「老人と鏡」
ボートは信じられないくらいゆっくりと進んでいる。
周りに生い茂っている水草が僅かずつ後ろに流れていくのを見て、俺はこのボートが進んでいる事を理解している。
もし、周りに何も無かったら俺は無限の白い闇と同化してしまったと勘違いしてしまうだろう。
この空間では風が吹くことも無く、何かの匂いが漂ってくる事も無く、ただただ淡々とゆっくりと水の上を進んでいく。
どれ位の時間が経ったのだろう。
この空間では時間を示す灯や、虫や鳥の声など何も聞こえない。
俺は小さく、浅く溜息を吐いた。
それはこの永遠とも思える白い闇に微かに抵抗する様に、小さく吐いた。
すると乗っていたボートはたちまち右へ左へと揺れ始め、男は両手でボートの端を持ってバランスを取り、揺れが収まるのを慎重に待つ他無かった。
しばらく我慢して、その揺れに合わせてじっとしていると、徐々に揺れは小さくなって行き、やがて元の静かにゆっくりと進んでいく形に戻っていった。
俺は微かな変化でもこのボートから揺り落とされかねない、微弱な人間だ。
そしてボートから落ちてしまえば、奈落の底へと引きずりこまれてしまうだろう。
俺は集中してじっとしている他無かった。
目線だけは微かに、右に左に移せるのでゆっくりと後ろへ進んでいく水草の変化だけを見て自分がまだ「時間」という流れの中に生きている事を実感していた。
ずっと先には目指す場所がある。
それは澪つくしが示してくれている。
微かに、光り輝きながら美しく発光して俺の道を示してくれているようだ。
しかし、このままでたどり着くだろうか。
ただ、待っている。
しがみついているだけで先へと進むことなど、自分の望んだ所へなど行けるものなのか。
そんな幸運を待っているだけで、もし俺が何もせずにこのまま朽ちて行ってしまったら。
何かを掴む為には自ら進まなくてはならない。
俺は慎重に右に緩やかに流れていく水草に手を伸ばしてみる。
するとボートは右へゆっくりと傾き、転覆の意思を俺に示しているようだった。
俺が何か動けば当然だが俺の周りも変化する。
次に俺は、右手を水草に伸ばすと同時に腰をひねり、重心を左に傾けバランスが崩れない様に試してみた。
すると、微かにボートは左右に揺れるが、その重心はしっかりと真ん中へと集まっている様だった。
これなら転覆の心配は無さそうだ。しかし水草には微かに右手の中指が掠る位でつかめそうに無い。
俺はその後、何度も重心を動かさずに、右手をどれだけ遠くまで伸ばせるかを繰り返し繰り返し試した。
そして数え切れないくらい試行錯誤を繰り返した時、左足を殆ど伸ばす形で右手を思いっきり伸ばした所でようやく俺は水草を掴むことが出来た。
そして握ったその手を離さない様に、慎重に右手を折り曲げ、ボートを水草の方へ手繰り寄せる様にして移動させた。
そして俺はゆっくりと掴んだ水草を後ろへ押しやってボートの進むスピードを少しずつあげていった。
バランスが崩れない様に、始めはゆっくりと慎重に、少しずつ力を加えて俺の右手をボートの推進力へと変えていった。
どの位の時間そうしただろう。
ボートを進めるにつれて俺の右手の筋肉は徐々に疲労していき、少し水草を掴んで休んでは、またボートを進めていった。
相変わらず景色は変わらない。
どこまでも続く白い霧と、微かに見える水草の影、そしてゆっくりと波打つ水面と遠い先で輝く澪つくし。
俺は無心でボートを進めた。
そうしていないと俺はただ無限の白い闇に包まれるか、朽ち果てるだけだ。
たった1つの行動だけが、俺の右手を行使する力となっていた。
俺には進む事しか出来ない。
かつてやっていた様に、誰かと話して笑ったり、何かの情報を得る為にその情報源にアクセスしたりする事は出来ない。
俺はそれらの事を失ってしまったのだ。
俺には、自分の手で進む事が出来る、という一種の自信の様なモノのみを頼りに行動するしか無かった。
何度も休憩を繰り返し、ゆっくりと自分の手で水の上を滑る様に進んでいた時、視界の中に今まで無かった違和感が現れた。
今までは水草やその先の「光」しか俺の視界は捉えていなかったが、10メートル程先に水草シルエットの間に、人型の様な影が忽然と現れた。
俺は水草を掴んでボートを止めた。
あれは一体何だろうか。
突然の違和感は俺の行動を止め、思考する事を要求していた。
このまま進んでいいのだろうか。
あの影によってもしかしたらこのボートは転覆させられてしまうのではないか。
そしたら俺は水の奥底に沈み、暗く冷たい水の中で永遠に存在しなくなってしまうのでは無いか。
新しい思考は恐怖を連想させていた。
もしも、良くない事が起こったら。。
いっその事引き返そうか。
しかし、引き返した所で何も無いじゃ無いか。
俺は随分と長い間ボートを進めてきたんだ。
もしも、俺のこのちっぽけな行動が水の泡になってしまったら。
恐怖は人の行動を押し戻そうとする。
何も無いところへ戻って、また延々と同じ事を繰り返すか。
それとも、新しいモノと出会うか。
俺は随分長い事考えた末にゆっくりと、慎重にその影へと進んで行くことに決めた。
1度全てを失ったんだ。
目指す「光」は見えている。
選択肢は、逃げるか、立ち向かうか、だ。
もう逃げた所で何も無いのは分かっている。
もし、先にあるものが不幸を呼んだとしても俺は立ち向かって行こう。
沈んだら俺はそれまでのモノだったんだ。そう、納得できるだろう。
もし逃げて俺が消滅してしまったとしたら、きっと何故あの時立ち向かわなかったんだろうと考える。
そんな思いをしながら朽ちるよりも、自分で戦った結果朽ちた方が良い。
恐怖を押しやるとゆっくりと水草を後ろへ押しながら、ボートを進めた。
近くに行くとその影の正体が見えてくる。
それは、ただ立っている老人だった。
右手に杖を持っているが背筋は伸び、髪は全て銀色に生えていて、同じ色の髭が口周りからアゴにかけて生えていて、アゴから伸びた髭は老人の喉元まで伸びいている。そして、深く刻まれた皺の中にある眼光が鋭くただ一点をじっと見つめたまま立っている。
俺はその姿を確認してからもゆっくりとボートを彼へと進めて行き、やがて彼の目の前、距離にしてほんの数メートルの所までボートを進めた。
彼は水草の間に現れた地面に立っている。
俺には構うことなくただじっと一点を見つめている様だ。
俺は謎の影の正体が自分よりも弱そうな老人であったことに少し安堵した。
俺はしばらくその老人の前にボートを着けていたが、しばらく待っても何も変化が無いので何かここの情報を持っていないか聞いてみることにした。
「あの、すみません」
俺は随分久しぶりに声を出したので、始めは掠れてしまい、何度か声を出し直さなければならなかった。
「あの、ここは一体なんなのですか?俺は随分前からここにきてしまって、困っているんです」
そう、俺が問いかけても老人は反応せず、じっと立っている。
俺は何度か老人に問うてみたが何の変化もない事に少しイライラしてきた。
「こっちが話しかけてるんだからなんとか答えてくださいよ」
老人は変わらない。
俺はその老人とのコンタクトを諦めかけ、目線を先へと向けると、そこには水路が二手に分かれる分岐点となっている事に気が付いた。
俺が進むべき道はどっちなんだろう。
どちらを見やっても同じように白い霧が深く立ち込めており、ただ水路が二手に分かれているという情報しか俺には得ることが出来なかった。
「あの、この先の道はどっちに行ったらいいんでしょうか?俺はあのずっと先に見えて入り光の方へと行きたいんですけど俺にはどうやっていいのかわからなくて。もし知っていたら教えてくれませんか?」
そう、俺が老人に問うと始めて反応を見せて俺の方へ深い皺に刻まれた目を俺に向け、静かに答えた。
「わしには貴様がどの様な道を辿るべきか等知らん」
老人はしわがれているが、よく通る強い口調で答えた。
俺は、その答えを聞いて何だか見放された様な気持ちになり、俺の中から力が抜けていくように感じた。
俺はしばらくそうして、軽い失意の元でボートで佇んでいた。
すると、老人は俺に視線を落としたまま、変わらない、強い口調で話し始めた。
「人間万事塞翁が馬じゃ。お前がまだ人間の心を忘れていなければの話じゃがの。」
「人間万事。。?どういう事ですか?」
俺はイマイチ意味がわからなくて老人を見上げたまま問い返した。
老人は俺の目を一時も逸らさない。
「何でも貴様の心の持ち様で悪くたって良くなる様になるという事だ。
貴様は自分で選ばなければならない。それも自信を持ってな。
そうでなければ、貴様は永遠に自らが望む場所には行けないだろう。
貴様の道は貴様以外誰にも決められない。
そして進んだ先にはまたいくつもの分岐や決めなくてはならない事があるんじゃ。
貴様はそれを自分で考えてはっきりと進んで行かなくてはならないんじゃ。
もっとも、ずっとこの場所で漂っていたいのなら話は別じゃがな」
「いや、俺には向かうべき場所があります。ここにずっといる訳には行けないんです」
「そうか、それならば貴様が自分で決めて進めば良い。
どんな事があっても前を向いていればきっとどこかに辿りつくじゃろう。
答えは後からついてくるものじゃ。
始めから安全な様に行動できるのは子供だけじゃ。
貴様の道は貴様で作り出せ」
俺は老人の目をじっと見ながら聞いていた。
すると老人は右手に持っていた杖で俺のボートを突き飛ばし、水路の真ん中へと放り出してしまった。
「ここであったのも何かの縁じゃ。
きっかけは作ってやったぞ。
後は貴様が思う方向へ体を向ければいい。」
俺はいきなり動き出したボートに慌ててしがみつき、バランスを崩さない様に重心を真ん中へと集めた。
「そうじゃ、貴様が出来ることなど限られておる。
その中で一番良い方法を常に考えて行動することじゃ」
俺はやっとボートのバランスを立て直し、文句の1つでも言ってやろうと老人の方へ向いた時、何かが俺の胸へと飛び込んできた。
「それはワシからの餞別じゃ。
常にそれは貴様と世界を写し出している。
さぁ行け、若者よ」
俺は胸に投げ込まれたモノを見た。
それは俺の顔のふた回り程の大きさの鏡だった。
そして、もう一度老人の方へ視線を向けるとそこには水草以外何も無く、さっきまでそこにいた老人の気配すらも感じさせられなかった。
俺の目の前には左右に分かれる分岐が迫ってきている。
俺は胸に鏡を抱えながら、どちらへ行くべきか考えながら、その分岐と向き合っていた。