天の口と大地の耳
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
おお、こー坊。また勉強とは熱心だな。
なになに、ことわざの試験か。こいつもまた昔からおなじみのもんじゃのう。
慣用句もそうだが、独特の言葉や言い回しは、読むほうや聞くほうも、当然知っているものとして使われるからな。
いざというとき、意味が分からずにとんちんかんな受け答えをすると、足元を見られるぞ。そうしてなめられたがために、本当に大切な局面で伝えるべきことがきちんと伝わらず、相手も自分もむざむざ大切なものを失う羽目になりかねん。
ん、まあじいちゃんの苦い思い出だな。そのためにもしっかり勉強しとくといい。バカにされる、されないよりも、もっと大事なことのためにな。
そしてことわざたちにも、ひょっとしたらその手の大事なものが隠されているかもしれん。昔より今に残っとる言葉、軽く見るのはいささか浅慮かもしれんぞ。
じいちゃんの聞いた話なんじゃが、聞いてみないか?
むかしむかし。
とある釣り人が、いつものように海釣りをしていたときのことじゃ。
釣りは忍耐、とよくいわれるが、その日は特に魚が釣れずにいたらしい。陽がのぼるより前よりここにいて、糸を垂らしてすでに半日が過ぎてしまった。
すでに西の空は赤みを帯びているし、カラスらしき鳴き声もあちらこちらから。この間、エサを取り換え、自分でこさえた握り飯をかじりながら、時間を潰していたのだとか。
エサはいずれも、かじられた形跡なし。糸の先につけていたウキも、波に揺られる以外ではそれらしい浮き沈みもなし。魚たちはいっさいこれらに触れていないと見えた。
この釣り場は、釣り人にとってのお気に入り。これまでは、訪れるたびに一定以上の成果を見せ続けてくれたこの場所が、今日ばかりは機嫌が悪い。
――お天と様も見守ってくれた一日だというに、ついとらんの。
ふう、とため息をつく釣り人が、あきらめてその場を立ち去りかけたところ。
きびすを返しかける刹那、自分の視界を魚が一匹横切っていった。
思わず、顔を戻す。あの動きは釣り上げたときの動きそのものだったが、竿はすでにしまっており、釣り上げるすべはここにない。
目を丸くしておると、また一匹。海面から釣り人の前を通り、なお頭上高くあがっていく魚の姿があった。
釣り人が立っているのは、海面より大人二人分ほど突き出ている小岩の上。そこより高きにある岩場などは、周囲に存在しない。他の釣り人という線はない。
魚を目で追う釣り人の身体に、今度はにわかに湧き出した薄暗がりが覆いかぶさり始める。
突然、現われ出たとしか思えない。
晴れ渡っていた空は、この上部にのみ雲が湧いていたんだ。
その表面のうねり、その渦を巻くかたち、いずれもひっくり返して水になれば、海そのものと見間違えてもおかしくない。
そのような奇怪な状態でもって、雲はなお目に見えるほど堂々と、一点に集まるように渦を巻き続けていた。
渦の中央は、ぽっかりと穴が開いている。もし、本当に空いているのであれば、その向こうにまだ残光に身を染める空の姿がのぞいているはずだ。
なのに、いま釣り人が目の当たりにするのは、一足早く訪れた夜の姿。いや、それ以上かもしれん。
星ひとつ見えない、暗闇が浮かんでおった。釣り人がしばし、あっけにとられたのち、海へ視線を戻すと、ここより離れたそこかしこで、波に紛れた水柱が細々とあがっていたんだ。
魚たちだった。先ほど自分の前を通り過ぎていったのと同じように、魚たちが次々と海の中から浮かび上がっては、あの口の中へ引き付けられ、消えていくのだ。
これまで竿と糸に目を配り、片時も変化も見逃すまいとしていた釣り人。ゆえに海全体への視野が狭まっていたのだろう。
魚たちの釣り上げられようは、圧巻だった。こうして遠く、どこを見やったとしても水柱が休む暇はない。このほんの数拍の間で、何十匹の魚が空へ吸い込まれていったことか。
はじめから、あの渦を巻く雲があったわけではない……と釣り人は思っていた。しかし自分が見ていた空の色に、本来はあれが隠れていて、この暗くなりかける時間帯になり、ようやく視認できるようになったのだとしたら。
自分のもとへ、回ってくるものがないのも道理。しかし、いくら辛抱強くとも、それがこうした妨げの結果だとしたら、腹に据えかねるものがある。
いまだ大口を開ける空へ向かって、釣り人は叫んだ。
「おおい、わしの分を返しておくれよ!」
なんともむちゃくちゃではある。
空が釣らなかったとて、自分がその魚を釣り上げられるわけではない。
それでも一日を潰されたことのむかつきもあって、つい被害者面をしたくもなる。
すると、あれほど盛んに上がっていた水柱がぴたりとやんだ。
見上げると、空の穴こそ開いたままだが雲のうず巻く動きは、すっかり止まっている。
「声が届いたのか?」と釣り人の頭に浮かんだことに答えたのは、空ではなかった。
足元だったのだよ。
釣り人の立つ岩に走っている、細い裂け目。そこから魚たちは一斉に飛び出してきたのだ。
いずれも身をきれいに失い、骨ばかりとなった姿で、何十尾もな。
このようなところに、あらかじめ隠してあろうはずがない。こうして、はかったような機で飛び出してくることも。
そして、これらの骨はいずれも、大いに粘り気を含む「つばき」に包まれておった。
釣り人をかすめて飛ぶそれらは、ときおりしずくとなって釣り人の服や道具にへばりついていく。
たちまち、それらから盛んに湯気が出たかと思うと、つむぐ生地たちにどんどんと穴が開き出したのだ。
身体に浴びたら危ないと、釣り人が悟るのは難しくなかった。すぐさま彼は逃げ出し、浜を通り抜けて振り返ったときには、自分が立っていたはずの岩がすっかり姿を消してしまっていたらしい。
天に口あり、地に耳あり。
天には気まぐれにものを食らう口があり、地には敏く声を聞き取る耳がある。
それは自分たちの生殺与奪を握り、ささいなことさえ聞き逃してはいない。ゆめゆめ用心をするようにと、釣り人は語ったのだとか。