すれ違い
(はあ……可愛い。ええ、可愛すぎますわ)
ある日、スカーレットは庭の椅子に腰掛けて、犬と遊んでいるギルバートの姿を眺めていた。
(もちろん犬も可愛いのですけれど、ギルバートは別格ですわね。控えめに言って天使というか…)
スカーレットのギルバートへの弟愛というと、恐ろしいことに日に日に増していく一方だった。
あのクッキーの件から大人しくしていたスカーレットは、特に何も問題を起こすことなく半年を過ごしていた。
時々すれ違うことはあったけれど、それも小さな喧嘩程度(スカーレットは喧嘩だと思っていない)である。
(この世に写真というものがなくて残念ですわ。前世では“カメラ”という目に見たものをそのまま写し出して、一生残せる魔法のような道具がありましたのに…
カメラの構造についてもっと学んでおくべきでした、まだまだ勉強不足ですわね)
9歳になったギルバートは、無邪気で可愛らしい少年だった。
しかも使用人から聞いた話によると、物覚えが良く優秀らしい。
(よく出来た弟なことで…まあ、完璧じゃなくてもそれはそれで物凄く愛らしいのだけれど)
ダンスの練習はもう少し大きくなってからだけれど、ギルバートはきっとダンスが上手だろう。社交界の場に出た姿を想像するとその天使さand紳士さに耐えきれず、「ゔぅーっ」と頭を抱えながら淑女とは思えない声を漏らす。
(でもやっぱりどこか、距離がありますわね。仲良くしたいのですけれど……姉としてもう少し親しく話しかけたほうが良いでしょうか)
そう思ってスカーレットは立ち上がると、ギルバートの元へと歩み寄った。
「今日は良い天気ですわね、風も気持ち良いことで」
「姉上っ…!」
ギルバートが振り返る。姉上、と呼ぶ弟はなんだかいつもより顔が綻んでいた気がした。あまりの可愛さににやけてしまいそうなのを必死に堪える。
「あ、貴方は楽しそうに遊びますのね。わたくしもご一緒して宜しくて?」
姉上と呼んでいても、スカーレットのことを姉と認知しているのかすら怪しい。それくらいギルバートとスカーレットが接することは少なかった。
なんて口を開くだろうかと緊張するけれど、そんな心配は余所にギルバートは「いいよ」と笑う。
それからは暫くの間、ギルバートと共に犬と遊んでいた。
中身は大人だから走り回って遊ぶことが馬鹿らしくも思えたけど、まるで本当に子供になったかのような気分だった。
無邪気に笑うギルバートを見ていると幸せに感じる、なんとも楽しい時間を過ごした。
「あっ…」
公爵家の庭で飼っているが、犬の飼い主は庭師だ。
庭師の姿を見つけた犬はそちらへと駆けていってしまった。
「あら、行ってしまいましたわね」
(そっ、それにしても、疲れましたわ……
ギルバートはどうしてそんなに元気ですのっ?)
普段は部屋に引きこもっていたスカーレットは、全くと言っていいほど体力がなく、疲れ切っていた。
「そろそろ戻りましょう」というスカーレットの言葉にギルバートが頷いて、二人は屋敷に戻るために広い庭を歩く。
ギルバートが公爵家に来てから、まともに話したことがないものだから、少し緊張気味にスカーレットは口を開く。
「使用人からお聞きしましたわ。最近は家庭教師を雇って勉強をしていると…貴方はとても優秀なのだそうですわね」
「そ、そうかな?」
スカーレットの言葉にギルバートはふいと顔を背けた。褒められることに慣れてないのだろうか。
「…でも、学ぶことは楽しいかな。知ってることが増えていくと、世界が広がっていく気がして」
「素敵ですわね」
そう言うと、ギルバートは顔をスカーレットを見上げ、少し照れくさそうに微笑んだ。
(………あ。)
まるで何かが胸の奥で弾けたようで。
あまりの眩しさに目がくらみ、スカーレットは目を細めた。
「でも姉上には適わないな。侍女から聞いたよ、勉強得意なんでしょ?」
「どちらかといえば…得意ではあるかもしれませんわね」
それは、前世の記憶を持っているからなのだけれど。
そう言える訳もなく、スカーレットは「わたしくに出来ないことはないですもの」と得意気に言った。
あの炭のようなクッキーを作った人とは到底思えない言葉である。
「姉上は…」
「なんですの?」
「…ううん、何でもない」
「意地が悪いですわね、余計気になって仕方がなくてよ」
そんなことを話しながらふと顔を上げると、空には薄らと虹が浮かんでいた。
「まあ、ギルバート、空に小さな虹が架かってますわ」
「え、どこに____わっ!」
ばちゃん!
虹を探すことに気を取られたギルバートは、足元が疎かになりバランスを崩す。
そして見事に噴水の中に突っ込んだのだった。
「ぎ、ギルバート!?だだだだ大丈夫ですの!!?」
噴水は浅いため溺れる心配はなく、噴水の中で座り込んでしまったものの水に浸ったのは腹から下だけだった。
だけど噴水とは水が上から噴いてくるもので、頭から全身びしょ濡れになる。
「お坊ちゃま、お嬢さまー!」
丁度その時、異変に気づいた侍女が飛んできた。
「何があったのですか!?っ早く拭くものを…!」
「ギギギルバート、どどどどどっ、どーしましょう…
寒くは、寒くはありませんっ!?」
「どっ、あっ、だ、大丈夫……」
誰よりもパニックを起こしたスカーレットにつられて、ギルバートも慌てて答える。
その後ギルバートは、使用人によって無事救出された。
「ご、ごめんなさい、わたくしが気を取らせてしまったせいで…」
ギルバートは侍女にタオルで髪を拭われながら、秘かに姉を見ていた。
その姉を見る碧色の、横目がいつもより少し冷めていたことに、誰も気づくことはなく。
_____ 空の虹は消えていた。