天使が舞い降りました
…と、いうのは、前世のお話でして。
「おはようございます、お嬢様」
「ん、おはよう」
公爵令嬢に生まれ変わった彼女は、悲しい過去の記憶を持っていた。
彼女の名は、スカーレット・ロランド。
名前こそは同じだったが、彼女の新たな人生は全く違ったものだった。
生まれた家はもちろん、髪も瞳の色も違う。
前世では艶のある黒髪ストレートに深い紫眼だったが、今世は癖のあるふわふわの白銀色の髪に秘色の瞳。
前世を思い出したのは5歳の時、だけど前世の記憶はあまり彼女には影響を及ぼさなかった。
まるでそれは自分というより、物語に出てくる悲しい令嬢のようであったから。
(それに未練なんてないわ。どうでもいい人生だったもの)
そんなスカーレットが10歳となったある日、転機が訪れた。
「本当に弟が来ますの…?」
「ええ、お嬢様の弟ですよ」
前世でのスカーレットには母も父もいなかった。兄弟なんてもちろん、幼い時から孤独な人生を送っていた。
だが今は母も父も健全であるし、しかも突然スカーレットの弟だという者がロランド家にやって来たのだ。
義弟ではなく、血の繋がった腹違いの弟だった。
(腹違いってことは、まさか浮気を…?
いやでも、そんなはずはありませんわ。お母さまもお父さまも恋愛結婚ですもの)
前世の記憶を持っていたとはいえ、そんなことを悶々と考えている10歳の令嬢。
(正直弟なんていりませんわ。何をしでかすかわからないですもの。せめて兄か姉が良かった。本当に面倒で____ )
「ギルバートです」
(………かっ、かわいい!)
孤独だったスカーレットにとって、兄弟とは無縁な存在だった。そんなスカーレットの前に現れたのは天使のような弟で。
ギルバートという弟は当時8歳だった。
年齢的には2歳、学年的には1歳年下になる。スカーレットにとって、ギルバートは欠けることのできない存在となってしまった。その時のスカーレットは、
「スカーレットですわ。どうかお姉ちゃん、と」
そうギルバートに微笑んだのだった。
だが前世で人と関わることが少なかったがため、スカーレットに姉は向いていなかった。
まず最初の失態は、ギルバートの9歳の誕生日。
「わああああ!!!」
その日は早朝から、ギルバートの叫び声が屋敷中に響いた。
その声に慌てて使用人たちが飛んでくる。
(……あら、お気に召さなかったのかしら)
ギルバートの前には、箱を手に持つスカーレットの姿があった。
その箱は勿論ギルバートへの誕生日プレゼントだ。
だけど周りはそうとは思えないようで、
「あ、あねうえ、それは………」
ギルバートは姉の持つ箱を指さし問う。
「……?トカゲですわよ?」
スカーレットは不思議そうに首を傾げた。
駆けつけた侍女もその様子を見ると、スカーレットを叱る。
「お嬢様!屋敷の中にトカゲを持ち込んではいけません!」
「でも、今日はギルバートの誕生日ですのよ?」
きょとん、と、不思議そうに首を傾げるスカーレットだった。
「誕生日だからって関係ありません!お嬢様はもうお姉様なのですから、弟を虐めるのはやめて下さいませ」
「え?虐めてなんて…」
(男の子は虫が好きなんじゃないんですの?)
そう、スカーレットの感覚はぶっ飛んでいた。
男の子は虫が好き。そんな偏見によって、ギルバートが喜ぶと思ってのことだった。
次の失態はそれから1ヶ月ほどが経ってのこと。
「ギルバート様は甘いお菓子が好きみたいですよ」
「そうなんですか?まあ、お可愛いことで…」
そんな会話を偶然、廊下で耳にしたスカーレット。
(そうなんですの!?甘いお菓子…)
それをギルバートにあげたら喜ぶだろうか。
(誕生日のときは失敗しましたし。今度こそ___)
そう思って、スカーレットは料理人の所を訪ねたのだ。
「失礼。甘いお菓子を作りたいのだけれど」
「おっお嬢様!?」
突然訪ねてきたスカーレットに驚いて、料理人は思わず手を滑らす。滑り落ちた皿が寸前のところで反射神経抜群の他の料理人によって掴まれ、間一髪だった。
「おっお菓子ですか?今からお作りするので少々…」
「いえ、わたくしが作りたいのですわ」
「お嬢様にそんなこと…!我々どもがお作りしますので!」
「いやわたくしが…」
「そんなことお嬢様にさせられません!いつでも言って下されば作って差し上げますので!!」
スカーレットは公爵家の娘なのだ。必死に止める料理人たちの気持ちがわからなくないこともない。
何かあってからはでは遅いのだ。公爵令嬢を厨房に立たせたなどいうことがあれば、解職になりかねない。
(わかりきったことではありましたけれど…できれば、一緒に作りたかったですわ。料理人たちと一緒だとさぞ美味しく仕上がることでしょうし)
そう思いながらも、
「残念ですわ…それではまた」
とその場を去ったのだった。
それからは図書館に籠り、お菓子の作り方についての本を漁ることになった。
(なるほど、初心者には、クッキーが作りやすくて良いのですわね…)
地理や歴史の勉強など忘れて、一週間まるまるお菓子作りについて調べていた。
(そうですわね、クッキーも十分甘いお菓子だと思いますし、変に難しいのに挑戦して失敗するよりは…ええ、そうね、クッキーにしましょう!)
スカーレットは誰かに相談することなくお菓子作りを始めた。公爵令嬢だからだと、反対されるのが嫌だったからだ。
だから夜遅くにこっそりと調理室に忍び込むと、本を読みながら必死になって作った。
(よし!出来ましたわ…)
結局完成した頃には、夜が明けていた。
そろそろ朝食の時間なのでギルバートの部屋に行くのはやめ、使った道具を洗うのも忘れたままクッキーをのせた皿を持ってダイニングまで走った。
(どうしましょう、喜んでくれるかしら…)
「姉上?」
いち早く来たのは弟だった。眠たそうな目を擦っている。
「ギルバートっ!」
お母様とお父様はまだなのだろう、その場にはギルバートと付き添いの侍女だけだった。
「ギルバート、待ってましたわ!これ、これを食べて欲しいですの」
スカーレットが差し出したクッキーを見て、侍女は「え」と声を漏らす。ギルバートまでが青ざめていることに気づいていなかった。
スカーレットが作ったクッキーはもはや、焦げているどころではなく、クッキーではなかった。まるで炭のよう。
「お嬢様!そのようなものを食べさすだなんて…」
「…?どうして?さ、はやく、食べて頂戴!」
自慢げに言うスカーレットは気づいていなかった、侍女とギルバートが、何かわからない…もはや食べ物かどうかも怪しい炭のような物体をおぞましく見ていることに。
「姉上…それは、何ですか…?」
「クッキーよ」
クッキーだと知ると余計背筋がゾッとする。
だけどギルバートは侍女が止めるのも聞かず、恐る恐るクッキーだという炭のような物体に手を伸ばした。
僕が食べれば姉上は満足する、このようの地獄の瞬間は終わる…と。
ちなみに味はというと。
「うっ、こほっ!」
どうやら激マズだったようで、ギルバートは盛大にむせた。
慌てて侍女が背中を撫でながら水を飲ませる。
「だっ大丈夫ですの!?お味は…」
「…姉上、どうしてこんな酷いことするの?」
顔をあげたギルバートに、スカーレットはきょとんとする。
「酷いことって…」
「そうですよお嬢様、こんなのあんまりです!」
突然声を荒らげた侍女にスカーレットはびくりと肩を揺らした。
「公爵と夫人には伝えておきます!」
(どうして?わたくし、一所懸命作りましたのに)
悲しそうなギルバートの碧い瞳を見て、スカーレットはしゅんと肩を落とした。
「わ、わたくし、お腹が空いてなくてでしてよ…」
ぽつり、とそう残すと、スカーレットは食事をとらずに部屋へと戻った。