三、宮本武蔵の章
三 宮本武蔵の章
大坂の戦が終った。
豊臣家は滅び、徳川幕府は盤石なものになった。それを繁栄するかの様にして、江戸の町も大きくなって行った。
武蔵は江戸の町に居た。
武蔵は、高い禄で自分を召し抱えてくれる大名を探して居るのだ。
口に出した事は無いのだが、将軍家剣術指南役である、柳生宗矩の禄高を基準として居るのだ。宗矩の剣術より、自分の剣術の方が優れていると思って居たからだ。
武蔵を召し抱えたがる大名は多い。
大坂の戦が終り、この先はもう大きな戦は起らないだろうと、どの大名も考えて居た。
戦が無ければ家名を上げる機会も無い、そう成れば、有名な家臣を抱える事で家名を上げると言う流れに成って居た。
あそこの家は、宮本武蔵ほどの漢を召し抱えて居るのか、と噂される事により、家名も上ると言う訳だ。
武蔵の方も、そんな大名たちの心の内が解って居るので、意にそぐわない禄高では首を縦に振らない。武蔵には、そう言う邪な気持ちがあるのだ、プライドも許さない。
武蔵は豊臣家での低い処遇を思い出し、また腹立たしい気持ちに成った。あの時の扱いは酷かった。武蔵は、ねちっこく思い出しては、拳を畳に叩き付けたく成る衝動を、必死に抑えた。
「宮本殿、如何された」
「あ、いや、何でも御座いませぬ」
「左様か、して先程の話しの返答は如何に」
「某、心に思うことあり、今はどなた様にも仕える気は御座いませぬ故」
「禄高の額が気に入らぬと申されるか」
その通りである。
「その様な事は御座いませぬ。某はまだ途上の身故、剣をまだ見極めとう御座います。お仕え致せば修行が出来ませぬ、どうか御理解頂きたく思います」
断る際は、いつも同じ言葉を述べて居た。
宗矩より高い禄高を提示してくれた大名は居ない。
結局、武蔵は自尊心が強すぎて、最後まで禄の基準を下げる事は無い。
諸大名たちも、まさか将軍家より高い禄を提示する訳には行かない。
武蔵を召し抱えると言う話は、何処まで行っても平行線のままだった。
断れると、どうしても欲しくなるのが人情である。特に銭の苦労をした事が無い者ほどそう成るのだ。
勿論、実力があってのことだが、武蔵の名は、断れば断るほど上って行った。
「へぇー、宮本武蔵ってぇのは、そんなに凄いのかぃ」
「そりゃそぅよ。大名から幾ら銭積まれたって首を縦に振らねぇってんだ。余程腕に自信があんだろぅよ」
「銭に転ばねぇってところが良いねぇ」
「なんでも、鬼やら妖怪だって退治しちまぅってぇんだから、強いに決まってらぁ」
「はぁ~、鬼なんてホントに居んのかぃ」
「知らねぇよ、そう言う噂なんだよぅ」
噂が噂を呼び、武蔵の名は江戸っ子たちの間で囁かれ、評判になった。
いつの時代も宣伝と言うのは大事で、武蔵は自分を売り込むことに才能があった。
「何々の大名の話しを断った」とか「姫路で妖怪退治を致した」などと、人の集まる食堂や茶店で、声を大にして語り聞かせるのだ。
この効果は絶大で、いつしか家康の耳にも入り、柳生宗矩に武蔵と試合をする様に命じたと言われて居る。
しかしこれは実現しなかった。
宗矩が言葉巧みに家康を説き伏せたのだ。
話しの真相は解らないが、家康を説き伏せて、試合を断った宗矩の才も流石である。
武蔵は自分の宣伝の効果を、挑戦を挑んで来る兵法者の数で感じて居た。
挑戦者と一々試合をする訳にはいかない。
名も無き者と試合をする利など、何一つ無いのだ。それは有名人と試合をして、その時に勝って来たから今日の自分が有るのだ。そのことは武蔵自身が一番解って居た。
しかし、全ての挑戦を理由も無く断ることは出来ない。そんな事をすれば、相手は武蔵が臆したと吹聴するに決まって居る。
自分であれば、その様にするであろうし、今までそうやって来たのだ。
「名前が売れてからの方が、しんどいのう」
武蔵は独りで呟いて居た。
武蔵は考えた。考えた末に出した武蔵の策はこうだ。何度かに一度、これは必ず勝てると見切った相手を選び、その試合は受ける事にしたのだ。
武蔵の見切りには、間違いがない。
選んだ相手との試合では、圧倒的な強さを見せ付けて、そして圧勝する。
勿論、試合は真剣勝負だ。負ければ命を落とす事に成る。
何度かに一度は試合を受けるから、武蔵は臆したと言われる事は無かった。
しかし選んで試合をしても、その数はかなりなものに成った。
全てに勝利し、武蔵は江戸の町を暫らく離れる事にした。
「いくら俺でも一ヵ所に滞在するのはキツイことだ。所在を明かすのはしんどい。狙われる者より、狙う者の方が強いのが道理。暫らく江戸から離れた方が良いだろう」
自分が広めた宣伝と、圧倒的な勝利の効果は大きかった。武蔵はいつしか天下無双と噂される様に成って居た。
武蔵は江戸を離れると、当初からの計画通り、北陸方面へ向かう事にした。
武蔵は大男である。この時代、身体が大きいと言うだけで、生きて行く上で、有利なのである。兵法を志すのなら尚更だ。
しかし、今の武蔵にとって身体の大きさは危険なのである、目立ち過ぎるのだ。
現代と違い、この時代に写真など無い。
情報は人から人へと広がる。武蔵を知る者は、必ず人に話す時に、身体の特徴を語るのだ。武蔵の噂が広がると共に、武蔵が大男であると言う事も広がるのだ。
もし武蔵を狙う者が居たとすれば、武蔵を見付ける事は簡単なのだ。
大男故に相手は怯む。此奴には勝ち目は無いと思わせる事は有利になる。結果、余計な闘いは避けられる。
しかし、それを差引いたとしても、今の武蔵には、大きな身体は不利に働くだろう。
江戸に居る間に、武蔵は逢いたいと思う兵法者が1人だけ居た。
しかし逢いには行かなかった。
小野派一刀流の流祖、小野次郎衛門だ。
何度も訪ねてみようかと考えたが、足が向かなかった。
この日の本で、一番の手練れだと武蔵は思って居る。達人は達人を知る。
武蔵は自分より、小野次郎衛門の方が、一段上だろうと考えて居た。
「やはり江戸を離れる前に、尋ねておくべきであったか・・・しかし・・・」
武蔵は小野次郎衛門が怖かったのだ。
確実に自分より強い男と逢うのが怖かったのだ。臆して居たのだ。
逢ってはみたいが、足が向かわなかった理由はそれである。
もし、自分よりも確実に強い男が、いきなり斬り掛って来たら、自分は死ぬのだ。
小野次郎衛門程の剣豪が、自分を訪ねて来た者に、いきなり斬り掛ると言う無礼をする筈はない。
そう頭では解って居ても、身体の方が言う事を聴かなかったのだ。
獣が格上の相手に近寄らないのと同じだ、武蔵の獣の部分が次郎衛門に近寄らせなかったのだ。
「いや、自分の剣技がもう少し上ったと確信してから逢いに行こう・・・」
武蔵は自分の気持ちに答えを出した。
天下無双などと呼ばれて居るが、それは自作の宣伝効果のおかげだ。自分よりも強い相手は他にも必ず居るだろう。
確実に次郎衛門がそうであるし、世の中は広いのだ。
柳生兵庫助も強い男ではあったが、自分よりは格下である。
今でも本気で戦えば、武蔵の方が強いと思って居る。
居そうも無い兵法者は居るだろう、いや、居るはずだ。いつかは自分も斬られて死ぬのかも知れない・・・
それは今日かも知れず、明日かも知れないのだ。
兵法者の旅とは、そう言う危なっかしいものなのである。
武蔵はそう考えて、少し恐くなった。
思わず何度も後ろを振り返った。
しかし誰も居なかった。