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帰国した者

その日、萩の港は群集でごった返していた。

 3年前にここから出航し、その年のうちに手紙を寄越したまま、それから何の音沙汰の無かった吉田松陰が、今日、船で帰って来るという噂が流れたのである。

 その噂の出所は誰も知らない。

 しかし、確かな情報だというそれは、瞬く間に萩の町を駆け巡り、人々の足を自然と港に運ばせた。


 その少年は、アヘン戦争をその目で見物に行こうという、大の大人でも躊躇する事を計画実行し、成功させた。

 全てはこの国の未来を心配しての事だという。

 幕府の意向に従い、古い因習に固執しがちな長州藩上級藩士達。

 藩の為を至上命題の様に守ろうとする頭の固い者が多い中、松陰少年はとても遠くを見ている様に感じられた。

 

 国禁を犯せば死罪もありえる。

 それにも係わらず、航海中に遭難した事にするから大丈夫だと、藩の責任を考えて渋る者達に、笑って言いのけたというその少年。

 それだけでも唸るばかりであるのに、かの少年は、何と大陸に住まう民の為、その身を賭して立ち上がったというのだ。

 

 遠い三国志の英傑達がその覇を巡って駆け抜けた、広大な大地である中国大陸。

 呉に属した広東の地で、黄巾の乱の首謀者張角を彷彿とさせる洪秀全なる者に手を貸した、自分達と同じ町で生まれ育った松陰少年。

 萩に住み、松陰少年からの手紙の内容に触れ、選から漏れて残った町の者は皆、御伽噺でしか聞かない様な冒険譚に胸を躍らせ、出発した仲間の活躍と、大陸へと想像を馳せた。

 そして、藩の外には情報が漏れ出ぬよう、密やかに噂したのだった。  


 その吉田松陰が帰って来る。

 一体どんな話が聞けるのかと、人々がざわめき立ったとしても不思議は無い。

 野次馬根性の者、無事な帰還を祝いたくて来た者、志願して参加した家族の安否を知る為に集まる者、この国の未来を考える者、様々な人々の様々な思いが交錯する。 

 そしてついに、松陰少年を乗せていると思われる一艘の船が、萩の沖に姿を現した。

 

 余りに異様なその船の姿に、集まった群集はまず目を疑った。

 何故ならその船は、帆を張らずに進んでいるからである。 

 周りの船は帆を広げ、風を受けて海の上を走っているのだが、その船は違った。

 帆柱より短めの柱が船体中央にあったが、奇妙な事に帆は無く、代わりにその柱からモクモクと白い煙を吐き出しているのだ。

 そんなおかしな船に、集まった群衆がざわめいた。 


 「何なんだい、ありゃあ?」「帆も張ってないのに進んでるぜ?!」「火事を起こしてるんじゃねーのかい?」「天狗じゃ! 天狗の仕業じゃ!」


 見た事も無い光景に、口々に疑問をぶつけ合った。


 「とと様、かか様、もっと前に行きましょう! ここでは船が見えません!」


 一人の少女が隣にいる男女に訴えた。

 言われた二人は互いに顔を見合わせ、どうしたものかと思案する。

 人が多すぎて前に進めそうにはなかったからだ。

 女の背には幼い子が乗っているので、無理はしたくない。

 万事控えめなその男に、人々を掻き分けて前に出る事など思いもよらない。


 「おい! 松陰先生のご両親だぞ! お前等、道を空けてお通ししろ!」


 そんな中、百合之助に気づいた者が群集に向かい、叫んだ。

 人々はすぐに脇にそれ、百合之助らを前に通した。

 謹厳実直な人柄の百合之助の事は、江向明倫館の付属農園に出入りする百姓だけではなく、萩の町人にも知られ始めていた。

 俸給が少ない為に金にがめつくなりがちなのが無給通(長州藩の下級藩士の一つ)である。

 しかし百合之助は、清廉潔白を絵に描いた様な生活を送り、己を滅して藩の為に尽くす、武士の鑑というべき人物であった。

 そんな百合之助も、やはり一人の親と言う事であろうか。

 数年ぶりの我が子の帰還に、こうしてやって来たのだ。

 人々にはそれすらも、何やら物語の一場面の様に感じられた。

 気が早い者が感極まったのか、しきりと目頭を押さえている。

 

 自分達に注目が集まり、百合之助は赤面した。

 芝居じみた登場の仕方に居心地の悪さを感じたが、今更逃げ出す事も出来ない。

 道が出来た事に喜んだ寿ひさが両親の手を取って前へ進もうとするし、人々の気遣いを無碍にも出来なかった。


 「この様な事は、得意ではないのだが……」

 「何を仰います、父様! さあ、行きましょう!」


 寿に促され、已む無く百合之助は人垣の最前列に進み出た。

 その間も、船はどんどん接近しており、船の上の人の顔まで判別出来るまでに近づいていた。

 船の舳先に立ち、こちらを見つめ手を振っているのは、成長した事は見て取れたが、息子である松陰その人であった。

 出発当時2歳であった寿は、それでも兄松陰を覚えているのか、一生懸命に手を振りかえした。


 船はゆっくりと進み、そして、松陰少年がついに故郷の地に降り立つ。

 百合之助らは松陰を出迎え、そんな彼らを町の人垣が囲んだ。


 「ただ今帰りました、父上、母上。」

 「よくぞ、無事に帰ってきたな。」

 「お帰り。」

 「お帰りなさいませ、兄様!」


 松陰は一瞬怪訝そうな顔をした。

 自分を兄と呼ぶ少女の姿に記憶を探る。

 そこにあるのは「にーに」と呼んで懐いてくれていた妹だ。


 「もしかして寿かい?」

 「はい!」

 「そうか、大きくなったなぁ。」

 「兄様こそ!」

 「それもそうか。ただいま、寿。」

 「お帰りなさい、兄様!」

 

 そんな兄妹の様子に、居並ぶ者達の表情も明るい。


 「し、して、共に旅立った者はどうしたのだ?」


 緊張しているかの様に、ぎこちない態度で百合之助が質問した。

 その質問に、松陰はウッと喉を詰まらせ、嗚咽を始めた。

 そして、絞り出す様に、


 「彼らは皆、異国の地で散りました……」


 とだけ言い、後は声にならないとでも言う様に、沈黙する。

 松陰の言葉に、集まった観衆も絶句した。

 何故なら、松陰を取り囲む様にしている自分達の後ろに、見知った者らが立っていたからだ。

 彼らはどう見ても……


 「いやぁ、皆死んでしまったとは、悲しいでござるなぁ。」

 「他人事の様に言うのは止めて下さい!」

 「こんな嘘、碌な事にならないと思うけどなぁ……」

 「今更でござる。それに皆、空気を読んで、内緒にしてくれるでござるよ。」


 誰かが何やら喋っていた。

 

 時をしばし遡り、2日前の三隅に移る。

 三隅は萩から西へ15キロ程行った距離にある、村田清風の生まれ故郷である。

 台湾を出発し、鹿児島に着いた一行はその場で早馬を出し、清風に帰国の旨を伝えた。

 前もって別の場所で会合を持ち、帰国の算段をつけようという意図だ。

 その際、表向き松陰のみの帰国で、残りは全員死亡という事にしようと決まった。

 海外への渡航が発覚すればどうなるかわからないので、それが無難だろうと判断されたのだ。


 それにも係わらず、亦介らは平然と町の者の前に姿を現した。

 そもそもが隠しきれるモノではないし、長州藩民の良識を信じた為でもある。

 見もせぬ太平天国への助力に名乗りを挙げた、萩の町の民なのだ。

 幕府に密告する者などいないだろう。

 移動の自由の無い時代、その地に住まう民の期待を裏切る事は、即社会的な死を意味する。

 

 一足早く萩の町に帰った亦介らは、百合之助らと今日の段取りをつけ、松陰の帰国を待ったのだった。




 「して、この船は何だ? どうして帆が無いのに進めるのだ?」


 百合之助が息子に聞いた。

 段取りについては聞いていたが、まさかこの様な船に乗って帰って来るとは思いもしなかった。

 民衆もそれは先程から気になっていたので、松陰の返事を固唾を呑んで見守る。


 「これは“蒸気機関”というカラクリで動く船にございます。石炭を燃やして湯を沸かし、出てくる湯気で動く様になっております。かの名工国友一貫斎様の遺作にございます。」

 「何?! あの一貫斎殿の? 遺作とは、そうか……」

 

 松陰の答えに百合之助は悲しんだ。

 一貫斎は、短い間ではあったが、杉家の家族として親交を深めた高名な鉄砲鍛冶師である。

 高齢にも係わらず、是非とも松陰の力になりたいと、遠い異国を目指した発明家だ。

 これが最期になるだろうと、水杯を交わして別れを惜しんだのだが、それがいざ現実のモノとなってしまうと、やはり深い悲しみが襲ってくる。

 

 しかし、そんな百合之助の悲しみを打ち破る様に、


 「者共控えよ! 幕府目付けであるぞ!」


 大声を出し、民衆を脇にどかせて進む一団が現れた。

 幕府という言葉に人々はギョッとし、慌てて後ろに下がり、道を空けた。

 その一団は、迷う事無く松陰の前まで歩み寄る。


 「その方、国禁を犯し、異国へ渡ったという吉田松陰で間違いないな?」

 「はい、私です。」


 現れた男達の一人が尋ね、松陰は素直に答えた。

 松陰の返答に満足したその男は、部下らしき者達に命令する。

 

 「捕縛しろ!」

 「合点だっぺ!」

 「アナタは喋るんじゃありません!」


 男達はたちまち松陰に縄をかけ、縛り上げてしまった。

 町の人々は大いに慌て、松陰の運命を心配したが、何やら様子の違う雰囲気を感じ取った。 

 百合之助らはまるで動じていないし、松陰自身、平然としているからだ。

 それに、男達の松陰を扱う姿に、冷酷さなど微塵も感じない。

 寧ろ大事な仲間を扱う風であった。

 縄は緩めであるし、手荒に扱うでもない。

 これはもしかして、と予想する。


 「この者、国禁を犯した疑いで江戸へと送致する。我々も疲れておる為、出立は明後日とする。それまで家族との団欒を温めよ! これは幕府の温情である。感謝いたせ!」


 そんな男の言葉に町の人々は噂する。

 あの幕府の役人達は見た事があると。

 江向の杉家に出入りしていたと。

 そして人々は安心する。

 松陰は安全だと。

 

 そんな町の者らの噂を知ってか知らずか、現れた男達は松陰を江向の杉家に連れて行き、道に面した部屋に押し込んだ。

 道に面する雨戸は全て取り払われており、部屋の様子は外から丸分かりであった。

 何とも準備の良い様子に、松陰の事が気になってゾロゾロを着いてきた人々は、やっぱりかと納得した。

 そして松陰の独演会が始まる。

国友一貫斎は、台湾で寿命を迎えたという事にしました。

史実では1840年に没したという事ですので、許される範囲でしょうか。

一貫斎の遺作である蒸気船は小さく、試作品です。

イメージとしては、エンジンだけある様な小さな漁船程度の大きさです。

外輪船ではなく、スクリューで進みます。

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