凱旋
戦に出向いた者らが帰って来た。
出迎えた松陰の目に映るのは、まるで生気を感じない、幽鬼の様な人々の列であった。
服はボロボロに乱れ、泥と血で汚れ、汗でべったりとその肌に張り付いている。
頬はこけ、目は落ち窪み、まるで亡者と見紛うばかりである。
顔中が包帯で覆われ、弱々しい足取りで歩く者がいる。
また、ある者は足を失ったのか、両脇から抱きかかえられ、残った1本の足でヒョコヒョコと歩いている。
自分の足で歩ける者の後には、大八車の様な台車に載せられた、動くことも出来ない怪我人の列である。
道が悪いせいで揺れ、その揺れに合わせて呻き声が上がった。
松陰は、ただ呆然と、瞬きすら出来ずに目の前を通り過ぎる彼らを眺めた。
赤痢に倒れ、熱で苦しんでいる間に出立した彼ら。
病から快復し、その事を聞き及んだのだが、心配するでもなく安心しきっていた。
敵兵力と互角の戦力を揃え、なおかつエドワードに大砲10門と鉄砲50を借り受けたという。
こちらからも鉄砲50を用意したそうで、これで負ける訳が無いと思っていたのだ。
それが、帰って来たのは、暗くうち沈んだ、敗者としか言えない様な人々の群れであった。
「馬鹿だ私は! 戦に絶対なんてある訳ないじゃないか!」
松陰は叫び、見知った顔を探し出そうと走り出した。
「どこです、兄上! お菊さん! 才太殿!」
松陰の叫びに応える声は無い。
黙々とその歩を進めるだけである。
「亦介さん! 海舟殿! 蔵六さん!」
なおも呼びかけるが誰一人応えない。
諦めず、続々と続く人々を掻き分け、知った者の名を叫びつつ進むが、松陰の声に応える者はいなかった。
ついに列の最後尾となり、足を止める事なく松陰の横をすり抜けて行ってしまった。
「どうして誰もいない?」
呆然と立ち尽くし、松陰は一人自問した。
しかし、松陰の問いに答える者はいない。
「皆、死んでしまった?」
恐ろしい考えが浮かぶ。
そんな訳があるか! と頭から必死に振り払おうとするが、一度浮かんだ思いは簡単な事では消えない。
それどころか、不安は大きくなるばかりであった。
「ぐっ!」
突然息が苦しくなり、松陰は道に膝をついた。
見えない何者かに首を絞められている様に、息ができない。
必死で抵抗しようとするが、松陰を嘲笑うかの様に益々苦しくなってゆく。
最早これまで。
そう覚悟した、その瞬間――
「うおっ?!」
松陰は飛び起きた。
さっきまであった息苦しさからは解放され、思わず大きく息を吸い込む。
二度三度、安堵するかの様に何度も深呼吸を繰り返す。
暫くそうしていると、動転していた気分も落ち着いた。
「夢、か……」
ホッとして呟く。
しかし先程までの悪夢を思い出し、思わずブルッと震えた。
「縁起でもないけど、戦を甘く見ていた事は確かだ……」
松陰は己を恥じた。
この時代に転生し、勝海舟や西郷隆盛といった幕末の英雄達と一緒という事で、知らずに高揚していたのかもしれない。
武士の当然の務めとして幼い頃より剣術でしごかれ、感覚が麻痺していたのかもしれない。
薩摩藩士の強さに油断していた事もあろう。
それに輪をかけ、清軍の脆弱さが、知らずに思考を偏らせていたのだろう。
強い味方の中にあり、いい気になっていたのだ。
思い返せば打狗での初陣、刀を抜く事さえせず、ただ従軍しているだけであった。
目の前で繰り広げられる命のやり取りも、どこか現実味を感じず、まるで映画を見ている様に眺めていた。
断末魔の悲鳴を上げ、ばたばたと斬り捨てられてゆく敵兵に、露ほどの憐憫さえ抱かず、寧ろゲームの様な興奮を覚えていたのだ。
人の命が軽過ぎる時代とはいえ、まさか自分もそれに流されていたとは……
斃れていった清兵にも、帰りを待つ家族がいただろうに……
同情している場合ではないとはいえ、敵兵の死に何も感じていなかったのか?
それに、何を安心していたのだろう?
いくら皆が強いからといって、戦に絶対という事などありはしないだろうに……
戦だけじゃなくても、病でも怪我でも、いつ何時、誰の命が失われるのかも分からないのに……
油断、錯覚、驕り。
全ては己の未熟さからであろう。
松陰は強く反省した。
そして、気分を切り替えようと辺りを見回した。
部屋には月の明かりが差しこみ、中をほのかに照らしている。
薄ぼんやりとした視界の中、松陰は先程の息苦しさの理由を知った。
松陰のすぐ隣には、布団を蹴っ飛ばし、大の字で寝転がるスズの足が転がっていた。
と思えば寝返りを打ち、小さな足が、先程まで松陰の寝ていた首の辺りに落ちてきた。
「なる程。スズの足が私の首にのっかかり、息苦しかったというわけですか……」
松陰は悪夢の正体に納得し、それを見せてくれたスズに感謝した。
それから数日し、海舟らが帰ってきた。
味方の勝利の報は事前に届いており、台南中の人々が街道に集まり、盛大な歓声と共に彼らを迎えた。
清軍の撃破から無事に帰って来た者達は、その服は泥に塗れ、皆疲れきった顔をしていた。
しかし、沸き立つ民衆の熱狂に遭遇し、その胸を張り、キリッとした表情を纏い、堂々とした態度で行進していく。
紛う事なき、勝利の凱旋である。
列の中程からは鉄砲を抱えた一団と、それに続いて大砲を運ぶ集団が続いた。
よく見れば大砲を載せた台車は、普通の民衆までも加わり押している。
圧政を敷いた清からの解放を成し遂げた彼らに、僅かながらでも手伝おうというのであろうか。
皆晴れやかな顔で、重い大砲が載った台車を押していた。
最後にパイワン人の集団があった。
彼らも台車を引き、列を進める。
台車には筵らしき物が巻かれ、何が積んであるのかは分からない。
興奮していた民衆であったが、流石にパイワン人の集団に声をかける者はいない。
遠巻きに見送る民衆の中、にこやかな笑顔を浮かべて彼らは進んだ。
悪夢を見た日から、誰にも言えぬ不安を抱えていた松陰は、凱旋の報に際し、子供らと共に政庁舎前に真っ先に駆けつけていた。
周りでは、興奮した民衆が勝利を祝う雄叫びを上げている。
帰って来た息子の顔を見つけ、安心したのだろうか、父母とおぼしき老年の男女が手を取り合って泣いていた。
勝利の喜び、家族の無事、将来の展望といった明るい興奮が、政庁舎を囲む民衆の中に広がっていた。
そんな中にあって松陰は、まるで落ち着かなかった。
あれはただの夢だと己に言い聞かせ、見知った顔が現れるのを、今か今かと待ちわびた。
そして、鉄砲を抱えた梅太郎らを見つけると、全身の力が抜けてしまったかの様に脱力し、「よかったぁ」とだけ言うのが精一杯であった。
皆一様に疲れきった顔をしていたが、誰一人として欠ける事なく、ここ台南に帰ってきていた。
凱旋した彼らは政庁舎前の広場に集まった。
勝利の報告をしようというのだろうか。
出迎えた杜君英、朱一貴らを前に、部隊の代表であろう、一人の男が何事か告げた。
作戦自体は海舟らが指揮したのだが、これからは台湾の者自身が国を率いねばならないので、その練習も兼ねているらしい。
それを受け、独立を企てた首謀者である杜君英が、民衆にも向かい、大声で話し始めた。
生憎、何を言っているのかは松陰にはわからない。
しかし、広場に集まった他の者にも聞こえる様、沢山の人が復唱している様子を見ると、そうとう素晴らしい演説なのだろう。
聞き入る者は皆一様に興奮し、口々に何か叫んでいた。
ようやく式が終わり、解散となった。
明後日は勝利を祝うお祭りらしい。
戦に加わったイギリス人を含め、エドワードらにも参加してもらいたいと朱が伝えてきた。
松陰に断る理由はない。
彼らに伝え、エドワード用にしたためた手紙を渡した。
彼らの喜びようもまた、盛大であった。
その際、大砲の返却はもう少しだけ待って欲しいと要望した。
お祝いの席で、もう一回だけ使いたいと朱のお願いがあったのだ。
二つ返事で彼らは了承してくれた。
ひとまず、海舟らが朱の屋敷に帰ってきた。
松陰は子供らと門の前に整列し、彼らを出迎える。
「おかえりなさい」
松陰は深く頭を下げ、心からの言葉を口にした。
一期一会という才太(井伊直弼が著作で創出)の言葉の意味を、この時ほど強く実感した事はなかったかもしれない。
そんな出迎えに対し、「ただいまぁ。疲れ果てたよ……」「限界やわぁ……」「厳しい道のりでござった……」「くたくただねぇ」「二度と大砲なぞ運ばんぞ!」と返す皆の者である。
話を聞けば、大砲の移動に大変な苦労をしたらしい。
帰りつくなり、一斉にへたり込んだ彼らであった。
その夜、お菊はふと目を覚ました。
屋敷に帰りつき、水を浴び、着替えをして、ちょっと一眠りと思ったのがいけなかった様だ。
体は想像以上に疲れていたらしく、そのままぐっすりと眠ってしまったらしい。
周りを見渡せば、千代やスズがスヤスヤと寝息を立てて眠っている。
いつもの日常に帰って来たと、ホッと安堵の溜息が漏れた。
布団からはみ出した、スズのいつもの寝相の悪さに、従軍している間中つり上がりっぱなしであった両の頬も緩んだ。
小腹が空くのを感じ、せめて水だけでもと床を立つ。
スズに布団を被せ、部屋を後にした。
「眠れないのか?」
突然後ろから声をかけられ、お菊は飛び上がった。
慌てて声の主を探せば、廊下の手すりに腰掛けた才太であった。
「驚かせんといてぇな、才太様……」
「悪い……」
そんなつもりはなかった才太は、すぐに謝った。
「才太様は何をなさってますの?」
「いや、月が綺麗だと思ってな。」
「ふぅん。せやけど、ここで見る必要はないんやないかなぁ。」
「偶々だ!」
お菊は、分かってはいたが才太を茶化した。
この屋敷でも警護をしてくれているのだろう。
行軍の間も、帰りの道のりも、常に気に掛け、危険から守ってくれていたのだ。
松陰に頼まれたとはいえ、才太が義理堅い事に変わりはない。
今もそうなのだろうが、それを悟られない様に慌てて取り繕う姿に、ふと笑いが漏れた。
そんなお菊の様子に若干頬を赤らめ、重ねて才太は言う。
「で、お前は眠れないのか?」
「帰ってから一眠りしたのがあかんかったんか、目が覚めてしもうたんです。水でも飲もうかと思って――」
「そう言えばお前は夕餉を取っていなかったな。相当疲れていたのだろう。疲れには甘い物がいいそうな。おお! 丁度いい具合に、俺は甘い物を持っているんだった。ほれ、これをお前にやろう!」
お菊の言葉を途中で遮り、才太が一気に言い放つ。
それと共に懐から何かを取り出し、お菊に手渡した。
お菊はそれをじっと見つめ、正体がわからず、才太に尋ねた。
「何ですの?」
「”ばなな”というここの果物だ。甘いぞ。」
言うなり才太は、手に持ったバナナの皮を剥いてみせる。
そして一口に頬張り、ムシャムシャと飲み込んでしまった。
お菊は呆気に取られたが、小腹が空いているのも確かである。
才太を真似て皮を剥き、恐る恐る口にした。
途端、口の中にバナナの香りと甘さが広がる。
思わず笑みがこぼれる、そんな甘さであった。
「甘いわぁ。」
言いつつパクパクと口にし、あっという間に食べ終えてしまう。
「皮は食えんぞ。」
名残惜しげに手元の皮を見つめるお菊に、真面目な顔で才太が言った。
「才太様はウチを何やと思うてますの?」
ジト目で睨む。
「いや、何、冗談だ! 足りないのなら、まだあると言いたかったのだ!」
そう言って慌ててもう1本のバナナを取り出し、お菊に渡す。
お菊はジト目を向けたままバナナを受け取り、皮を剥き、口にした。
ジト目から一遍、打って変わって相好を崩す。
「やっぱり甘いわぁ~。」
「水もあるぞ。」
お菊の機嫌を損ねないうちに、才太は瓢箪に入れた水を手渡す。
お菊はありがたく頂戴し、乾いた喉を潤した。
小腹を満たし、人心地ついたお菊は、黙って才太の隣に腰を下ろした。
才太は居心地悪げに横を向いたが、逃げ出す様な事はしない。
長い時間沈黙が漂ったが、それを先に破ったのはお菊であった。
「ねえ、才太様?」
「何だ?」
「ウチ、鉄砲鍛冶になりたいやなんて言うとったけど、自信がのうなりましたわ。あないなモン見せられたら、恐ろしうて大砲なんてよう作りきりまへんわ……」
思いつめた顔で告白するお菊。
才太は、戦いが終わってから始まった、お菊の暗い顔の理由がわかり、納得した。
あの戦場を思い返し、それを当然だと思った。
何故なら、突撃してきた清兵に向かい、至近距離からカノン砲をぶっ放したのであるから。
そこに広がっていたのは、阿鼻叫喚の地獄絵図であったのだから。
まともな神経をしていたら、その原因たる大砲を作りたいなんて思わないだろう。
鉄砲は狩りにも使える道具であるが、大砲は人を殺すだけの道具なのだから。
さらし首や磔といった物は見慣れたお菊にとっても、あの戦場は刺激が強すぎた。
エドワードの船の上でも、大砲によって人は死んだ。
しかし、敵艦を沈めて人を殺したといっても、そこに直接の死者は見えなかったので、そういう思いを抱かずに済んだのだろう。
それが、大砲を人に向かって発射するという、あの戦場である。
その瞬間も、その結果も目にしたとあっては、大砲その物への恐怖心が生まれてしまっても仕方無いだろう。
好奇心からこの旅についてきたお菊であるが、今はそれすらも後悔しているくらいであった。
それが容易に理解できる才太に、お菊にかける言葉は見つからない。
あの様な戦を戦って、強力無比な大砲を多数揃えている西洋の力を想像したにも拘らず、だ。
今ならば、松陰の口にした懸念がわかる。
どれだけ強い侍を用意しようが、大砲の数の前には無力であろう。
しかし、それとこれとは話が別だ。
誰かがやらなければならない? 一貫斎の孫だからといって、お菊にやらせなくてもいいだろう。
人殺しの道具なのだから当然? やはりお菊に押し付ける理由はない。
国を守る為? それなら尚更女の背に背負わせる訳にはいかぬ。
どう言葉をかけたらいいのか分からず、才太は悩んだ。
悩んだ末に、やっとの事で言葉を紡いだ。
「お前は女だ。女は子を産み、育てるのが、天の定めた役割だろう。人殺しの道具を作る必要はないんじゃないのか?」
お世辞一つ言えない不器用な男であるのは分かっている。
これも本心なのだろう。
お菊は、才太の言葉を素直に受け取った。
月の明かりの下、静かに夜が更けてゆく。




