第1章 変わり者の森の住人達
誰か嘘と言って欲しい
町外れにある小さな屋敷のキッチンで少女が1人絶望感に打ちひしがれていた。
今朝、ついに小麦粉の袋の底が見えてしまったのだ。
それはここ数日の間、リオン・ダンディがもっとも恐れていたことだった。
待ってよ……今月は、後何日あったかしら?
陽光のあたり具合で金色にも橙にも見える不思議な按配のふわふわの髪ににクシャっと手を入れて、リオンは何度も今日までの日付を数えなおしたが、今月の暦はまだ10日しか終えていなかった。
つまり、父のお給金が支払われる月末までに後20日もあるということである。
そしてその事実は、彼女が時間を進める魔法でも使えない限りは、決して変わることがないのだ。
最近ジルがよく食べるようになってるからなぁ
リオンは昨日の夕食で、幼い弟がパンとスープを3度もおかわりしたことを思い出し、小さくため息をついた。
先月7歳になったばかりの弟は食べ盛りなのだ。
パンとスープだけの夕食で旺盛な食欲を満たそうと考えたら量を食べるしかないわけで……
硬いパンと、ほとんどの具材が野菜というスープを、ほんの3回おかわりしたくらいで可愛い弟に小言を言うわけにはいかない。
しょうがない…
また私ができるような内職を探すしかないわよね
今月も赤字を補填する必要が出てきた事実に、今度は盛大にため息をついてリオンは、とりあえず朝食の準備にとりかかることにした。
ダンディ家は一応貴族の端くれであるので、彼女もとりあえずは貴族令嬢ということになるのだろうが、なんせこの家には使用人と呼べる者が1人もいない。
リオンの家は、俗にいうところの貧乏貴族なのである。
弟の出産以降、すっかり身体が弱ってしまった母に変わってダンディ家の家事全般はリオンが担っている。
お父様にもう少しお金を稼ぐ才能が欲しかったわね
庭で育てたジャガイモの皮を剥きながらリオンはちょっとだけ愚痴をこぼした。
小麦粉が少ないので、とりあえず今朝はパンを焼くことを諦めて、ジャガイモを茹でて潰したものに小麦粉を混ぜてだんご状にし、更に茹でたものを食卓に出すことに決めた。
幸いにも、ご近所に住む行商人のお婆さんが形が悪くて売れ残ってしまったトマトをたくさんくれたばかりで、これをトマトソースにして先程の団子にかければ、とても美味しくなるに違いない。
まぁでも、お父様のあの性格じゃお金儲けはどう考えても無理なわけだし、ここはやっぱり私がしっかりと節約していくしかないわけよね
とても貴族令嬢とは思えない台詞をぶつぶつとこぼしながら、リオンは茹でたジャガイモを手際よく潰し始めた。
リオンの父、マシューはこの辺り一帯を治める名門子爵家の傍系の出身ではあったが、なんせ家系図の端っこにぶら下がっているだけの存在なのでたいした所領はもらえていないのが実情だ。
むしろ、こんな端っこの家系にまで毎月の所領分配金をきちんと回してくれる当代の子爵様には土下座して感謝するべきだろうとリオンは思っていた。
そんなわけで、貴族として貰える収入だけでは回らない家計を補うために、マシューは働く必要があったわけなのだが…残念なことにリオンの父には全くと言っていいほど商才が備わっていなかった。
優しすぎる性格が災いして損をしてばかりなのだ。
それじゃあ騎士にでもなれれば良かったのだが、これまた体力がなかったので無理だった。
もっとも体力があったとしても、誰かを傷つける武器など彼には触れることもできなかっただろうけども……
結果として、優しいマシューが唯一の得意分野を活かしてみつけた職業はというと
植物学者
本当に職業と言えるのかどうかも怪しいが、とりあえず国の研究機関に所属して、野生に群生する草花の効能などを調査して報告することで、なんとか家族4人が普通に生活するだけのお給金は賄えているのがダンディ家の家計事情だった。
「おはよう、リオン。今日も早起きだね」
トマトソースを作るべく、湯むきしたトマトをざくぎりにしていたリオンの背後から、少し寝とぼけたような声がかけられた。
振り返ると、眠そうな顔をした父のマシューがダイニングと、小さなキッチンを繋ぐカウンターから顔を覗かせていた。
ダンディ家はもともと領主である子爵家が、狩猟時に使用していた宿泊用の仮住まいを安く譲り受けて改築した小さな屋敷である。
そのため世間一般の屋敷とは作りが大きく違っていてキッチンとダイニングは小さなカウンターを仕切りがわりにしているだけでひと繋ぎとなっているのだ。
食事を作る場所が、食べる場所から見えてしまうなんて普通の貴族の屋敷の構造では考えられない様なことかもしれないが、リオンはこの作りがとても気に入っていた。
小さい頃はまだ母が元気で、このキッチンで家族の朝ごはんを用意するのはいつも母だったから、リオンもよくカウンターから料理を作る母に話しかけては、美味しそうな匂いのする鍋を覗き込んだりしてわくわくしながら食事のひと時を待っていたのだ。
「おはようございます、お父様。今日はもう少し寝てるかと思っていたわ。昨日は遅くまで書斎にこもってらしたから」
「あぁ、森で見つけた新しい薬草の一種が面白い効能を持っていてね。うまく他の薬草と調合できれば、とても素晴らしい薬になるかもしれないんだ」
榛色の瞳を細めてマシューが嬉しそうに笑う。
父は新しい草花を見つけると子供のように熱中して研究をし始めるのだ。
「それは良いわね。お父様ならきっと素晴らしいお薬を作れると思うわ」
さっきまで、貧乏貴族の現実に少し愚痴っぽくなっていたリオンだったが、結局のところ彼女はこの草花を愛する、優しい父親が大好きだったので、少々食費が足りないことなどを本人に知らせて、その顔を曇らせたりなどはしなかった。
「頑張るよ……もしかしたらローズの身体も治せるかもしれないからね」
「お母様の入院…今回は少し長引いてしまってるものね」
赤いトマトソースを煮込む鍋をかき回していたリオンは、そこで思わず手を止めて父の顔をじっと見つめた。
マシューの妻であり、リオンの母であるローズは、もともとはとても元気な女性だったのだが、弟のジルベールを産むときに大量に出血をしたのが良くなかった。
幸にして命は救われたが、以来すっかり病気がちな身体になってしまい、1年のうちに何度かは大きく体調を崩して皇都にある大きな病院に入院するような事態を繰り返していた。
「心配することはないよ…3日前に会いに行った時はもうだいぶ調子も戻っていて、本人は退院する気満々だったんだが、今は季節の変わり目でこの辺は明け方に酷く冷え込むからね…僕が主治医の先生にお願いして、退院を先延ばしにしてもらったんだ」
娘の不安を感じ取ったのか、慌てた様子でマシューがいいつのる。