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江戸への送致

「では、行って参ります。」


 松陰はそう告げ、罪人を運ぶ駕籠に乗り込み、萩の町を発った。

 彼を見送る者達の表情は複雑である。

 涼しい顔で駕籠に乗り込む彼を前に、不安を口にする事も出来ず、作った笑顔で送り出す事しか出来なかった。

 家族が久しぶりに異国より帰って来たというのに、再会を祝う時間も十分ではないまま、こうして直ぐに江戸へ行ってしまう。

 松陰の身柄を江戸へ送る意図は理解出来たが、幕府の取調べがそこまで甘いのかとの懸念が完全には払拭出来ない。

 どうか無事に、との思いを胸に、次第に遠ざかる松陰が乗った駕籠を、どこまでも見つめ続けた。


 


 「きつくないっぺか?」


 山道に入り人目が途絶えた途端、東湖が心配そうな顔で松陰に尋ねた。

 日本中に名を轟かせる計画の為とはいえ、異国の地で苦楽を共にした仲間を、罪人を運ぶ粗末な駕籠に入れて移送している。

 頭ではわかっているが、熱血漢の東湖の心をざわつかせるには十分であった。


 「ご心配なく。座布団がありますし、快適でございますよ。自分で歩かないで良い分、寧ろ心苦しいくらいです。」


 罪人を送致する駕籠は普通の駕籠とは違い、旅の快適性など考慮されてはいない。

 大人には狭く、圧迫されている様に感じるその中も、松陰にはまだ余裕があり、東湖が心配する程には感じなかった。

 それもあり、松陰はあっけらかんと答えたが、駕籠に乗り込んでから考えていたのは別の事だ。


 蚊取り線香製造の為、エドワードに頼んでいたシロバナムシヨケギクの種子は父百合之助に渡している。

 地中海が原産であるので高温多雨の台湾での栽培は諦め、瀬戸内地方での生産を目指すのだが、今はその種子を増やす段階だ。

 固形石鹸に必要なトロナ石とその製造法は長に伝えた。

 念願の固形石鹸への挑戦に、長を始め集落の一同はやる気に満ちていた。

 彼らであれば間もなく成功するだろう。

 牛痘は清風にも渡してある。

 長州藩医は蘭学にも通じているので、そこまで抵抗もなく普及していくはず。

 経口補水液は高価な砂糖がネックではあるが、効果があるのかはっきりしない既存の薬に比べれば安価である。

 体力の少ない高齢者、子供の命を奪うコレラの犠牲者を出さない為にも、石灰を使った殺菌剤と共に知識が広がるのを願う。

 この様な段階で江戸に行かねばならないのは心苦しいが、広めなければならない知識は長州だけではないので、この機会を十分に活かそうと心に誓った。


 一行は山あいの街道を粛々と進む。

 見聞きした事を大々的に広めるつもりなので、大きな町では時間を取られる。

 人のいない間は、出来るだけ距離を稼ごうという事だ。 


 初舞台に選んだ山口の町で紙芝居の披露をし、松陰は確かな手応えを得た。

 梅太郎が描き、千代が物語を練った紙芝居は、臨場感をもって見る者の心に迫る出来であった。

 海舟が旅人に扮し、事前に街道沿いの村々に噂を流していた事も影響していよう。

 お祭り好きな人々は、こういう予想外のイベントには目が無い。

 噂が噂を呼び、街道には多くの人々が、異国を旅したという少年を見物する為、詰め掛けていた。

 そこで繰り広げられた、絵本による冒険活劇。

 集まった人々は皆盛り上がり、イギリスの横暴に怒り、清国の体たらくに失望し、艦隊による派手な砲撃戦に固唾を呑んだ。  

 

 


 一行は鋳銭司すぜんじへと着いた。

 この地は村田蔵六の故郷であり、彼からの手紙を彼の父母へ手渡す目的があった。

 蔵六は今回帰国していない。

 残った薩摩の忠蔵ら、そして第二陣として台湾に来た二百名、彼らが鍛えた台湾兵と共に、軍師として中国大陸を駆けている最中である。

 松陰が渡せば目立つので、手紙自体は海舟が事前に届けている。 


 「大事なご子息を巻き込んでしまい、誠に申し訳ありません!」


 まず松陰は、駕籠の中で深く頭を下げた。

 表向きは蔵六も亡くなった事になっている。

 松陰にとっては英雄(現在既に着々と英雄に近づきつつある)であるが、蔵六の両親にとっては大事な息子であり、村に必要な医者の跡取りでもある。

 それなのに、傍目には気が違っているとしか思えない計画に巻き込み、あろう事か巻き込まれた者を残し、巻き込んだ方だけが帰って来たのだ。

 どの様な申し開きが出来ようか。


 蔵六の両親には、医師としての見識を広める為、萩で研鑽しているとばかり思っていた息子が、よもや異国に渡っていたとは思いもかけない事であった。

 しかも村医の倅が、まさか軍師の真似事をしているとは夢にも思わない。

 三年前に一度だけ手紙を受け取ったが、そこには様々な知識を学んでいる最中だと書かれているだけだった。

 今にして思えば、息子の言う様々な知識とは、医師に必要な知識だとは書かれていなかったな、と思い返す。

 それに、多くの人に必要とされ、持っている力を発揮しているらしい現状は、男として恵まれた事なのかもしれない。

 それがたとえ、命を救う医者とは真逆の、人を殺める戦での働きであったとしても。


 「どうかお顔を上げて下さい。愚息が人々のお役に立てたのなら、親として誇らしい事でございます……」


 蔵六の両親にしてみれば、数年ぶりの息子からの手紙で、異国の地で、国の独立を守る為の兵の軍師役をやってると言われても、そもそも想像がつかないし、実感が湧かない。

 松陰を罵倒する気にはなれず、恨み言を述べる事も思いつかず、しかし生きている事を明るみにする事もはばかれ、戸惑う事しか出来なかった。


 松陰一行は粛々と進む。




 大坂瓦町、適塾。

 緒方洪庵の開いた蘭学塾である適塾は、洪庵の人柄、蘭学に対する知識、見識、扱われる学問の高度さから入門者が絶えず、日々熱い講義が行われていた。

 そんなある日の講義の合間、


 「洪庵先生! 阿片戦争をその目で見てきた長州藩士が、この大坂を通って江戸へ送致されるらしいですよ!」

 「それは本当ですか?!」

 「はい! 神戸から来た商人から聞きました。そしてこれが、その者が記した書物です。」

 「え? 書物ですか? 随分と手際が良いですね?」

 「先生であれば読まれたがると思い、買ってきました!」

 「いや、それは嬉しいのですが、私が言いたいのはそういう事ではなく……」


 洪庵は最後まで言葉を続ける事が出来なかった。

 塾生達に書物の内容を質問されたからである。

 清国が西洋の国イギリスに負けた情報はオランダからももたらされ、世間も広く知る所であり、塾生の関心も高かった。

 その戦を直接知る者の記したモノとなれば、彼らならずともその内容を知りたいだろう。


 「……まあ、宜しい。では、次はこの『阿片戦争見物記』なるモノを読んでいきましょうか。」

  

 そして洪庵の講義が再開された。

 本の内容はさることながら、文字の読みやすさ、絵を巧みに用いて誰でも理解しやすい工夫に感銘を受けた洪庵は、松陰をその目で確かめようと思い立つ。

 そして知る、大いなる時代の動きを。

 神州に迫る、大国の欲深き蠢きを。

 心より欲する、西洋の進んだ医学の技術と知識を。


 天然痘を防ぐ為の牛痘法を蘭書で知っていた洪庵は、そのワクチンが萩、伊豆にある事を知り、大急ぎでそれを取り寄せた。

 それと共に、松陰の作であり、牛痘を広める為の策である『慈円那ジェンナー之苦労譚』も手に入れ、大いに感動し、それもまた広める事を決意した。

 『慈円那之苦労譚』はこんな内容の本である。

 清国の医師慈円那がある日、牛に発症する天然痘に似た病気である牛痘(人間にも感染するが、瘢痕も残らず軽症で完治する)に罹った者は、以後、天然痘に罹らない事に気づく。

 牛痘を接種すれば天然痘を防げると考え、実験を開始するのだったが、牛の病気をうつせば牛になると噂され、牛のカサブタを皮膚に埋め込む抵抗感もあり、誰もやりたがらない。

 頭を下げて実験への協力を頼むのだが、人は集まらない。

 そんな中、天然痘が再び流行し、多くの者が死んでしまう。

 しかし、牛痘を施した慈円那の家族は無事だった為、徐々に人々に受け入れられていく。

 そしてついに、慈円那の村からは天然痘に罹る者がいなくなったのだった。

   

 日本近代医学の祖が、史実から遡る事5年、念願だった牛痘を手に入れる事となった出来事である。




 「ほう! えげれすと清国との間の戦を、その目で見てきた者とな?」

 「そうでおじゃる。江戸へ送られる途上、この京の都を通る様で、都で噂になっているでおじゃるよ。」

 「なかなか面白そうであるな。」


 煌びやかな衣装を纏った二人の男が、とある部屋の中、茶を飲みながら世間話をしていた。

 その片方である岩倉具視は、巷で話題となっている、江戸へ送致されている最中の長州藩士の事を口にした。

 向かい合う義父、具慶ともやすも、具視の話に興味を持ったらしい。

 近海に出没する様になった異国の船の噂は聞き及んでいたし、清国とイギリスなる国との間で大きな戦が起こった事も知っていたからだ。

 大方の予想に反し、清国が負けたと聞いた時には、腰を抜かさんばかりに驚いたものだ。 

 その戦を見てきた者がいるというなら、国禁を犯した疑いがあろうとも話を聞きたいと思った。 

 そんな義父の様子に具視はにんまりする。

 

 「皇太子殿下は、特に興味を持たれると思うのでおじゃるが……」


 と、思わせぶりな表情で言う。

 最近、ポテチなるお菓子や石鹸なる物を京の都で売り出し、オセロなどという変わった名前の遊びを編み出し道具を売り出し、岩倉家の台所事情を大いに助けている、養子の具視。

 長州で金儲けの種を仕入れ、京に戻っては金を稼ぎ、岩倉の家を支援してくれている。

 そんな具視がこんな事を言い出すとすれば、何か考えがあるのだろう。

 そう頭を巡らせた具慶であったが、それはそう簡単な事ではない。

  

 「……ふむ、なる程。確かに皇太子殿下は、異国への危機感を大層お持ちのお方ではあるな。しかし、その者は、国禁を犯した罪人であろう? その様な者を、やんごとなきお方の前においそれとは連れて来る訳にはいかぬぞ?」 

 

 どうするのだ? という表情で義理の息子を見つめた。

 

 「何も直接会う必要はないのでおじゃる。その者は道すがら、異国の話を人々に聞かせているらしいでおじゃる。偶々烏丸通りででも話をしている所に、偶々殿下が通りかかり、偶々聞こえてくるだけでおじゃる。」

 「なる程、偶々じゃな。」

 「そう、偶々でおじゃる。」

 

 そう言い、具視は懐から包を取り出し、義父に渡した。

 具慶はその中身ににんまりとする。


 「関白様なら、もろもろを任せて大丈夫でおじゃろう?」

 「これだけあれば問題なかろう。」

 

 お互い含み笑いを交わし、冷えてしまった湯呑みの茶を飲んだ。


 史実において、かたくなな西洋アレルギーから幕府の迷走を招き、自身は佐幕派でありながら、江戸幕府に終止符を打つ遠因ともなった、後の孝明天皇。

 幕末の最重要キーマンと言える存在は、松陰より僅か一つだけ若い、若干13歳の皇太子の身であった。

 そして、自分と同じ年頃の松陰を知る事となる。


 


 「何だ、ありゃあ?!」


 湖で漁をしていた男がその口をあんぐりと広げ、もらした。

 その視界には、船の中央に立った柱から白い煙を吐き、静かに湖面を進む船らしき姿がある。

 かいも見えず、ましてや帆すら無いのにひとりでに進む一艘の船。

 男は、魚のつまった網をひっぱり揚げる事も忘れ、その船が進んでいくのをただ眺めた。 


 「うーん、今日は絶好の航海日和だねぇ。」

 「海舟様、船酔いは大丈夫?」

 「波の無い湖だぜぇ、問題ねぇよ。それに、テメーで操舵してると酔わねぇから、不思議なモンだなぁ……」


 船の上には一組の男女の姿があった。

 海舟とスズである。

 一足先に、一貫斎の蒸気船(試作)で琵琶湖を移動していた。 

 平蔵が己の船で曳き、日本海を北上し、若狭で陸に揚げ、湖へと運んでもらっていた。 

 琵琶湖で海舟が貰い受け、彦根へと向かう。

 一貫斎の遺作である蒸気船を、国友の衆に見せようという計らいである。


 「みんな、驚いてくれるかなぁ……」

 「何言ってんでぇ、スズちゃん! あったりめぇじゃねぇか!」 

 「そうだよね!」


 海舟の断言に、スズは満面の笑みで応えた。

 

 「菊姉ちゃん、とう君にも、早く会いたいなぁ。」

 「一貫斎さんが台湾にやって来た時はびっくりしたが、曾孫を抱けてよかったよなぁ。才太さんも、いい仕事をしたもんだぜ!」

 「え? 才太様って何か働いてたっけ?」

 「い、いや、何でもねぇよ!」


 スズの疑問に海舟は慌ててかぶりを振る。

 お菊と才太の愛ある共同作業の結果、生まれてきたのが籐丸だ。

 一貫斎の家では、当主は代々籐兵衛の名を継いできたし、彼の幼名は籐一である。

 大好きな祖父から名前を一字拝借し、名づけた。

 孫娘が婚期を逃してしまう事を心配していた一貫斎は、その相手が庶子とはいえ、彦根藩主井伊家の才太(直弼)な事に大層恐縮していたが、生まれた曾孫は格別に可愛いのか、惜しみない愛情を注いだ。

 一貫斎が亡くなり、彼の位牌を持っての里帰りである。

 そして、お菊が台湾で得た銃に関する新しい知見が、国友の村に広まっていく。

孝明天皇は、幕末を巡る幕府と討幕派の間の騒動の中心人物です。

小説で扱って良い人物なのかは不安ですが、京都の騒乱を防ぐ為には必ず言及せねばならないと思うので、登場していただきます。

とはいえ、直接的な描写は避けたいと思います。


『仁』にも登場した緒方洪庵。

本来であれば大村益次郎が適塾に入り、蘭学を学ぶはずですが、それはなくなってしまいました。

『慈円那之苦労譚』で、牛になる迷信は洪庵自身が直面した苦労です。


才太は、お菊と国友村に行くと流石に騒ぎになるのでどうしましょう?

お菊はまだ才太が井伊直弼と気づいていませんので、彦根城でブラブラしている、という事でお願いします。

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