを見上げる。実現する事ない終わりを待ち望む、最上部のクレーンの先端が、風に揺られて時を刻み、時代を感じさせる外観をより一層古臭く見せている。あれが、あれこそが、悪の楽園の象徴。あれが見えると言う事は、既にこの場所は楽園の中なのだと、男は息を呑んだ。

 何故、今まで気付かなかったのか。それは、男の意識が現世に無かったから。幼少期の追憶に心を置き、無意識に足を進めていたから。

 自分の悪癖に思わず溜息が漏れる。それと同時に、こんな時にこんな場所で、よくもまぁ呑気にいられるものだ。と、感心すら覚えた。男の心には道中までとは違い、それ程に余裕があった。

 周囲にはあのビルの他に、民家や商業用の建物が無数に並び、その全てが、手入れのされていない無人の建物。かと言って、人が居ないという訳では無く、寧ろ、そこらの町より人気が多い。目に見える部分以外にも、こちらを窺う視線が感じ取れる程には。

 見た目だけで言えば、ゴーストタウンと呼べる場所。だがそこには、死者の様に正気の無いホームレスの群れ。ゾンビ映画のワンシーンでも見ている様だと、男性は道の真ん中を歩きながら周囲に視線を送る。

 何処で手に入れたか、金属の板で小屋を作り雨を凌ぐ者。ダンボールにブルーシートを被せた、簡易的な拠点に身を寄せる者。建物の屋根の下で必死に雨粒を避ける者。全身をずぶ濡れにしながら、頭髪を翼の折れた鴉の様に地面に広げる者


 ──彼を濡らしているのは雨では無く、格差だ。建物の中から聞こえる下卑た笑い声を聞いて、男は眉を顰め舌打ちをする。格下を笑い者にする外道にでも、同胞に手を差し伸べずに見捨てる恥知らずにでも無く、ただ何もせずに格差を受け入れ、自ら変わろうと行動しない愚者に対して、男は舌打ちをした。

 ホームレスという社会の底辺に属しても尚、奪われ、蔑まれる立場に身を委ねて安堵している死に損ないに、男は憤りすら感じていた。

 悪の楽園。この場所は、あのホームレス達にとって楽園だとは思えない。刑務所の方が余程マシだろう。だが、犯罪を犯す度胸のある者が、黙って現状を受け入れられるとも思えない。要は、この場にいるホームレス達全員、なるべくしてなった負け組なのだ。

 では、誰にとっての楽園なのか。それは勿論、悪にとって。悪に成りきれないホームレス達には、楽園になり得ない。では何故、彼等はこの場に集まり、留まるのだろうか。そんな事、男にとってはどうでも良い事だ。

 有象無象に成り果てた周囲の視線を一切無視し、楽園内を進み続けると、前方に先程泥を飛ばして来た車が見えた。車の周囲に人はいるが、持ち主らしき人影は見られず、車内に人がいる様にも見えない。もし居たら、文句の一つでもと考えていた男は、無駄に込み上げて来た怒りを溜息に乗せて吐き出すと、片眉をピクリと動かしながら舌打ちをする。爪先で蹴り上げた泥は殆ど宙を舞う事なく、ビシャリと音を立てて前方の水溜りに消える。それに対し、近くに居た屋根を持たないホームレスが膝から顔を上げるが、俺の顔を見るなり慌てた様子で、再び顔を膝に埋めた。

 その仕草、その態度に、冷めた怒りが再び熱を帯び始める。が、エゴで抱いた鬱憤を晴らす程、子供では無い。そう、男は舌を強く鳴らしながら思い止まると、地面を蹴ろうとした足を下ろした。その時、背後から声を掛けられる。

「お前さん、ちょっといいかい?」

 覇気の無い、掠れた声。対して大きくも無い、柔らかく低い声は、雨のノイズに邪魔される事なく、男の耳に優しく届く。だが、その声の印象とは裏腹に、男の背筋は凍り、肺で暖められた空気が喉を塞ぐ。冷や汗か雨かの判断がつかない水滴が額を伝い、右側の視界がボヤける。それでも男は顔を拭う事はせずに、静かに振り返った。その時目に映った先程のホームレスは、まだ男に怯えている。

 振り返った先に見たのは、軽く泥で汚れている履き慣らされた黒のスニーカー。その先に生えている、ゆったりとした隙間を持ったジーンズに男は、自分がいつの間にか下を向いていた事に気が付く。普段の男であれば、感情を荒ぶらせて舌打ちをしながら顔を上げていただろう。だが、男は怒りや恥じらいといった負の感情を抱く事をせず、ゆっくりと顔を上げた。

 サイズが合わないジーンズに、黒に近い茶色の薄地の上着、中のインナーは若干黄ばんではいるものの白い色を保っている。燻んだ白色の髪や髭は僅かに濡れ、その下の焦げた色の肌は、体毛とは違い歳を若く見せている。

 男の背後に立っていたのは、初老をとうに超えているであろう老夫。その手には傘が握られており、空いた左手は腰に回されていた。

「なんと、こんな坊やだったとは!いかんいかん!ここは坊やが来ていい場所では無い!」

 老夫は男の顔を見るや否や、怒気を孕ませた声で叱咤する。その声に驚いたのか、近くに居たホームレスは肩を跳ね上げると、その場から足早に去っていった。男はというと、叱咤された事よりも坊やと呼ばれた事の方が引っ掛かり、眉を顰めながら老夫を睨み付ける。

「坊や。なんて呼ばれる歳じゃぁない」

「儂から見たら、お前さん位の歳の子は皆坊やだ。……それより坊や。どんな理由があっても、こんな場所へ来ちゃいかん。お前さん位の歳なら、何度だってやり直しが効くんだ。ここは、全てを失い、取り戻そうとしない馬鹿が来る場所だ。決して、未来ある若者が来る場所では無い」

 先程まで、男に視線を向けていたホームレス達が、話を盗み聞いて視線を逸らせる。人にここまで言われておいて、言い返す度胸すら無いのかと、男は周囲を見回して舌打ちをした。何故、同胞ではなく人と表したのか。それは、目の前の老夫はホームレスでは無いと、男が理解しているからだ。

「俺はここに用があって来た。……アンタ、上に話が通せるんじゃぁないか?上っていうのは勿論、この楽園の上層部の事だ」

「儂の何処をどう見たら、そんな風に思えるのだ。ただの老耄たホームレスに、そんな権限、ある筈が無かろう」

 嘘に敏感な男でさえ、老夫は正直に話していると感じ取れた。それでも目の前の老夫が、ただのホームレスでない事は明らかだ。

「ホームレスを謳うなら、もっと汚らしい服を着て、油で髪を固めるんだな」

「ホームレスでも服は買い、風呂にも入る。儂は他所の町に出る役目も担っておるからな。身嗜みはある程度整えておるのだ」

 成程。と、話を聞いた男は納得した。普段、周囲の人間を信用していない男が、手放しに老夫の言う事に納得してしまった。その事に気付き、男は若干の恐怖を覚え、頬を引き攣らせる。この老夫が言う事は、何でも信用してしまいそうだ。地獄の様なこの場所が、お前にとっての楽園だ。と、言われても、信じてしまいそうな程には、男にとって老夫の発言は、信頼してしまう力があった。

 だからこそ、老夫は嘘を吐いている。その、思い込みにも近い考えが、男の口を動かした。

「恐ろしいよ、本当に。縁によっては、アンタを心底信用していただろうさ」

「ホームレスなんて輩、縁に関係無く信用すべきではない。ほら、さっさと家へ帰りなさい。二度と、こんな場所に来るのではないぞ」

 男は老夫の話を無視して言葉を続ける。

「俺はここへ、仕事を貰いに来た。昔の知り合いが、俺に向いている仕事があるんだとさ」

「こんな場所に仕事なんか無い。あっても碌な物では無い。今ならまだ間に合う、早くこの町から出るのだ」

 何処か焦った様子の老夫は、それ以上口を開くなと言わんばかりに男に詰め寄る。それでも、男の口が閉じる事はなかった。

「アンタ、道案内を頼めないか?場所は分かっているが、俺一人で出向いても相手にしてくれないさ。アリスのウサギ。知ってるだろ?アンタはそれだ」


「“大黒”。この町の長の場所まで案内しろ」


 その瞬間、男に向かって町が殺気を放った。実際は、周囲の建物内にいる顔も知らない人々の放った殺気だが、町が放った物だと錯覚してしまいそうな程強く、全方向から放たれていた。いつの間にか、近くに居たホームレス達は姿を消している。

 目の前の老夫は呆れた様子で、愚者を見る目を男に向ける。

 老夫に殺気を向けられなくて良かった。男は殺伐とした空気の中、ホッと胸を撫で下ろす様に溜息を吐き、周囲の感情に一切反応する事なく老夫を見つめた。

「それともこの状況の中、坊や一人で町を歩かせるつもりか?」

「……生意気な坊やだ。だが、理由無しに会わせる訳にもいかぬ。仕事を貰いに来た、と言ったな。何処でどんな仕事の話を聞いた。証拠があれば、会わせてやろう」

 待ってました。男は内心で拳を握りながら、鼻息を一度強く吐いてレインコートの中を漁る。出てきたのは、雨除け様に透明なビニール袋で覆われた、無数の擦り傷で光沢を失っている鈍色の箱。両端に掛けられた二つの鍵に、全体に纏わり付くように絡められた一本の太い鎖が、中央に鍵で縛られている。長財布より一回り大きな鉄箱は、雨の音に負けぬ程耳障りな金属音を鳴らす。

「知り合いが言うには、仕事道具らしい。中身は知らないし、鍵も無い。随分昔の事だから、長が合鍵を持ってるかすら分からない」

 随分と重い箱に、男は小さな力瘤を作り、爪の先を白くする。その様子を見てか、鉄箱に興味を惹かれてか。老夫は鉄箱に手を伸ばすが、男が一歩下がる事によってその手は止まった。

「これが証拠だ。手に取る必要は無いだろう」

「……分かった。案内する」

 老夫は先程までの、腰を曲げた弱々しく優しい振る舞いを止めると、背筋を伸ばし、声に覇気を入れると、眼光鋭く長が居るであろう商業ビルを見つめた。


 町の中は、何処まで歩いても灰色だ。雨だから。という訳では無い。男が色盲だから、なんて事でも、勿論無い。この町は、昔の記憶がそのまま残されているのだ。ただ、匂いを、音を、色を、覚えている者は居ない。故に、この町は何処まで歩いても灰色なのだ。男の前を歩く老夫も覚えてない。そもそも、老夫が昔の光景を知っているのかすら分からない。

 色付いているのはホームレスの汚れだけ。それこそ、灰色に誤魔化して欲しい物だと、男は心から思う。だがそれも、目の前に佇む商業ビルを見上げた時には、灰色に霞んで見えた。

「少し待て」

 最初に出会った、口数の多かった老夫とは思えない程短く淡々とした命令。遠ざかる背中は一度止まると男に振り返る。

「中から迎えが来るまで誰にも着いて行くな。全て無視しろ」

 そう言い終わると、再び老夫は足を動かし、ビルの中へと消えていった。

 入れ替わる様に、近くの建物から人が出て来る。それも複数、男に向かって。皆、ホームレス達とは違って傘を差し、綺麗な靴に綺麗な服を身に纏っていた。男は、このビルの近くに来てからホームレス達を見ていない事に気付き、周囲を見回す素振りを見せる。目当ての人影は居ない。この町のルールなのか、ホームレス達が臆病なだけか、男には興味など無い。

 柄の悪そうな輩達は、男の周囲を取り囲む。一人のガタイの良い男が男に向かって話し掛ける。

「よぉ、見ない顔だな。新入りか?町を案内してやるよ」

 首を一切動かさず、ただ老夫が消えていった自動ドアの先を、男は見つめる。そんな男に苛立ちを覚えたのか、ガタイの良い男は男の視界に無理矢理入り込む様に前に立ちはだかり、鼻を鳴らして見下ろす。

「聞こえているんだろ。無視は良く無いって親から言われなかったのか」

 それでも、男が輩達に目を向ける事はなかった。ただジッと、透明なドアの先を。男達に遮られても尚、眺めていた。

 輩達は反応しない男に声を掛けるが、一切体に触れようとはしなかった。顔を近付け、体を寄せ、殴る素振りを見せもしたが、実際にその拳が振るわれる事は無かった。まるで、幻覚を見ているかの様だ。輩の中の一人は、俯瞰した位置から男と同胞を眺め、そう思った。そして、自分も彼の幻覚の中の一部なのでは無いかと、若干の不安を覚える。

 男の肩がピクリと動いた。やっと反応してくれたのかと、輩達は声を上げる。だが、男はそんな彼等の期待を虚しく、ビルに向かって歩き始めた。

 男の前を塞いでいた者達は、自分達が見えていないかの様に向かって来る男に対し、慌てて道を開ける。男は、そんな彼等の一連の行動に対し、何の感情も抱く事は無かった。何故なら、男の目には最初から、輩達の姿は映ってなかったのだから。

「待たせたね坊や。ここから先は、この人達に案内して貰いなさい」

 傘を差し、玄関屋根から外に出る老夫は、男の真隣を通り過ぎ、小さな声でこう言った。


「己が心に神は棲む」

 坊や次第だ。目を見開きながら振り返る男に、老夫は背中越しで手を振ると、そう言って姿を消した。


「では、ご案内します」

 玄関前に立っていたスーツ姿の男性二人の内、一人が男に向かって声を掛ける。怯えた表情を隠しながら、ぎこちない動きでビルから遠ざかる輩達とは反対に、男はスーツ姿の男性に向き直ると、ビル内に足を踏み入れた。

 自分の存在を主張する様に、音を立てながら開く電動ドアを潜り、建築途中の廃ビルとは思えない明るさで、男は外との明暗の差に目を細める。入った途端に、雨音が人々の賑わいの声に変わる。白とベージュを基本とした内壁が、廃れた非現実から、飽々とした現実へ引き戻してくれる様な錯覚に陥らせる。

 ここは地獄。未だ悪に染まっていない男にとって、ここはまだ、地獄でしかない。男はそれを言い聞かせる様に、バッグ越しに鉄箱を撫でる。

 二枚目の自動ドアを潜った先は、ホテルのフロントの様な空間が広がっていた。だが、何処か殺風景で虚無を感じる。至る所に並べられた机や椅子も、値が張りそうな見た目ではあるものの、やはり味気が無い。更に奥の空間には、スポーツジムにある様な機材が複数、しかもかなりの種類が並べられている。機材を使用している人達は、視線を向けずに男を観察している。

「お客人、こちらに」

 受付の様なカウンターに佇む人を通り過ぎ、近くに取り付けられたエレベーターの前に向かう。レトロチックな見た目に、現代と変わらない操作方法。眩しさを感じない明かりが、両外向きの矢印のマークが描かれたボタンを主張させる。

 暫くすると、エレベーターの扉が自動的に開かれ、一面が鏡で出来た小部屋が姿を現す、男はスーツ姿の男性に促されると一番先に乗り込み、遅れて二人がエレベーターに乗り込んだ。その内の一人が内側に取り付けられたボタンを操作し、僅かに軋んだ音を発しながら扉が閉まると、大理石模様のベージュの床が迫り上がった様な感覚が男の膝を襲い、一種の重力が肩を重くさせる。その、今ではあまり感じる事の無い感覚に男は、このビルが古い建物なのだと実感した。

「お客人。レインコートはこちらでお預かりしても宜しいでしょうか?」

 その言葉に、男はフードの隙間からの視線だけで問いを返す。濡れた前髪を伝う水滴が、頬を通り、顎に溜まると、床の水滴を一回り大きくさせた。

 ゴウン、ゴウン。と、稼働音が響く中、他の階にいる人々の声は一切聞こえず、ただ無言の時間だけが無駄に長く続く。あまりに小さ過ぎる水音は、男達の耳には届かない。

 光るボタンは6。複数あるボタンの中で最上部に位置し、一番大きな数字。詰まる所、このエレベーターは最上階である6階に向かっている。建築途中で6階なのだ。完成していたら、一体どれほどの高さのビルが出来上がっていた事か。

 その時、男はそのボタンの数と数字に違和感を覚える。が、スーツ姿の男に尋ねる前に、今は聞かない短いベルの音と共に、室内に圧を加えながらエレベーターは止まり、重苦しい扉が開いた。

「では、大黒様の元へご案内致します」

 そう言いながら降りるスーツ姿の男性に、男は無言でエレベーターから一歩踏み出した。そこは、まるでホテルの廊下の様だった。蔦の葉模様の壁紙に、壁の窪みに嵌められたキャンドルスタンド型のランプ。焦茶の天井は高さを錯覚させ、赤い絨毯は豪華さを演出していた。長く広い廊下は複数の分岐点を作り出し、無数にある扉の奥からは、どこからも人の気配と声がする。野太く、荒々しい吐息も聞こえるが、殆どが嬌声だ。

 男が歩く度、絨毯には茶色の染みや濡れた足跡が染み込む。雨の中をたんまり歩いた靴なのだ。寧ろ、染みが付かない方がおかしい。スーツ姿の男達は足跡や染みを作らない。男の所に出向くまで室内に居たのだから、当たり前だ。男の後ろを歩く男性は、段々と汚れが増える絨毯を見て、見えない所で眉を顰める。せめて、替えの靴を用意しておけばと考えたが、雨雫の様に室内に水を振り撒くレインコートを見て、今度は肩を落とした。

 何度目かの角を曲がり、着いたのは一際大きな両開きの扉の前。この先に式場でもあるのかと思わせる豪華な扉の左右には、介添え人の様に佇む影が二人。どちらも、男を案内しているスーツ姿の男性と瓜二つの格好をしている。

 先頭の男性が介添え人に頷くと、右側の介添え人が頷き返し、扉を叩く。

「大黒様。お客人がご到着致しました」

 中から返事は返ってこない。代わりに、悲鳴の様な音を立てながら両方の扉が重く開かれた。まるで、獲物を呑み込もうとする口の様に。

 自ら捕食される為に、捕食者の口の中に飛び込む者はそう居ない。知恵や理性がある生き物であれば尚の事。男はただの扉を潜る。中は今までの室内とは違い、木をメインとした西洋モダンな内装。廊下から続く様に広がる赤い絨毯が、全体的に茶色い室内を絢爛に彩っているのは、細部に金の装飾がされているからか。天井の大きなシャンデリアが、口蓋垂の様に意味もなく揺れていた。

 中に並ぶは複数の人。その者達に導かれる様に、部屋の奥中央に奴が居た。

 ──蛇。──いや鷹。男が奴に抱いた印象は、とても人間に抱くものでは無く、今まで抱いた事の無いものだった。

 左目に黒の眼帯を嵌めた隻眼の鷹は、舌舐めずりしながら己の口内に入り込んだ獲物を品定めする。爪先から頭の先まで、ナメクジの様な視線が男の全身を這い上がる。

 そこに殺意は無い。殺意を抱く相手ですらない、ただの獲物に過ぎない。鷹にとって、男はただの餌に過ぎなかった。代わりに、左右に立ち並ぶ者達が男に向けて殺気を放っている。だが、男からすると、その殺気は赤子の癇癪程度のものにしか過ぎない。それ程、目の前の鷹に意識を奪われていた。

「お前が客人か」

 鷹は眼光を光らせる。その目は、まるで蛇の様に細く、鋭い。

「多分な」

 レインコートに付いた雫が、赤い絨毯の染みを濃い紅色にする。その色は、まるで舌の上に広がった獲物の血痕の様。男の血色は良いままだ。

「面白い。仕事だったな。確か、鈍色の鉄箱を持ってきたとか」

 鷹の目配せに、一番近くにいた男性が男に近寄る。前に掲げられた両手が、何かを求める様に伸ばされた。

 男はレインコートの隙間に腕を突っ込むと、バッグから鉄箱を取り出した。柔らかいビニールの音がレインコートの音と混じり、雑音が大きく部屋に響く。雨音に似たその音を取り払い、空と同じ色の鉄箱を男性の手の上に置いた。男性の手は鉄箱を落とされた事で深く沈むが、気にする様子も無く立ち上がると、鷹が座る豪華な机に音を立てず下ろした。

「“先代”の仕事道具か。錠か……おい、壊せ」

「それは困る。鍵は無いのか」

「あるわけが無い。何年も前も代物だ、この箱自体、他は処分した位だ。中身ごとな」

 鷹の手招きに、先程男から鉄箱を受け取った男性が、近くの棚から刃の分厚い剪定鋏を取り出す。鷹は鉄箱を片手で掴み上げると、別の男性に向かって投げ渡す。小さい呻き声と共に硬く痛々しい衝突音が響き、男性は顔を顰めるが、鷹に対して文句の一言も言わない。男性達は協力して、鉄箱に取り付けられた錠や鎖を切断していった。その嫌な音に、男だけが顔を顰めた。案内人の男性達は、いつの間にか部屋から消えていた。

「人の許可無しに切断か」

 長年大切に管理していた物が断りも無く破壊された事に、男は嫌悪感を露わにする。

「はっ、お前のじゃ無ぇだろ。これはこの町の……俺の物だ」

 鷹は男の戯言を鼻で笑い飛ばした。鷹が言葉を言い終えると同時に、タイミングを見計らったかの様に、錠と鎖が切断された鉄箱が鷹の目の前に置かれた。切られた錠と鎖も、丁寧に机の上に並べていく。

「この町はあんたの物なのか?」

 それらを眺めながら、男は再び鷹に声を発する。

「そうだ。この町は俺の物。──俺の為の楽園だ」

 鷹は口角を吊り上げながらそう豪語した。そして、男は理解した。この楽園は、鷹の為の物なのだと。“鷹の為だけの物”なのだと。

 “牧場”だ。悪の楽園は、鷹の腹を満たす為の牧場。そして、町に住み着くホームレス達は鷹の餌。畜生なのだ。建物内に居た輩達すら、畜生として扱われていても不思議では無い。

 人では無い。鷹は人では無い。男はこの時初めて、鷹に恐怖心を抱いた。手と口が血塗られた、獣の眼をした化け物に見えたから。

 鷹の狂気じみた笑みの隙間から見える、粘り気のある唾液が赤黒く染まって見えた。男は無意識に唾を飲み込む。

 鉄箱に爪が伸ばされ、開いた蓋が重々しい音を立てて机を叩いた。

「……思い出すぜぇ。何年前だったか……やはり、古いな」

 鉄箱の中身は男からは見えない。感傷に浸っているのか、鷹は独り言を呟き終えると鉄箱の中を黙って見つめていた。

 早く中身を出せ。早く確認させろ。男は待ち切れず、右足を一歩前に踏み出した。

 同時に、鷹は愛おしく撫でる指を止めると、それを掴み取り男に向かって突きつけた。

 黒く重厚感のある色合い。日本人にとって非現実的な見慣れた形。深淵よりも暗く、深い銃口。誰もが怯える、死神の鎌に似た弧を描く引き金。

 ──“拳銃”。それが、鷹の手の中に握られていた物の名前。そして、男が生涯大事に管理していた鉄箱の中身だった。

 男は動きを止めた。隠されていた爪を魅せられた事に恐怖した訳では無い。寧ろ、今の男の眼中に鷹はいなかった。あるのはただ、大事にしていた鉄箱とその一部であった錠と鎖。そして、拳銃だけだった。

「この程度で怯えているのか。所詮は表の人間──いや、お前も“此方側”か」

 鷹は一度嘲笑を飲み込むと、男の表情を見てクツクツと喉を鳴らし笑みを浮かべた。まるで、“男の表情を鏡に映した”かの様に。

「一発……。ケースのお陰もあるが、大切に保管されていたのだろう。このまま使えるな。おい、使い方は分かるか?」

 弾倉を抜き、遊底を引き、薬室を覗く。一連の動作を済ませて弾倉を嵌め直すと、鷹は男に問い掛けた。

 勿論、男は首を横に振る。エアガンも無いのか、モデルガンも無いのか。重ねての問いにも、男は同じ様に首を振った。

 それでも男か。と、半ば呆れた視線を送る鷹に対し、これでも男だ。と、男は返した。そのやり取りの何が面白いのか、鷹は仰け反る様に哄笑する。

「面白い男だ。……仕事だったな、くれてやろう。銃を向けられて笑うお前に相応しい仕事だ。だが内容を知れば、生涯陽の光の元で生きてはいけない。ドブ臭い地下で、糞尿と生ゴミの山の中で死ぬ鼠の様に、お前は死ぬんだ。お前は、そんな鼠になるのだ」

 鷹の言葉に嘘も比喩も無い。その世界に毛先の一本でも入ってしまえば。いや、触れてしまっただけで、後戻りは出来ない。男は今、そんな闇の前に立っているのだ。後ろには、影はあるものの闇は無い光差す世界。寒さに凍える場所があっても、すぐ隣には暖かな場所がある世界。だが、闇には闇しかない。

 数秒も掛からずに男の答えは決まった。いや、既に決まっていた。


 男は止めた足を動かして鷹の元へ向かう。そして、止まり木の前で立ち止まった。

「その為に来たんだ。それに、それを見てある程度の察しは付いている」

 ニィ。と、鷹の口が歪む。部屋の外から物音が聞こえる。言い争いをしているのか、怒鳴り声が混じったやり取りは、段々と男達の居る部屋へと近付いていた。

「喜べ、鼠の初仕事だ。──入れ!」

 動きを止めていた気配は、扉を勢いよく開けて室内に入り込んできた。同時に、男の醜い絶叫が室内含めた階内に響き渡る。

「がぁぁぁぁぁ!離せぇ!お前ら全員殺してやるぅぅぁぁぁ!」

 蜘蛛の糸の様に口から吐き出された唾が、獣の口から床を這う。両腕を案内人のスーツの男性達に掴まれ、時折肩から嫌な音を発していた。

 無理矢理跪かされている獣に首輪は無い。それでも、鎖に繋がれている様に感じるのは、鷹の前だからだろうか。鷹の前では、獣もまた家畜に過ぎない。男は獣の前に立ち、見下ろす。

「殺す!お前も、お前も、お前も!お前もぉぉ!──そしてお前!」

 貧相な牙で周囲に噛みつき、唾を撒き散らす獣は、目の前の男に視線を合わせて笑みを浮かべた。

「ふへへ……。お前は俺だ。鼠は所詮、害獣さ。餌であれ、駆除であれ、殺されるんだ。お前も、いずれは大黒に殺される。……俺の様にな」

 憐れみ、蔑み、呆れた笑みを浮かべる獣は、遠吠えに似た高笑いを発し、部屋の窓を震わせる。その共振は、鷹の足音が近付くと共に掻き消され、見えない鎖に絞められた喉は声を引き攣らせる。

「此奴ぁな、鼠の仕事を失敗しやがり、おめおめと逃げ帰ってきたゴミだ。──殺せ」

 研ぎ澄まされた古い爪は鷹の手を離れ、男の手に渡る。鉄箱の重さを知っているが故か、その黒い爪の重さは男にとって心許ない物だった。

 銃は、これ程までに軽いのか。これが、“命を奪う”重さなのか。鷹は止まり木に戻る。押さえ付けられた獣は口の端から牙を覗かせ、唾液を垂らして眼を光らせた。

「お前は俺だ。俺を撃てば、お前は鼠になれる。鼠になっちまうんだよ」

 その眼は濡れていた。伸ばされた細い指と手は、見えない血で染まっている。鷹とは違って、獣は手だけが血に濡れていた。

「そうだ。其奴を殺して、お前は鼠になれるのだ」

 その眼は爛爛としていた。弧を描いた口は、見えない血で染まっている。獣とは違って、鷹は口だけが血に濡れていた。

 男は窓を見る。暗く、湿った外を背景に、映し出された自分を見つめる。その眼は人の目をしており、手も口も血に染まっておらず、人の形をしていた。

「俺は小鼠だ。鼠になる為に鼠になった、鼠に成れない小鼠だ」

 所詮は人の皮。獣や鷹に囲まれたソレは容易く破れ、灰色の薄汚い毛と皮膚が姿を現す。窓に映っていた男の姿は、いつの間にか異形の鼠の姿を模っていた。

 だけど男は知っている。それすらただの被り物。所詮は人でしか無い。人でなしの人間でしか無いのだ。だから、小鼠の皮を被るのだ。

「怖いか?恐ろしいか?人殺しを罪だと思うか?」

 いつの間にか男の隣に立つ鷹は、獣の顔に蹴りを入れた。

「この楽園に法は無い。あるのは秩序と支配。皆、俺が決めた規則に従い、俺の力に跪く。俺が罪を決め、俺が罰を下す。そう──俺が神だ。この楽園の、お前の神だ。──殺せ。この楽園で殺人は罪では無い。従わない事こそ罪であり、其奴はその罰を受けるのだ」

 気を失った獣は項垂れ、案内人に捨てられると床に伏せる。まるで野垂れ死んだ野犬だ。牙を捥がれ、それでも尚飼い主に媚び諂い、抵抗すらしない捨てられた野犬。人間の癖に、人間に利用されている境遇を受け入れ、現状に甘んじる負け犬。

 舌打ちと安全レバー解除の音が重なり、冷めた熱がぶり返す。結局、此奴も自分で何も行動を起こさない負け組なのだと、男は更に舌打ちを重ねる。

「本当に腹立たしい。此奴も、下のホームレス達も。いや、尊敬するべきか。蜜も無しに、神に依存出来るんだから」

「依存では無く信仰だ。皆、大黒という楽園の頂点の恐怖に支配され、神である俺が定めた秩序を信じ尊ぶのだ。蜜は与えられる物ではなく、神である俺に捧げる物。哀れんでやるな、奴等には、俺という神しか居ないのだから」

 鷹は止まり木でふんぞり返る。その翼は、神聖な神とは程遠い程、黒く、赤い。

「神……。神、か。昔、世話になった人からこんな話を聞いた」

 男は銃を獣に突き付けたまま、話を続けた。

「信仰していた神が死に、新たな神が神になった。そして、新たな神の御神託を受け、職務を全うしたが、以前は抱く事の無かった罪の意識に襲われた。新たな神は罪では無いと諭したが、それでも罪の意識に苛まれ、神の元を離れたそうだ」

 一区切りついたと見たか、鷹は鳴いた。

「その者は愚か者だな。神のお赦しを得て尚、罪に苛まれるとは。で?無駄話はそれで終わりか?」

「酷いなぁ、人の思い出話を。まだ少しだけ続けさせてくれ」


「神を捨て、それでも罪の意識は消えなかった。男は考えたそうだ。何故こんなにも苦しむのだろうと。神に罪と問われず、審判を下す神を捨てたのに、何故罪の意識は消えないのだろう、と。悩みに悩んだ末、気付いたそうだ」

 己が心に神は棲む──と。

「人は神には成れない。人の心が神を創るのだ。罪も、罰も、心の中の神だけが決め、下すのだ。人に出来るのは精々、規則を作り、秩序を保つ事だけ」

 男は体を反転させると鷹に銃を突き付ける。

「お前は神じゃぁ無い、神には成れないんだよ。唯の汚ねぇ人間だ。罪も、罰も、規則も秩序も、お前に決める権利は無ぇ」


「決めるのは、俺の心の中の神だ」


 二度と聞く筈の無い古臭い撃鉄の幻聴に、老父は傘の隙間から空を覗く。いつの間にか雨は止み、厚い雲には弾丸に穿たれた様に穴が空いていた。天から差す夕暮れの陽の光は、楽園の象徴である商業ビルの最上階を照らしている。

 脚光を浴びるクレーンは既に動きを止めていた。もう、刻む必要が無いのだと。刻む物が無いのだと。楽園の時計は、動きを止めていた。

「次は、私の番か」

 鉄箱を模した罰が、封印を解き神に裁きを下したなら、次はその手足であった自分に、裁きが下るだろう。天使でも、悪魔でも無い、鼠に成れなかった鼠の皮を被った、唯の人間である自分に。

 老父は必要無くなった傘を捨てる。その傘に向かって群がるホームレス達は、まるで蜘蛛の糸に縋る罪人達の様だ。そして物語通り、傘は重みに耐え切れずに壊れてしまう。頂点に居た者は、下の者より大怪我を負う。傘を最初に掴んだホームレスは、折れた骨組みに手の甲を貫かれて絶叫する。

 怒り狂うホームレスの声は、過去の撃鉄の音に破られた老父の耳に届かない。聞こえるのは、少年の笑い声と、その父親の最後の叫び声だけだった。

「神を名乗る鷹も、昔は蛇で、そのまた昔は鼠だった。地を這い、天敵に怯え、絶対強者の鷹に憧れた、唯の人間だった。それが、鷹を喰らい翼を得たあの日以来、地を這う脅威を忘れ、強欲にも天に手を伸ばした。愚かなものよ。天も地も、どこにも楽園は無いというのに」

 天に近付けば焼け死に、地に近付けば喰われ死ぬ。そんな地獄の玉座に、自ら望んで腰を下ろしたのだから。

 所詮は皆等しく、人間という獣でしか無い。幾ら動物を真似ようとも、神を謳おうとも、奪えば奪われ、殺せば殺される、唯の人間。

 老父はうすら笑みを浮かべる。その首には、血に濡れた鉄の枝が生えていた。怒り狂う獣は既に消え、群がるのは像になるのを待つ燕だけ。周囲の住民達は、財宝を運ぶ燕達を今か今かと待っていた。

 やがて、錆に塗れた肉塊は地に伏し、燕達は像からなけなしの財宝を剥ぎ取ると、住人達の元へ羽搏いていった。

 残った物は、時を止めた時計と赤錆の像。そして、誰のものでも無い楽園だけだった。


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