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幕末香霊伝 吉田松陰の日本維新  作者: ロロサエ
アヘン戦争台湾編
95/239

生捨

 『ポッティンジャー閣下、この度の勝利おめでとうございます。』


 エドワードが新任の全権大使に向かい、祝辞を述べた。

 アモイを占領したイギリス軍は庁舎を接収し、臨時の宿舎として使っている。

 エドワードは松陰らを伴い、大使の部屋を表敬訪問していた。


 『ふん、未開な東洋人など、偉大な大英帝国の力を持ってすれば造作もない!』


 ポッティンジャーは当然だと言うかの様に頷き、侮蔑を隠そうともせず口にした。

 同じ東洋人の松陰らが部屋にいるにも関わらず、である。

 エドワードはそれに大きな危惧を抱きながらも、訪問の意図を説明する。

 新任者への挨拶と、松陰らの紹介である。

 特に、下痢に対する対症療法として経口補水液の効果を訴え、軍で採用する事を提案しに来たのだ。

 

 アモイは苦も無く攻略が済んだ。

 しかしその内実は、到底楽勝とは言えないモノであった。

 台湾と同じ緯度に位置するアモイ。

 その8月ともなれば、うだる様な暑さが続いている。

 暑さに参る体に追い討ちをかける様にマラリアが広がり、コレラや赤痢といった伝染性の病気も蔓延していた。

 近代兵器で清軍を圧倒するイギリス軍であったが、一歩陣中に足を踏み入れてみれば、ベッドから起き上がれない患者が病室に溢れる惨状を呈していた。


 遠い異国の地で、病に倒れた時程心細いモノはない。

 それを痛い程理解しているエドワードは、疾病者の苦しみを少しでも減らしたいと、経口補水液の為の砂糖を大量に積み込み、やって来たのだった。


 新任の大使は、初めは興味深げに説明を聞いていた。

 しかし、それが東洋人の子供に教えられた知識と知った途端、露骨に顔をしかめ、汚い物を見るかの様に目の前の商人を眺めた。

 吐き捨てる様に口にする。


 『は! 何を言うかと思えば、未開な野蛮人の知識ではないか! 砂糖と塩で下痢が良くなる? そんな簡単な事で治れば苦労は無い! 大方、砂糖にアヘンでも混ぜられて、夢でも見ている間に自然と治っただけではないのか? 愚かな大言壮語を弄する中国人らしい、実に小賢しい手だ!』  

 『閣下、彼らを愚弄するのは止めて頂きたい! 彼らは騎士道を解する誇り高い者達です! それに、彼らは英語を理解しておりますぞ!』


 ポッティンジャーの言葉に思わず口を挟むエドワード。

 新任の大使が小賢しいと断じた相手は、腰に差した剣1本で勇敢にも敵陣へと突入し、困った時はお互い様だと無償で援助の手を差し伸べてくれた者達であった。

 そんな彼らを侮辱する発言をされては、それが全権大使とはいえ、到底見過ごせるモノではない。

 エドワードは断固とした態度で異を唱えた。


 そんなエドワードを、アヘンを取り扱うあさましい商人の一人としか見ていなかったのがポッティンジャーだった。

 頭から軽蔑し、下に見ていた。

 それが、大使たる自分に向かって、強い口調でたしなめる度胸を持ち合わせていた。

 

 虚を突かれ、ポッティンジャーは狼狽する。

 それに、目の前の東洋人が、英語を理解しないと端から思い込んでいたのも事実である。

 代表者が子供で、エドワードに紹介されても間の抜けた表情を晒していた時点で、心底侮っていた。

 しかし、外交官たる自分がどの様な相手であれ、その様なあからさまな非礼を働くのは失策であろう。

 ポッティンジャーは慌て、しかし言ってしまった言葉を取り消せる訳も無く、侮蔑していた相手に謝る事も思いつかず、取り繕う様に怒り出した。


 『う、うるさい! 私は忙しいのだ! 用が済んだのなら、とっとと出て行け!』


 エドワードらを部屋から追い出した。




 『我が国の大使が大変失礼致しました。成り代わりまして謝罪させて頂きます。』


 宿舎を出、暫く経ってエドワードは松陰らに頭を下げた。

 下げられた方は互いに顔を見合わせる。


 「えどわーどさんはどうして頭を下げてるんだい?」

 「何となくは察するがな……」

 「さっきの尊大な男の態度と関係しとるんじゃなかっぺ?」

 「あれは腹が立ちましたな!」


 言葉は分からずとも雰囲気で察する事もある。

 何より、彼らは名のある剣の遣い手達だ。

 勘の鋭さは並ではない。

 しかしそれとても、状況を正確には理解しえない。

 当然、この中で唯一英語を理解する、松陰に注目が集まる。


 「……なますて……」


 皆から注目されている事に気づいていないのか、松陰の表情は心ここにあらずといった様子で、視線も定まらず、何やらブツブツと呟いている。


 『ショーインは、一体どうしたのです?』 

 「そういえば、この地に降り立ってから、こうでしたな。」

 「既視感があるのだが?」

 「狐に憑かれたみてぇだねぇ、あの時みてぇに……」

 

 エドワードを除き、若干またかと思いながらも、心配して松陰を囲んだ。

 その中にあって、忠蔵一人はイラついていた。

 敵陣になりえる地で、腑抜けた態度を続ける松陰に我慢がならなかったのだ。


 「シャンとせんか!」


 バシーンと盛大な音を発し、情け容赦無く松陰の横っ面を引っ叩く。

 堪らず松陰の体は地面に転がった。

 遠慮のない気合の注入に、見ている者も顔をしかめる。


 「うへぇ、薩摩にだけは生まれたくないねぇ。」

 『スパルタですな……』

 「気持ちはわかるが……」


 気の毒そうな顔をしながらも、仕方無いよなと言いつつ、松陰を待つ。

 涙目で打たれた頬をさすりながら松陰が起き上がった。

 

 「目が覚めたか?」


 忠蔵が尋ねる。


 「ハイ、ありがとうございます! お陰で目が覚めました!」


 その答えに忠蔵は満足した。


 「で、今度は何だ?」

 「ナマステです!」

 「生捨てとは何だ?」

 「ナマステです! インド人がいたのです! カレーの民なのです! 彼らの所へと赴けば、本場のカレーが食べられるのです!」


 曇りのないキラキラとした瞳を輝かせ、松陰は叫んだ。

 陣中に、援軍としてなのか、誰かの召使であるのか、ターバンを巻いた男がいたらしい。

 やはり食い物の事かと、事情を知る者はがっくりした。

 エドワードは、『ナマステ? インド人の挨拶までも知っているのですか!』と一人感動している。

 こんな時に食い物に気を取られるとは何事かぁ! と、手加減した先程とは違い、拳を固めかけた忠蔵だったが、輝かんばかりの笑顔を浮かべる松陰に怒る気力も消え失せ、握った拳が力なく下がる。

 そして、疲れた様に呟くのが精一杯だった。 


 「……そうか、まあ、よかったな……」

 「ハイ! 生きる気力が湧いてきました! 必ず、インドまで辿り着き、カレーを食します!」

 「なんだ? 今すぐ食いに行くのではないのか? いんど人とやらは、ここにいるのだろう?」


 力なく口にした忠蔵の言葉に、元気一杯に答える松陰。

 しかし、その内容に忠蔵は疑問を持った。

 今すぐそのインド人の下へと駆け寄り、カレーを食べさせてもらうのかと思ったからだ。


 そんな忠蔵の質問に、松陰の顔はたちまち歪む。

 光輝く様な笑顔はどこへやら、今にも泣き出しそうな、深い悲しみを湛えた表情となり、言葉を絞りだした。


 「今は、まだ、駄目です。駄目なのです。今のこの状況で、この地で、今の私では、彼らに会いに行けません……」


 忠蔵には、松陰の言っている事が良く分からなかった。

 しかし、本人にその気が無いのなら仕方無いと考えた。

 とんでもなく未練たらたらには見えたが、そう思っているのならば、それを貫くのが武士であろうとの信念があった。

 

 「武士ならシャンとせんか! ならば、それを変えればいいのだろうが!」 

 「ハイ! 必ず、必ずや、カレーまで辿り着いて見せます!」


 そんな二人をニヤニヤして海舟らが眺める。


 「あの忠蔵さんが、落ち込んでる者を励ますとはねぇ。」

 「槍でも降るのではないか?」

 「善き哉だっぺ!」

 『良く分かりませんが、麗しいですね。』


 そして小船に乗り移り、自艦へと戻る。

 持って来ていた砂糖は、軍医にやり方を言い含めて置いていった。

 熱には効かないが、止まらぬ下痢に苦しんでいる患者には助けとなるだろう。

 それからの事はポッティンジャー次第である。




 「しかし、いぎりす側の内情も酷いモノだったねぇ。」

 「そうだな。清の方はわからんが、随分と余裕が無い様に見えたな。」

 「清に知らせてやれば、今からでも勝てるっぺ!」

 「いや、東湖殿、その様な間者の真似事、武士としてどうかと思いますよ!」


 イギリス軍の陣中を観察した感想を述べ合う。

 松陰がポツリと呟いた。


 「敵を知り、己を知らば、百戦危うからず。」


 孫子の中でも、最も広く知られた言葉の一つであろう。

 

 「言われてみりゃあ、そうだねぇ。」

 「問題は、どうやって知るのか、だな。」

 「古式ゆかしく、偵察だっぺ。」

 「ふ。薩摩は間者対策は万全だ!」


 忠蔵の言葉に、そりゃ、あの言葉ならなぁ、と皆納得する。


 「イギリス側も食糧は購入しているでしょう。出入りする商人もいるでしょう。民との交流もあるでしょう。今回はいるのかは分かりませんが、捕らえた兵士に話を聞く方法もあるでしょう。あらゆる伝手を用いて情報を集め、分析し、今後の方針を決める際の助けとすべきです。」


 松陰の言葉に、そりゃ、そうだよなぁ、と納得する。


 「しかしそうは言っても、実際問題、病の蔓延は問題ですね。台湾でも同じでしょう?」

 

 忠寛が懸念を示した。

 赤痢には罹った訳であるし、高熱に苦しむマラリアは、おこりとして日本でも昔から知られた病気であった。

 高熱の原因であるマラリア原虫は1880年に発見され、蚊が媒介する事が解明されたのは1897年の事である。 


 『ミスターエドワード、キニーネはご存知ですよね? その木の種は手に入りますか? 地中海には、虫除けに使われている花があると思いますが、その種も手に入りませんか?』


 キナの木から得られるキニーネは、マラリアの特効薬として著名であろう。

 南米原産のキナの木は、解熱剤の原料として既に植民地各国に導入されていた。

 また、蚊取り線香の原料として有名なシロバナムシヨケギク(除虫菊)は、1886年に日本に導入されている。


 『……知っています。何に使うのですか?』


 エドワードが尋ねた。

 話の流れは理解していない。

 どうしてキニーネの事を知っているのか、地中海の植物を知っているのは何故なのか聞きたかったが、今更な気がしてその次に進んだ。


 『勿論、薬としてでございますよ。キニーネは、高熱に効くのでしょう? 虫除けは、蚊に刺されない為ですね。ミスターエドワードも儲けられますよ?』

 『何ですと?!』


 儲けという言葉に色めき立つエドワード。

 莫大な利益が見込めるはずだと考えた経口補水液を、無償で教えてくれた松陰である。

 そんな人物が儲けと口にしたからには、確実な儲けが見込めるのだろうと考えた。


 日本で磨かれた線香技術が蚊取り線香を生み出した。 

 マラリアは蚊が媒介する事を理解しなくても、寝ている時の蚊の羽音の不快さは、世界共通である。

 それを簡単に防ぐ事が出来る蚊取り線香は、グローバルで売れる商品なのだ。

 事実、蚊取り線香は、あの形状のまま世界中で売れている。


 『分かりました。何としても手に入れましょう!』


 エドワードが力強く約束した。


 『付け加えて、辞書や国際法、化学、技術の本も宜しくお願いしますね!』

 『任せて下さい!』


 勢いで頷く。

 こうして、松陰はイギリスの最新情報を手に入れていく事になる。

アヘン戦争編はこれで終了です。

台湾の統治編はすっ飛ばし、国内に帰ることにします。

時間的には3年が経過いたします。

エドワードさんに頼んだキナ、シロバナムシヨケギクの種子と、書籍の到着には時間がかかるからです。

次話で補足として、台湾での3年を簡潔にまとめたいと思います。

宜しくお願いします。


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