序章
第8代サマセット公爵は、15歳の誕生日を迎えるその日まで、何事も完璧に整えられた人生に満足していた。
5歳の時に不幸にも両親を馬車の事故で失い、幼い身で公爵位という重い責任を背負うことにはなったが、その不安定な立場を憐れに思った国王は、亡くなった妹姫の忘れ形見である彼を保護し、とても可愛がった。
もしかしたら母に似た王家特有の銀の髪と蒼い瞳が、長く子供に恵まれなかった国王には我が子のように思えていたのかもしれない。
とにかく、国の最高権力者による絶対的な庇護は両親の死という混沌から幼い彼を救い出し、またその悲しみを記憶から消し去った。
母のように優しい乳母、彼を導く優秀な家庭教師、忠実な使用人達に囲まれ、皇都の中心にある美しい邸宅で、彼はまるで皇子のように大切に育てられた。
国王は彼に必要だと判断したものは、彼が望む望まないに関わらず、何もかもを与えてくれたのだ。
そして彼が成人を迎えるより少し前に、今度は妻という名の新しい家族を彼に与えようとした。
彼のために国王自らが選出したという婚約者は、とても美しい伯爵家の娘で、彼女に初めて引き合わされた時、彼はぼんやりと考えた。
また、自分の世界に美しい存在が増えた
整えられた世界の中で彼は確かに幸せだと信じていたのだ。
そう…その美しい婚約者が、あろうことか彼の邸宅の美しい庭園で若い男と抱き合っている姿を見るまでは
彼が見ているとは知らない婚約者は、彼の前では見せたこともない女の顔をして見知らぬ男に笑いかけていた。
「国王陛下のご命令ですもの仕方ないわ…でも、彼を愛してなどいないの、だってまるで感情がないのよ。一緒にいると気持ちが悪いわ」
彼女の放ったその一言は彼を傷つけたりはしなかった。
なぜなら彼はまだ、彼女のことをそれほど愛したりはしていなかったから。
だが、ある一つの真実を彼に突きつけてしまった。
何もかもが完璧に見えた世界は、全て国王の権威という鏡に写された虚構であったということに
そして、そのマガイモノの世界の中心にいる自分という存在がもっとも歪なマガイモノであったということに
一度ひび割れた彼の世界はもとには戻らない。
美しかった全てのものが、徐々に彼を傷つける刃へと変わった。
優しいはずの乳母は、いつの間にか権力の蜜を覚えたらしく、国王の覚えめでたい公爵様の乳母という立場を利用して、屋敷の使用人達を虐げていた。
家庭教師達も同様だ。
そして忠実なはずの使用人達は、そんな状況に自分達を追いやった彼に失望していた。
ここはまるで鏡の世界だと思わないか…….ここに咲く花の美しさ以外、全ての美しさは嘘にみえる
ある日の朝、庭に咲いた薔薇の花を眺めながら公爵はぽつりと呟いた。
たまたまそこにいた庭師の青年が驚いた顔をして彼を見つめ返す。いつも麦わら帽子を目深かにかぶって庭の剪定をしている青年の名前を公爵は知らなかったが、その青年が庭に咲く美しい花を育てていることは知っていた。
だから、なんとなく本当になんとなく彼ならホンモノを知っているような気がしたのだ。
庭師の青年は少し悩んだようだったが、やがて優しい目をして公爵に言った。
公爵様は、たぶん…ここにいない方がいいのかもしれないですね。土が腐っていては、花は枯れてしまうものですから。
それはまさに天啓だった。
そうして
かつて銀の公爵と呼ばれた麗しい存在は、その日を境に皇都から忽然と姿を消した。
人々は口々に彼の行方を噂したが、誰も知るものはいなかった。