雨の日の眠り姫
あぁ、またここだ。
長閑なあぜ道。黄色に染まる木々。そして、トンボが私を追い越して、声を掛けられる。
「かえりかい?」
頬被りした男性。
そのゆったりとした声と雰囲気は五十代くらいかな、とは思うけれど、やはり黄色い影を作っている彼の詳細は全く分からない。
「はい」
私は、いつもこう答える。
どこへ帰るのか、どこから帰って来たのかもよく分からないまま。
「いいかい。振り返らないで進むんだよ」
優しい助言だった。
きっと、助言なのだ。
「はい」
このまま真っ直ぐに歩けばいい。そうすれば、帰ることが出来る。
ただ、そんな風に思い、返事をする。
黄昏にはまだ少し早い、西日と言うには、遅い。
黄色に染まったあぜ道を進む。右手には刈り取られた田んぼ。左手は山。
田んぼを覗くと、ストローを束ねたような稲の断面が、幾つもある。
不思議な郷愁に満ちてくる。
田舎暮らしもしたことないし、稲を育てた経験もないのに。
どこへ向かっているのか、どこへ帰るのかも分からないけれど、そんな感情だけは湧く。
山は閑か。
時々木々から落とされる葉の音が聞こえてくる。普通ならカラスの鳴き声くらい聞こえてきそうなくらいなものなのに、虫の鳴き声くらい聞こえてきそうなものなのに、とても閑かだ。
生き物は、私しかいないのかもしれない。
そんな風に感じても、それを当たり前だと思っている。
何度も何度も、同じことを繰り返してきたのだ。
もうすぐ、聞こえる『とおりゃんせ』
小さな子どもの声がする。何名もいる。歌っている。その声は、どこからか聞こえてくるが、山でもなければ、田んぼでもない。
「通してください」
私はいつもこう言う。
「行くの?」
その声は、聞き慣れた、そんな声。彼女だと思う誰かが訊き返す。
私の腕が、背後から引っ張られる。
どうして、帰ろうとするのか分からなくなる。
声がもう一度、尋ねる。
「いいの?」
振り返ってしまう。
そこで、また頬被りのおじさんに尋ねられる。
「かえりかい?」
※※※※※※
会社からの帰り道。誰かが後を付けてくる。最近ずっと。人通りの多い道を選びなさい、とは言われたけれど、残業で深夜近くになることだってある。
今日は雨。いつもよりも暗い気がする。
人通りは、まばら。みんな帰路を急いでいる。
振り返っても、誰が私に付いてきているのかは、分からない。私のことなど、誰も気にせずにあるように思える。だけど。
歩行者専用信号機が「とおりゃんせ」を知らせている。
点滅し、足を急がせる。
急がなくちゃ。
追いつかれる。
だけど、同じ気配がずっとあるのは確か。
実家暮らしだし。
早く帰らせてもらうようにしなさい。
切手なし郵便が放り込まれる。
どこからか、添付メールが送られる。
仕事は行かなくちゃならないし。
まだ、一度のことなんだよね。
事実はそうだけど。
腕を引かれる。
点滅の青が危険信号の赤に変わり、アスファルトに映り滲む。
車が気付かずに通り過ぎたその後に、水色の傘が一つ転がった。
※※※※※
目を覚まされましたか?
いいえ、まだ。
そうですか。彼女が目を覚ませば、……。
そうですね。
疲れ果てた表情をしたその女性は、娘の手を握りしめたまま、四角四面の男の言葉にだけ返事をした。
雨の日の通り魔
後にそんな名前を付けられて、連続殺人とされたもの。
水色の傘を狙った犯行だと言われている。
シリアルキラー。そんなことも言われている。
だけど、捕まっていない。
水色の傘が狙われるようになったのだとすれば、この子が襲われた後からだ。この子は、この子だから狙われた。
「まだ、こんな場所に帰って来たくないわよね……」
誰も助けてくれなかった、また狙われるかもしれない、そんな世界に。
だって、娘は今、とても穏やかに眠っているのだもの。
怯えた顔は一切ない。
※※※※※※
真っ暗な部屋。スマホを見つめ、密かに思い出し笑いをしている。
「あの子が一番綺麗な花を咲かせた」
赤い光を吸い込む水色に飛び散る血液。
まるで花の様。
雨を防ぐための傘。その内側に咲いた、赤い花。
夜の闇の中、まるで青空の下で花に囲まれ眠っているようだった。
彼女はだから、まだ眠っているのだろう。