表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
幕末香霊伝 吉田松陰の日本維新  作者: ロロサエ
アヘン戦争台湾編
90/239

凱旋

 戦に出向いた者らが帰って来た。

 出迎えた松陰の目に映るのは、まるで生気を感じない、幽鬼の様な人々の列であった。

 服はボロボロに乱れ、泥と血で汚れ、汗でべったりとその肌に張り付いている。

 頬はこけ、目は落ち窪み、まるで亡者と見紛うばかりである。

 顔中が包帯で覆われ、弱々しい足取りで歩く者がいる。

 また、ある者は足を失ったのか、両脇から抱きかかえられ、残った1本の足でヒョコヒョコと歩いている。

 自分の足で歩ける者の後には、大八車の様な台車に載せられた、動くことも出来ない怪我人の列である。

 道が悪いせいで揺れ、その揺れに合わせて呻き声が上がった。


 松陰は、ただ呆然と、瞬きすら出来ずに目の前を通り過ぎる彼らを眺めた。

 赤痢に倒れ、熱で苦しんでいる間に出立した彼ら。

 病から快復し、その事を聞き及んだのだが、心配するでもなく安心しきっていた。

 敵兵力と互角の戦力を揃え、なおかつエドワードに大砲10門と鉄砲50を借り受けたという。

 こちらからも鉄砲50を用意したそうで、これで負ける訳が無いと思っていたのだ。

 それが、帰って来たのは、暗くうち沈んだ、敗者としか言えない様な人々の群れであった。


 「馬鹿だ私は! 戦に絶対なんてある訳ないじゃないか!」


 松陰は叫び、見知った顔を探し出そうと走り出した。

 

 「どこです、兄上! お菊さん! 才太殿!」


 松陰の叫びに応える声は無い。

 黙々とその歩を進めるだけである。


 「亦介さん! 海舟殿! 蔵六さん!」


 なおも呼びかけるが誰一人応えない。

 諦めず、続々と続く人々を掻き分け、知った者の名を叫びつつ進むが、松陰の声に応える者はいなかった。

 ついに列の最後尾となり、足を止める事なく松陰の横をすり抜けて行ってしまった。

 

 「どうして誰もいない?」


 呆然と立ち尽くし、松陰は一人自問した。

 しかし、松陰の問いに答える者はいない。


 「皆、死んでしまった?」


 恐ろしい考えが浮かぶ。

 そんな訳があるか! と頭から必死に振り払おうとするが、一度浮かんだ思いは簡単な事では消えない。

 それどころか、不安は大きくなるばかりであった。

 

 「ぐっ!」


 突然息が苦しくなり、松陰は道に膝をついた。

 見えない何者かに首を絞められている様に、息ができない。

 必死で抵抗しようとするが、松陰を嘲笑うかの様に益々苦しくなってゆく。

 最早これまで。

 そう覚悟した、その瞬間――


 「うおっ?!」


 松陰は飛び起きた。

 さっきまであった息苦しさからは解放され、思わず大きく息を吸い込む。

 二度三度、安堵するかの様に何度も深呼吸を繰り返す。

 暫くそうしていると、動転していた気分も落ち着いた。


 「夢、か……」


 ホッとして呟く。

 しかし先程までの悪夢を思い出し、思わずブルッと震えた。


 「縁起でもないけど、戦を甘く見ていた事は確かだ……」

 

 松陰は己を恥じた。

 この時代に転生し、勝海舟や西郷隆盛といった幕末の英雄達と一緒という事で、知らずに高揚していたのかもしれない。

 武士の当然の務めとして幼い頃より剣術でしごかれ、感覚が麻痺していたのかもしれない。

 薩摩藩士の強さに油断していた事もあろう。

 それに輪をかけ、清軍の脆弱さが、知らずに思考を偏らせていたのだろう。

 強い味方の中にあり、いい気になっていたのだ。

 

 思い返せば打狗での初陣、刀を抜く事さえせず、ただ従軍しているだけであった。

 目の前で繰り広げられる命のやり取りも、どこか現実味を感じず、まるで映画を見ている様に眺めていた。

 断末魔の悲鳴を上げ、ばたばたと斬り捨てられてゆく敵兵に、露ほどの憐憫さえ抱かず、寧ろゲームの様な興奮を覚えていたのだ。 


 人の命が軽過ぎる時代とはいえ、まさか自分もそれに流されていたとは……

 斃れていった清兵にも、帰りを待つ家族がいただろうに……

 同情している場合ではないとはいえ、敵兵の死に何も感じていなかったのか?

 それに、何を安心していたのだろう? 

 いくら皆が強いからといって、戦に絶対という事などありはしないだろうに……

 戦だけじゃなくても、病でも怪我でも、いつ何時、誰の命が失われるのかも分からないのに……


 油断、錯覚、驕り。

 全ては己の未熟さからであろう。

 松陰は強く反省した。  


 そして、気分を切り替えようと辺りを見回した。

 部屋には月の明かりが差しこみ、中をほのかに照らしている。

 薄ぼんやりとした視界の中、松陰は先程の息苦しさの理由を知った。

 松陰のすぐ隣には、布団を蹴っ飛ばし、大の字で寝転がるスズの足が転がっていた。

 と思えば寝返りを打ち、小さな足が、先程まで松陰の寝ていた首の辺りに落ちてきた。


 「なる程。スズの足が私の首にのっかかり、息苦しかったというわけですか……」


 松陰は悪夢の正体に納得し、それを見せてくれたスズに感謝した。




 それから数日し、海舟らが帰ってきた。

 味方の勝利の報は事前に届いており、台南中の人々が街道に集まり、盛大な歓声と共に彼らを迎えた。

 清軍の撃破から無事に帰って来た者達は、その服は泥に塗れ、皆疲れきった顔をしていた。

 しかし、沸き立つ民衆の熱狂に遭遇し、その胸を張り、キリッとした表情を纏い、堂々とした態度で行進していく。

 紛う事なき、勝利の凱旋である。 

 

 列の中程からは鉄砲を抱えた一団と、それに続いて大砲を運ぶ集団が続いた。

 よく見れば大砲を載せた台車は、普通の民衆までも加わり押している。

 圧政を敷いた清からの解放を成し遂げた彼らに、僅かながらでも手伝おうというのであろうか。

 皆晴れやかな顔で、重い大砲が載った台車を押していた。


 最後にパイワン人の集団があった。

 彼らも台車を引き、列を進める。

 台車にはむしろらしき物が巻かれ、何が積んであるのかは分からない。

 興奮していた民衆であったが、流石にパイワン人の集団に声をかける者はいない。

 遠巻きに見送る民衆の中、にこやかな笑顔を浮かべて彼らは進んだ。


 悪夢を見た日から、誰にも言えぬ不安を抱えていた松陰は、凱旋の報に際し、子供らと共に政庁舎前に真っ先に駆けつけていた。

 周りでは、興奮した民衆が勝利を祝う雄叫びを上げている。

 帰って来た息子の顔を見つけ、安心したのだろうか、父母とおぼしき老年の男女が手を取り合って泣いていた。 

 勝利の喜び、家族の無事、将来の展望といった明るい興奮が、政庁舎を囲む民衆の中に広がっていた。


 そんな中にあって松陰は、まるで落ち着かなかった。

 あれはただの夢だと己に言い聞かせ、見知った顔が現れるのを、今か今かと待ちわびた。

 そして、鉄砲を抱えた梅太郎らを見つけると、全身の力が抜けてしまったかの様に脱力し、「よかったぁ」とだけ言うのが精一杯であった。

 皆一様に疲れきった顔をしていたが、誰一人として欠ける事なく、ここ台南に帰ってきていた。

 



 凱旋した彼らは政庁舎前の広場に集まった。

 勝利の報告をしようというのだろうか。

 出迎えた杜君英、朱一貴らを前に、部隊の代表であろう、一人の男が何事か告げた。

 作戦自体は海舟らが指揮したのだが、これからは台湾の者自身が国を率いねばならないので、その練習も兼ねているらしい。

 それを受け、独立を企てた首謀者である杜君英が、民衆にも向かい、大声で話し始めた。

 

 生憎、何を言っているのかは松陰にはわからない。

 しかし、広場に集まった他の者にも聞こえる様、沢山の人が復唱している様子を見ると、そうとう素晴らしい演説なのだろう。

 聞き入る者は皆一様に興奮し、口々に何か叫んでいた。


 ようやく式が終わり、解散となった。

 明後日は勝利を祝うお祭りらしい。

 戦に加わったイギリス人を含め、エドワードらにも参加してもらいたいと朱が伝えてきた。

 松陰に断る理由はない。

 彼らに伝え、エドワード用にしたためた手紙を渡した。

 彼らの喜びようもまた、盛大であった。

 その際、大砲の返却はもう少しだけ待って欲しいと要望した。

 お祝いの席で、もう一回だけ使いたいと朱のお願いがあったのだ。

 二つ返事で彼らは了承してくれた。




 ひとまず、海舟らが朱の屋敷に帰ってきた。

 松陰は子供らと門の前に整列し、彼らを出迎える。


 「おかえりなさい」


 松陰は深く頭を下げ、心からの言葉を口にした。

 一期一会という才太(井伊直弼が著作で創出)の言葉の意味を、この時ほど強く実感した事はなかったかもしれない。

 そんな出迎えに対し、「ただいまぁ。疲れ果てたよ……」「限界やわぁ……」「厳しい道のりでござった……」「くたくただねぇ」「二度と大砲なぞ運ばんぞ!」と返す皆の者である。

 話を聞けば、大砲の移動に大変な苦労をしたらしい。

 帰りつくなり、一斉にへたり込んだ彼らであった。




 その夜、お菊はふと目を覚ました。

 屋敷に帰りつき、水を浴び、着替えをして、ちょっと一眠りと思ったのがいけなかった様だ。

 体は想像以上に疲れていたらしく、そのままぐっすりと眠ってしまったらしい。


 周りを見渡せば、千代やスズがスヤスヤと寝息を立てて眠っている。

 いつもの日常に帰って来たと、ホッと安堵の溜息が漏れた。

 布団からはみ出した、スズのいつもの寝相の悪さに、従軍している間中つり上がりっぱなしであった両の頬も緩んだ。 

 小腹が空くのを感じ、せめて水だけでもと床を立つ。

 スズに布団を被せ、部屋を後にした。


 「眠れないのか?」


 突然後ろから声をかけられ、お菊は飛び上がった。

 慌てて声の主を探せば、廊下の手すりに腰掛けた才太であった。

 

 「驚かせんといてぇな、才太様……」

 「悪い……」


 そんなつもりはなかった才太は、すぐに謝った。

 

 「才太様は何をなさってますの?」

 「いや、月が綺麗だと思ってな。」

 「ふぅん。せやけど、ここで見る必要はないんやないかなぁ。」

 「偶々だ!」


 お菊は、分かってはいたが才太を茶化した。

 この屋敷でも警護をしてくれているのだろう。

 行軍の間も、帰りの道のりも、常に気に掛け、危険から守ってくれていたのだ。 

 松陰に頼まれたとはいえ、才太が義理堅い事に変わりはない。

 今もそうなのだろうが、それを悟られない様に慌てて取り繕う姿に、ふと笑いが漏れた。

 そんなお菊の様子に若干頬を赤らめ、重ねて才太は言う。   

 

 「で、お前は眠れないのか?」

 「帰ってから一眠りしたのがあかんかったんか、目が覚めてしもうたんです。水でも飲もうかと思って――」

 「そう言えばお前は夕餉ゆうげを取っていなかったな。相当疲れていたのだろう。疲れには甘い物がいいそうな。おお! 丁度いい具合に、俺は甘い物を持っているんだった。ほれ、これをお前にやろう!」


 お菊の言葉を途中で遮り、才太が一気に言い放つ。

 それと共に懐から何かを取り出し、お菊に手渡した。

 お菊はそれをじっと見つめ、正体がわからず、才太に尋ねた。


 「何ですの?」

 「”ばなな”というここの果物だ。甘いぞ。」


 言うなり才太は、手に持ったバナナの皮を剥いてみせる。

 そして一口に頬張り、ムシャムシャと飲み込んでしまった。

 お菊は呆気に取られたが、小腹が空いているのも確かである。

 才太を真似て皮を剥き、恐る恐る口にした。

 途端、口の中にバナナの香りと甘さが広がる。

 思わず笑みがこぼれる、そんな甘さであった。


 「甘いわぁ。」


 言いつつパクパクと口にし、あっという間に食べ終えてしまう。

 

 「皮は食えんぞ。」


 名残惜しげに手元の皮を見つめるお菊に、真面目な顔で才太が言った。


 「才太様はウチを何やと思うてますの?」


 ジト目で睨む。

 

 「いや、何、冗談だ! 足りないのなら、まだあると言いたかったのだ!」


 そう言って慌ててもう1本のバナナを取り出し、お菊に渡す。

 お菊はジト目を向けたままバナナを受け取り、皮を剥き、口にした。

 ジト目から一遍、打って変わって相好を崩す。


 「やっぱり甘いわぁ~。」

 「水もあるぞ。」


 お菊の機嫌を損ねないうちに、才太は瓢箪に入れた水を手渡す。

 お菊はありがたく頂戴し、乾いた喉を潤した。


 小腹を満たし、人心地ついたお菊は、黙って才太の隣に腰を下ろした。

 才太は居心地悪げに横を向いたが、逃げ出す様な事はしない。

 長い時間沈黙が漂ったが、それを先に破ったのはお菊であった。


 「ねえ、才太様?」

 「何だ?」

 「ウチ、鉄砲鍛冶になりたいやなんて言うとったけど、自信がのうなりましたわ。あないなモン見せられたら、恐ろしうて大砲なんてよう作りきりまへんわ……」


 思いつめた顔で告白するお菊。

 才太は、戦いが終わってから始まった、お菊の暗い顔の理由がわかり、納得した。

 あの戦場を思い返し、それを当然だと思った。

 何故なら、突撃してきた清兵に向かい、至近距離からカノン砲をぶっ放したのであるから。

 そこに広がっていたのは、阿鼻叫喚の地獄絵図であったのだから。

 まともな神経をしていたら、その原因たる大砲を作りたいなんて思わないだろう。

 鉄砲は狩りにも使える道具であるが、大砲は人を殺すだけの道具なのだから。 


 さらし首やはりつけといった物は見慣れたお菊にとっても、あの戦場は刺激が強すぎた。

 エドワードの船の上でも、大砲によって人は死んだ。

 しかし、敵艦を沈めて人を殺したといっても、そこに直接の死者は見えなかったので、そういう思いを抱かずに済んだのだろう。

 それが、大砲を人に向かって発射するという、あの戦場である。

 その瞬間も、その結果も目にしたとあっては、大砲その物への恐怖心が生まれてしまっても仕方無いだろう。

 好奇心からこの旅についてきたお菊であるが、今はそれすらも後悔しているくらいであった。

 

 それが容易に理解できる才太に、お菊にかける言葉は見つからない。

 あの様な戦を戦って、強力無比な大砲を多数揃えている西洋の力を想像したにも拘らず、だ。

 今ならば、松陰の口にした懸念がわかる。

 どれだけ強い侍を用意しようが、大砲の数の前には無力であろう。

 

 しかし、それとこれとは話が別だ。

 誰かがやらなければならない? 一貫斎の孫だからといって、お菊にやらせなくてもいいだろう。

 人殺しの道具なのだから当然? やはりお菊に押し付ける理由はない。

 国を守る為? それなら尚更女の背に背負わせる訳にはいかぬ。

 

 どう言葉をかけたらいいのか分からず、才太は悩んだ。

 悩んだ末に、やっとの事で言葉を紡いだ。


 「お前は女だ。女は子を産み、育てるのが、天の定めた役割だろう。人殺しの道具を作る必要はないんじゃないのか?」

 

 お世辞一つ言えない不器用な男であるのは分かっている。

 これも本心なのだろう。

 お菊は、才太の言葉を素直に受け取った。 

 

 月の明かりの下、静かに夜が更けてゆく。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ