美味い物を求めて
被差別階級民が登場しますが、この作品では差別を助長する意図はありません。
穢多という単語も、歴史上の事実として描写しております。
ご不快になられる方には、誠に申し訳ないと言うしかありません。
萩の町外れに二人の少年の姿があった。
ずんずんと進んでいく人物の後ろを、もう一人がおっかなびっくり追いかけているといった風の二人組である。
後を追う方の少年は、前を歩く背丈の低い少年を必死に止めようとしていた。
二人が歩いているのは萩の町並みから離れた川原である。
「大次、止めようって!」
「心配はご無用です、兄上。」
「いや、でも、ほら、臭いじゃん!」
「それは元より承知の上です。ですが兄上、それは彼らの前では口になさらない様お願いしますよ。」
「彼らって! それに、ここに来た事が父上にばれたら大変な事になるって!」
「それもわかっております。ですがこれは香霊大明神のお告げにあります故、私には拒否できぬ事なのです。」
「また変な事を言う……」
「香霊様を変なとは失敬な! 失言ですぞ兄上! 香霊様の素晴らしさを兄上はご存知ないのです! ああ、悔しい! 兄上に香霊様の持っているお力を知っていただきたいのにそれが出来ない! 私は何と無力なんでしょう!」
「大次は何を言ってるの? 大丈夫?」
「すみません、香霊様の事を考えて取り乱しました。それに兄上、引き返すのももう遅い様ですよ。」
「え?」
梅太郎は大次郎を止めるのに必死で気づかなかったが、二人は既に、粗末な掘っ立て小屋の如き家々が立ち並ぶ一角まで来ていたのだ。
あちこちの小屋の中から思わず鼻をつまんでしまう程の悪臭が立ち上っている。
そんな小屋からぞろぞろと、伺う様な、恐れる様な表情を浮かべた大人達が這い出し、二人を半ば取り囲む様に立っていた。
彼らの背後に立つ別の小屋からは、何が起こったのかと無邪気な表情を浮かべた子供達が顔を出して二人を見つめ、それを咎めて小屋の中に押し戻す母親らしき女性達の姿もある。
梅太郎は恐怖で足が竦んだ。
そんな梅太郎の様子を知ってか知らずか、堂々と大次郎は述べる。
「私は萩藩無給通杉百合之助の次男にして、萩明倫館山鹿流兵学師範になるのが将来決定済みの吉田家当主大次郎と申す。隣にいるのは私の尊敬する兄であり、杉家次期当主梅太郎。ここの長はおられるか!」
無給通とは長州藩の藩士の身分の一つであり、藩主とその一門、家老、寄組、大組に継ぐ身分である。
下級ではあるが立派な士族である。
その下には足軽、中間があった。
中間ともなれば卒といって、侍とは言えない身分であった。
「へえ、あっしです。それで、お侍様がわざわざここにお越しになられたのは、一体何の御用で?」
大次郎の言上にひたすら恐縮し、誠にもっておずおずといった長の問いかけに対し、大次郎はにやりと笑うと一言言い放つ。
「美味いものを食いにきた!」
隣の梅太郎はもとより、その場にいた誰もが自分の耳を疑い、次にその言葉が果たして何を意味しているのか考え、その意味する所が理解できなかったので皆して梅太郎を見つめた。
見つめられた梅太郎は自分もわからないと身振りで必死に否定している。
コイツは一体何を言っているんだ?
という表情を浮かべた一同を、大次郎はニヤニヤとした笑みを浮かべて眺めているだけだった。
「お侍様には甚だむさ苦しいあばら屋であるかと思いやすが、どうぞお座りやす。」
二人は長の家の中にいた。
言葉通り、確かにむさ苦しいあばら屋である。
外と内を仕切る物は吊るしたムシロ一枚であるし、薄い板で覆われただけの壁は所々に小さい穴が開き、隙間風が入り込んでいる。
中央に囲炉裏があるだけの家は狭く、僅かな家財道具があるのみだ。
そして家の周りにはザワザワと人の気配があり、中の様子を伺っているのが丸わかりであった。
ムシロの間から露骨に中を覗く子供もいたが、気にしても仕方無い。
今二人がいるのはいわゆる穢多と呼ばれる者達の集落であるからだ。
穢多とは士農工商穢多非人のエタである。穢多の言葉通り、神道的な観念で忌避される血を伴う動物の解体等、穢れると考えられた仕事に従事した、させられた者達の呼び名である。
動物の解体だけではなくその皮をなめし、また刑場での遺体の片付け等誰からも忌避される汚れ役を担う事が求められた。
江戸末期ともなれば金に困った士族の身分も売買され、商人や職人、豪農も侍になれる様になっていたが、穢多にその様な事は不可能であった。
穢多に生まれた者は死ぬまで穢多である。
仏教的な殺生の忌避感、神道的な血への穢れ意識がそういう職に携わる、携わる事を余儀なくされた彼らを差別した。
士という身分を別にして、それ以外の農工商は職による区分であり、身分ではないというのが最近の定説であるが、穢多非人は明らかに別の身分であった。
四民とは別に位置する被差別民であったのだ。
また穢多は穢多の中で細分化され、それぞれが差別、被差別の複雑な関係を作り出す。
そして皮のなめしは非常に臭う作業を伴い、彼らの集落は町から離れた川原等に定められていた。
卑しい者と結婚すれば血が汚れ、一生綺麗にならない。
穢多の子はいつまでも穢多である、といった差別意識も持たれ、従って彼らの集落を訪れる者など皆無であり、尚更藩校明倫館の師範になろうかというお侍がやって来るなど前代未聞の珍事であったのだ。
気にするなという方が無理である。
しかし中にはその目に憤怒を秘めた者もいた。
穢多というだけで惨めな扱いをされ、酷い侮辱を受け続けてきたのだ。
もし、興味本位で覗きに来た、なんて輩がいればどんな事を仕出かすかわかったものではない。
梅太郎もそれがわかっているからビクビクしていたのだ。
そんな家の外の騒がしい雰囲気を尻目に、大次郎は思った事を口にする。
「煮炊きする為の道具が見えないが、食事はどうしているのだ?」
「へえ。共同の炊事場がありまして、この部落の皆の分をまとめて煮炊きしておりやす。」
「なるほど、それは合理的だな。」
「はあ、合理的、でやすか?」
褒められるとは思ってもいない長は、首を傾げる。
大次郎の言っている意味が良くわからない。
「うむ。共同で炊事すれば薪も少なくて済むし、無駄になる物も少ない。それに同じ釜の飯を食えば仲間意識も育まれる。何より、皆で食った方がより美味いというものよ。」
「へえ。ここでは協力しないとやっていけないもんで……」
「なるほど。集落で協力とは素晴らしい。結束が固いという事だな、結構結構。真に好都合。」
大次郎は一人大きく頷いている。
長は段々気味が悪くなってきた。
この侍は一体何を考えているのだろうか。
気になる事は早く聞いた方がいいだろう。
「それで、お侍様が言っていやした、美味い物を食いに来た、というのは一体全体どういう意味でやすか?」
「言葉通りの意味だが?」
「お侍様が美味いと思う物がここにあるとは思いやせんが?」
長は心底わからないといった風である。
しかし、大次郎は構わず続ける。
「おぬし等、斃死した牛馬の皮をなめしておるのではないか?」
「へえ。確かになめしておりやす。」
「ならばあるはずであろう? 皮を剥いだ後に残る牛馬の肉と内臓が。」
「ええ、まあ、確かにありやすね……。まさか?!」
それを聞き、満面の笑顔になる大次郎。
大次郎の様子に思わず絶句する長。
梅太郎も信じられないという表情で大次郎を見つめる。
「そう、そのまさか。美味い物とは牛馬の肉と内臓よ!」
「大次!? 何言ってるの?!」
大次郎の宣言に梅太郎は思わず声を荒げた。
家の外で中を伺っている大人達もざわついているが、梅太郎は気が回らない。
日本で仏教が広まるにつれ、仏教が殺生を忌避した影響で肉を食べる事はおおっぴらには広がっていなかった。
たまに畑に出没する猪、鹿といった害獣は駆除され農家の食卓に上っていたが、武士の食卓にはまず上らない。
武士の家でも鳥や魚、足のない鯨には忌避感は少なかったが、牛馬ともなれば話は別である。
何せ馬は戦で必要な大事な乗り物であり、牛は農耕に必要な畜力であったからだ。
武士の給与はお米であり、そのお米の生産を行う水田では牛が大事な労働力である。
その為、当時は牛も馬も食べる為に殺す事は禁止され、寿命や病気、怪我等で死んだ牛馬しか皮加工には回されなかったのである。
牛馬を食べるという意識そのものが生まれなかったと言っていいだろう。
鎧兜の製作で革を常に大量に必要とした戦国時代ならばいざ知らず、生類憐れみの令といった法が出される天下泰平の徳川治世では牛馬の革は常に不足していた。
なお、牛馬の皮革が供給されていたという事は肉も大量に出るという事である。
皮革の供給地においては肉が消費されなかったはずはない。
戦国時代では各国が鎬を削って軍備を整えていたのであるから、各国がそれぞれ鎧兜を作っている。
日本各地で牛馬の肉は消費されていたはずである。
飢饉も当たり前であった当時、仏教の教えに従って、目の前の皮を剥いだ残りの肉を、みすみす捨てる者がいるはずがないのだ。
それ故、日本人の体格は、戦国時代から江戸に移ると小さくなったという調査結果もある。
太平の世にあって鎧兜は作られずとも、太鼓や三味線、雪駄の裏打ち、袋、防火用の衣服などに牛馬の皮革は必要とされた。
しかし牛馬を殺して供給するわけにはいかない。
従って革の値段は高く、皮革を取り扱った江戸の穢多の元締めなどは下手な大名よりも財力があり、金貸しをして儲けていた様である。
しかし、豊かな者もいる反面、貧しい者がいるのも現実である。
ここ萩の穢多の集落は貧しい者が多かった。
そんな武士には禁忌であった牛馬の肉を食べる?
梅太郎には大次郎の考えている事が理解できなかったが、そんな梅太郎の反応を大次郎は織り込み済みである。
「兄上、我が藩主毛利家を大大名に育て上げた元就公は牛も馬も食べておりましたよ。篭城して兵糧が足りなくなれば牛も馬も食べて戦い続けて勝ち続けたのですよ。元就公を否定なさるのですか?」
元就公の名を出されてはぐうの音も出ない。
もっとも、元就公が牛馬を食べていたのか食べなかったのか、全く梅太郎は知らないのであるが、大次郎の断言に反論できない。
大次郎は続けて畳み掛ける。
「それに、譜代である彦根藩は今も薬食いと称し牛を食べておりますよ。赤斑牛だけは食べても穢れないと屁理屈をつけて。しかもその味噌漬けを毎年将軍様にも献上しておりますよ。」
「本当なの大次?」
「ええ、本当ですとも。」
そうなのだ。
人を殺しまくっていた戦国時代の武将達が仏教の殺生の戒めなど気にするはずもなく、四足だといって忌避するはずもない。
そもそも僧侶が武器を持ち戦っていた時代だ。
また、江戸時代であっても、彦根藩以外でもおおっぴらではないが肉食はされていた。
武士でさえそうであったのだから、庶民の間では言うまでもない。
しかし、そうは言っても、と思う梅太郎である。
そんな梅太郎の葛藤を無視し、大次郎は長に迫る。
「そういう訳だ、長。隠しだけは為にならんぞ?」
梅太郎の思いも届かず大次郎はそう言って長を睨む。本人としては目で射殺すつもりの迫力を出したつもりであったが、大次郎と梅太郎の話を呆然となって聞いていた長は、気の抜けた声で「へえ」とだけ答えて家を出て行った。
「ねえ、本気なの大次?」
「本気も本気、全く持って本気ですよ。本の気と書いてマジと読むのですよ、兄上。」
「意味わかんないし。でも、牛と馬の肉と内臓って……」
「まあまあ兄上。何も兄上に食べろとは言いませんから。」
「え? そうだったの? てっきり一緒に食べさせられるものとばかり思ってたから反対したんだけど?」
「えー、ふーん、そうなのですかー。兄上は自分さえ良ければ私の事はどうでもいいのですねー。なるほどなー。」
「いや、違うよ! そういう意味じゃなくて! それに、食べたいのは大次じゃないのさ!」
「冗談ですよ、兄上。」
「もう!」
梅太郎は怒って横を向いてしまった。
大次郎もやり過ぎたかと頭をかいた。
そこでふと視線に気づき、その方を見やる。
そこには長が出て行った扉とも呼べないムシロの間から、一人の幼い女の子がじっと二人を見つめていた。
どうやら家の周りで様子を伺っていた大人達も子供達も長に付いて行ってしまったらしく、その女の子を咎める者はいないらしい。
と言っても大次郎も梅太郎もその子を咎める気は全く無いのであるけれども。
それどころか、千代の昔を思い出し、思わずおいでおいでをしてしまう。
その子も大次郎の手招きにトコトコと家の中へと入って来る。
見たところ5歳くらいであろうか。
可愛らしい少女であった。
全く人見知りはしない子らしい。
服はボロボロでおまけに裸足、顔も手足も泥か何かで汚れているが、顔も手足もふくよかであった。
穢多の者は、差別はされていたが日常的に肉を食べていたので、体格も良い者が多かったのである。
「だーれ?」
女の子が聞いてくる。
そっぽを向いていた梅太郎も女の子に気づいた様だ。
「私は吉田大次郎、こちらは兄の杉梅太郎と申す。して、そなたの名は何というのだ?」
「そなたって?」
「すまぬ。お主の事だ。」
「あたし? あたしはスズ。」
「そうか、スズか。いい名だな。よろしくな。」「よろしくね。」
「うん!」
スズは元気一杯そう応えた。
「こら! スズ、何しとる?!」
「あ、おっとう」
誰かと思えば長が帰ってきていた。手には湯気を上げる鍋を持っている。
「これ、スズ、あっちに行っとれ!」
「まあまあ、長、構わないから。ほれ、スズ、お菓子食べるかい?」
「わーい!」
大次郎は懐から袋を取り出した。
スズは大喜びでそれをもらう。
「これ、スズ! 止めなさい!」
「あ! それ、千代へのお土産じゃん?!」
「まあまあ。千代にはまた買うから。」
「勿体のうございます。ほれ、スズもお礼を言わぬか!」
「ありがと、お兄ちゃん!」
「「お兄ちゃん?!」」
「はっはっは! お兄ちゃんか! これは結構!」
「これ、スズ!」
「長、問題ない。それよりも早くその鍋を!」
「へ、へえ。」
大次郎に貰ったお菓子を大次郎の膝の上で食べるスズ。
大次郎はそれには構わずじっと鍋を見つめるのだった。