広東へ ★
「なん、だと?!」
目の前のモノが理解出来ないのか、その男は驚愕に目を見開き、やっとの事で呟いた。
食卓の上には、いくつもの皿に盛り付けられた品々が、湯気を上げて鎮座している。
一皿は、白い皮の様な物に包まれた、一口で食べられそうな料理である。
片面はこんがり狐色に焼け上がり、極めて食欲をそそる外観をしていた。
もう一皿は、とろみのついた餡の乗った、薄い卵で包まれたご飯らしい。
別の皿には、見るからに辛そうな色をした、豆腐の浮いたスープが入っていた。
なんでこの時代に“これ”が?
いや、私が知らないだけで、元々あったのか?
しかし、これはどう見ても……
男は、その意味する所を考えようとした。
その刹那、隣から一組の箸がすっと伸び、“それ”を摘むやいなやさっと戻り、“それ”は一瞬にして虚空に消え去った。
そして、
「うわぁ! これも美味しいね! お兄ちゃん、食べないの? じゃあ、アタシが食べてあげるね!」
男が「あっ!」と言う間もなく、傍らの少女がまた一つ、“それ”を箸で掴み、小皿に入れられた液体につけ、口に運んだ。
熱いのか、ハフハフと息をしながら噛みしめ、ゴクンと飲み込む。
途端に輝くような、幸せそうな笑顔を浮かべ、「美味しぃ~」と叫んだ。
「松陰殿は食べないのでござるか? この“焼き餃子”でござったか、本当に美味いでござるよ?」
亦介が向かいの席から言い、また一つ餃子を口に放り込んだ。
考え込んでいる松陰の様子に思う所はあるようだったが、早く食べないと己の分が無くなってしまう。
それに対し、松陰は心の中で叫んだ。
その焼き餃子が問題なのです!
中国では水餃子が普通で、こんなに皮が薄くて焼いているのはおかしいはずなのです!
しかも、ご飯と一緒とは!
これではまるで、日本の餃子定食ではありませんか!
そんな松陰の胸のうちとは裏腹に、周りの席の者も騒ぎ出す。
「アナタ、あーん……」
「ねえ、ファンリン? 恥かしいならやらなくていいんだよ?」
私と同じセリフとは、流石兄上!
それにしても、見ている方が恥ずかしくなりますな!
『太平天国の指導者にして料理も知っている? まるで曹操みたいな男だな……』
『でも、街には活気が溢れておりますね、お父様!』
何と言っているかは分かりませんが、台湾でも是非取り入れて下さいね!
「ほう? 中は豚だな。粘りが出るまですり潰し、ニラといった香りの強い野菜と混ぜ、小麦粉で作った皮で包み、鍋で焼いたのだな。噛めば肉の脂が口の中にジュワッと溶け出し、美味さに拍車をかけている。これは、藩に帰れば是非真似をせんといかんな……」
忠蔵さんが料理を語るとは!
しかも的確!
人は見かけによらないとはまさにこの事!
「この”まーぼーどーふ”もホンマに美味しいわぁ。才太様は食べんのですか? この辛味が癖になりそうですよ? なあ、千代ちゃん!」
「そうでございますね、菊姉様!」
「……いや……口の中にしみる……」
本場四川の麻婆豆腐はものすっごく辛いそうですよ!
麻とは山椒の、舌が痺れる様な辛さを表す言葉だそうです!
辛いのが特別好きな訳でもないお菊さんが癖になるという辺り、改良されている事は間違い無いですね!
才太さんはあの決闘で口の中が切れているのですね!
「“広東飯”も美味いねぇ!」
「とろみのついた餡とご飯の相性が絶品だっぺ!」
本当は天津飯っていうんですけどね!
絶対パクってますね!
「オイは、ゴマ揚げ団子がいいでごわす!」
アナタは好きにしてください!
一々松陰は心の中でツッコミを入れた。
それだけ衝撃が大きかったのだ。
しかし、このままでは何一つ味わう事無く、全てが食べられしまうだろう。
「お姉さん、これ(焼き餃子)をもう一皿!」
松陰は忙しそうに店内を駆け回る店員に追加で注文し、天津飯ならぬ広東飯をかき込んだ。
双方の準備が整い、アヘン戦争の見学に出発した一行は、まずイギリスの拠点である広東に来ていた。
エドワードの船の、火薬、砲弾といった物資の補給と、イギリス海軍の現在の状況を知る為である。
また、広東に行くなら太平天国とも誼を作っておきたいと、自治政府で経済と外交を担当する予定の朱も一緒に来ていた。
取引のある商人の伝手を頼り、前々から太平天国に友好の打診をしていた朱は、先見の明のある政治家といえるだろう。
連絡手段の整っていない時代であるので、相手の返事を待たずに訪問する事になるのは致し方あるまい。
エドワードはイギリス人居留区へ向かい、残った人員でまずは腹ごなしとばかり、港街で繁盛しているお店に入った。
お店の者に勧められ、太平天国の指導者洪秀全が考案したという料理を頼んだのだ。
そして出てきたのが先の焼き餃子や天津飯、麻婆豆腐である。
松陰は、それが誰かは分からなくても、少なくとも自分と同じ転生者がこの地にいると確信した。
「アイヤー! 本物のサムライ、アル!」
広東城の玉座に腰掛け、男が興奮気味に叫んだ。
男の眼前には、大勢の訪問客が列を作って並んでいる最前列で、周りから浮いた、奇妙な服装、奇妙な髪型をした集団がいた。
今は謁見の時間である。
清国からの独立を宣言し、広東を完全に掌握した拝上帝会の治める太平天国。
その拝上帝会の首領である洪秀全に、ご機嫌伺いを兼ねた挨拶に訪れる広東各地の商人、近隣諸国の者は多かった。
安全上の理由から、また神の子洪秀全の神秘性を守る為、部下は軽々しい謁見を戒めたが、洪が押し切り、実施した。
少しでも多くの同志を得たいが為であるのと、己の運命を信じていたからである。
こんな所で斃れる訳が無いという確信だ。
そんな洪は、今日も謁見に臨んでいたのだが、今回はいつもと様子が違っていた。
台湾から、友好を求める訪問客が入っていたのだ。
情報として、台湾で武装蜂起が起こった事は掴んでいた。
同じ客家の者が主導し、台湾の州都である台南を占拠したとも。
清朝の支配に抗う様、中国全土に独立を煽る檄文を発した洪秀全である。
それに真っ先に反応し、しかも州都の占拠まで成功させた同郷人(客家に故郷はないが)の活躍に、洪は膝を叩いて喜んだ。
その台湾から、謁見の使者が訪れたのだ。
部下からその報告があった際、洪が期待に胸弾ませたのは当然であろう。
そこで洪は一計を案じた。
他の訪問客の前で台湾の武力蜂起を知らしめる事だ。
一国からの使者であれば、個別に会うのが礼儀であろうが、台湾はいまだ独立の宣言はしていない。
一般訪問客として扱われても不平は無いだろう。
大勢の近隣各地の者が集う中、台湾の武力蜂起の成功を喧伝し、各地への激励と為すのだ。
そう思って迎えた台湾からの使者である。
しかし、彼らを迎えた部下の報告が奇妙であった。
台湾の者とは思えないとあったのだ。
子供まで多く連れているし、身につけている服装が違うし、言葉が通じる者が極少数で、しかも携行している武器が倭刀だというのだ。
それも一人や二人ではなく、多くがそうであると言う。
倭刀という報告に洪は色めきたった。
転生者である洪秀全にとって、刀はロマンであった。
日本のサムライが使ったというカタナ。
それを身につけた者らが、武装蜂起した台湾からやって来た?
俄然洪は興奮した。
そんな洪に、部下はいつもの発作が起こったと心配した。
今度は何を言い出すのかと不安に感じる中、衝撃の言葉が洪より飛び出す。
台湾からの訪問客が、武器を携行したまま謁見の場に入る事を許可する様、部下に求めたのだ。
そんな危険な事は容認出来ないと、断固として主張する部下達。
全ては彼らが敬愛する、神の子洪秀全の身の安全の為。
数々の奇跡を示し、神に選ばれた者との思いはあったが、それでも危険は避けて通るのが賢明である。
なおも諌めようとした、その時、
『これは天命である。』
敬愛する洪の、穏やかながらも厳かな声がその場に響いた。
見る者全てを魅了する様な、神々しい微笑を湛えている。
それと同時に、何者にも侵される事の無い、鋼鉄の如き固い意志をも感じさせた。
ざわついていた者らの背筋が一気に伸びる。
慌てて平伏しようとし、その行為を当の本人に厳しく戒められていた事を思い出し、腰を深々と曲げて敬礼し、唱和した。
『委細、畏まりました!』
随分とおかしな謁見もあった物だと、初めから一同は不審に思っていた。
広東の見物がてら、皆して広東城へと向かい、朱が太平天国の首領に謁見を申し出たのを見守っていた。
アポをお願いしていた商人とは、何分急な事で連絡が取れず、急遽直接出向いたのだ。
だが実態は、事前に申し出て、審査に通れば誰でも謁見が可能であった。
身分保障などあやふやな時代で、審査も何もあった物ではない気はしたが、言われるままに待っていた。
許可されれば、朱と代表者何名かで謁見に向かおうと思っていた所、何と全員を招待するという。
しかも、武器の携行が必須だと注文を付けられたのだ。
「普通は逆ですよね?」疑問に思って松陰は尋ねた。
「まあ、普通は武器を預けるわな。」才太が答えた。
一同、顔に疑問符を浮かべたまま、洪との謁見が始まった。
「ねえ、お兄ちゃん? 私あの人の言った事、わかったんだけど、変?」
スズが怪訝そうな顔で松陰に尋ねた。
玉座に座っている男が発したのが、自分が使っている言葉に思えたからである。
何かの聞き間違い? そう思って傍らの松陰に尋ねたのだ。
「いいえ、スズ。私も分かりましたよ。」
松陰はげんなりした顔で答えた。
どこに同じ転生者がいるか分からない、もしかしたら敵対するかもしれないと、緊張しつつ面会したのだが、まさかの洪秀全本人の日本語発言である。
しかもそれが「アイヤー!」だとは思いもよらなかったのだ。
拍子抜けして全身の力が抜けてしまっていた。
相手は自分の事を知らない筈だから、あれが素なんだろうと考えた。
転生者にしても、まるでパチモンの中国人じゃないか、松陰はウンザリしてそう思った。
松陰に偽中国人扱いされている事など露知らず、洪はその目を輝かせ、眼下に並ぶ異形の者らを見つめていた。
ロマンの塊であるカタナ、それも相当使い込まれている事を予想させる代物を腰に差し、悠然とした様子で腰を屈めている。
謁見に際し、平伏する儀礼は洪が変更させていたのだが、今、目の前に並ぶ者らは、自分が想像した礼儀の見本その物であった。
彼らの立ち振る舞いに、自分の思い描いていたサムライ像がピッタリ合致した。
悠然と構えながらも、油断なく周囲の様子に気を配っている事がわかるその気配。
カタナを差して初めて重心が安定する、つまりはカタナが日常となっているその所作。
己が手で命の遣り取りを行ってきた事を容易に想像させる、剣呑さを秘めたその鋭い視線、体から発せられる無言の圧力。
洪はそれらをひしひしと感じ、大興奮した。
我を忘れて叫んでしまう。
「アナタ達サムライでしょ? 絶対そうアル! 今日は良い日アル!」
一人興奮する玉座の男に、海舟らは呆気に取られた。
それは海舟らだけではなかった。
玉座の男を守る衛兵の顔にも驚愕の色が見えたし、脇に控える家臣達も色めき立っていた。
松陰らの後ろに並ぶ他の訪問客も、何事かとざわつき、事態の推移を注視していた。
そんな一同を置いてけぼりに、洪は立ち上がって何かをし始める。
立ち上がった洪に、一同の視線が一斉に集まった。
その視線の中、
「やはり天命アル! 記念に、これ、あげるネ!」
そう言うなり洪は、無造作に、空間から宝石らしき物を取り出した。
それは、空間から突然現れたという表現がぴったりであった。
洪の言動を呆然として見守っていた、場の一同全員に驚きが走る。
互いの顔を見合わせ、何が起こったのか確認した。
「おい! 今の見たか?」
「何も無い所から出てきたぞ?!」
「どうなってる?」
「妖術だっぺか?!」
海舟らが驚きにざわつく。
一方、衛兵と家臣団は畏まって洪を仰ぎ見ている。
他の訪問客らは、『奇跡だ!』『初めて見た!』『噂は本当だったんだ!』『神の子だ!』と、口々に喋っていた。
ざわめく一同に満足げな顔の洪秀全。
そのドヤ顔にいらついた松陰は、つい「サイババかよ!」とツッコミを入れてしまう。
洪はそれをしっかりと聞いていた様で、顎が外れてしまったかの様に大きく口を開けて驚き、言った。
「なん、アル?! 今、何と言ったアル?」
松陰は、しまった、と瞬時に後悔した。
相手の情報を知らぬうちに、こちらも転生者だとばれてしまうのは拙い。
必死に誤魔化そうと言い訳を探し始めた、その時、
「さいばばかよ、だって!」
洪のドヤ顔に負けず劣らず、得意げな顔でスズが答えた。
松陰は、己の軽率さに腹が立ちつつも、覚悟を決めて洪を見つめた。
そんな松陰の覚悟が伝わったかの様に、洪は静かに問うた。
「アナタ、私の尊敬するサイババ、知ってる。アナタ、私と同じ(転生者)?」
そう問いかける洪に対し、松陰は暫く答えを探した後、きっぱりと答えた。
「はい、同じ(転生者)です。」
今、転生者吉田松陰と、転生者洪秀全の運命が交錯する。
焼き餃子、天津飯、麻婆豆腐は、日本生まれの中華料理という事でご了承下さい。
広東のイギリス人居留区はどこかよくわかりません。
適当です、すみません。
香港は作中での前年に割譲されてますが、割譲されたばかりで寒村だったとあるので、まだ居留はしていないはずです。
マカオは当時からヨーロッパ人の居住が進んでいたので、そっちにいたかも。
広東城は川を少し遡った場所にあるので、地理的に整合性が取れない気もしますが、ご容赦下さい。
あれしてこれして、エドワードとは後で落ち合います。
ようやく洪秀全さんの登場です。
謁見の方法とか穴だらけかとは思いますが、お許し下さい。
両転生者の運命は交錯しましたが、特に深まる事はなく、別々に進んでいく予定です。




