夢で逢えたのに……
『起きて! 起きてよ、純!』
床に横たわる俺の隣で、一人の女が俺の体を揺すり、泣いていた。
俺は、それを二人の上から見下ろしている。
この時代に転生してからも何度か見た、俺が死んだであろう時の光景だ。
彼女は間違いなくカレーの妖精さんだろう。
当時俺に付き合っていた女性はいなかったし、そもそも二頭身の人間が実在するとも思えないから。
彼女は愛らしい二頭身の体を揺らし、必死で俺を起こそうとしている。
彼女の顔に見覚えはないものの、彼女から感じるのは堪らない程の空腹感だ。
彼女を見ていると、俺特製のカレーが、その匂いまでもはっきりと漂ってくる様で、思わず込み上げる唾液に喉が鳴ってしまう程なのだ。
こんな女性はカレーの妖精さん以外に有り得ない。
いつも俺のカレーを熟成させてくれていたであろう、俺の部屋に住んでくれていたであろう妖精さんで間違いない。
俺はそう確信する。
そんな妖精さんが泣いている。
俺が死んでしまったから、なのだろうな……
泣かないでくれ!
そう言いたいが、喉に何か詰まっているかの様に声を出す事が出来ない。
俺は大丈夫だから!
肩を叩いてそう元気づけたいが、足に杭が刺さっているかの様に動かない。
俺は、起きない俺の横で泣いているカレーの妖精さんを、ただ眺めている事しか出来なかった。
『日本に生れし妖精カオルコよ。この度の召還の意味、わかっておろうな?』
偉そうな言葉遣いの二頭身の生き物が、妖精さんに向かい、尋ねている。
いつもは妖精さんが泣いている所で終わっていたが、今回はその先へと進めたようだ。
妖精さんの名前はカオルコらしい。
芳しいカレーの香りが漂ってくる様で、妖精さんにぴったりな良い名前だと思う。
その二人は、俺の部屋からは場所を移し、何やらメルヘンチックなスパイシーな雰囲気が漂う、カレーを象徴する様な世界で向かいあっていた。
遠くの野原には花が咲き乱れ、風に乗ってカレーのいい香りが運ばれてくる。
道に沿って立ち並ぶ家々は、カレーを入れるポットの様で、中がどうなっているのか少々不思議だが、カオルコさんを彷彿とさせる、愛らしい妖精らしき人達が出入りしていた。
そんな世界で、カオルコさんに勝るとも劣らない、馥郁としたカレーの香りを想像させる、誠に食欲をそそられる人物がカオルコさんに向かいあっていた。
二人は広場らしき場所で、二人を囲む様に集まった大勢の妖精さん達の真ん中にいた。
『わかっています、精霊主様。』
地面に正座していたカオルコさんは、畏まって答えた。
偉そうな相手は精霊の主だった。
妖精よりも精霊の方が偉いようだ。
その主というから精霊の中で一番偉いのだろう。
そんな精霊主はカオルコさんの追及を続ける。
『人の祈りを受け、人の世に降臨せし我らであるぞ。それを忘れ妖精の身でありながら、偉大なる香霊様より授けられた神聖なる熟成の力を、よりにもよって己の欲望の為に使うとは!』
『ご、ごめんなさい!』
カオルコさんは必死で謝っている。
というか、やはりカオルコさんが俺のカレーを熟成させてくれていたのか!
ありがとう、カオルコさん!
やっぱり君が俺の天使だったんだね!
熟成の力を自分の欲望の為に使ったっていうのがよくわからんけど、そんな偉そうなヤツの言う事なんか気にする事ないから!
『しかも、それによって、あろう事か人が死ぬ事態を招いてしまうとは!』
『うっ! う、うぅぅぅ。じゅ、純! ご、ごめんなさいぃぃ。私が余計な力を使っちゃったばっかりにぃ、純が、純がぁぁぁ』
カオルコさんは泣きだしてしまった。
愛らしい大きな瞳から大粒の涙を流し、嗚咽と共に泣いている。
カオルコさんを泣かせたな!
俺は激昂し、精霊主とかいう偉そうなヤツに掴みかかろうとしたが、俺の足はまるで動かなかった。
『泣くのを止めよ、カオルコよ! 香霊様の御前であるぞ!』
精霊主に咎められ、ビクッとしたカオルコさんは、歯を食いしばって嗚咽を押し殺した。
しかし、その真っ赤になった瞳から零れ落ちる、大粒の涙を止める事までは出来ていない。
そんな健気なカオルコさんの様子に、俺の胸は苦しくなる。
『カオルコよ、香霊様より下された沙汰を言い渡す。』
『ま、待って下さい! 私の事はどうなっても構いません! でも、純だけはお救い下さい! 純を助けて下さるよう、香霊様にお伝え下さい! お願いします!』
カオルコさんは額を地面に擦り付け、大声で叫んだ。
カオルコさんの必死さが伝わる声だった。
思わず目頭が熱くなる。
そこでふと、こうして俺が転生できたのは、カオルコさんの必死の願いが香霊様に通じたからなのか、と思った。
だったらカオルコさんは?
不吉な予感に寒気が走った。
『カオルコよ、それは全てお前の心がけ次第だ。』
『それじゃあ!?』
『早合点するでない!』
『はい!』
心がけ次第という前向きな言葉に、目を輝かせて喜んだカオルコさんであったが、精霊主はそんなカオルコさんを即座に叱り付けた。
そして続ける。
『まずは香霊様より下された沙汰を言い渡す。お前は人の世界に生まれ落ち、100年に渡って香辛料挽きとして生きよ。』
『人の世に? 100年?』
『返事は?』
『は、はい!』
100年の間香辛料挽きとして生きる?
香辛料挽きというのがよく判らないが、100年は長すぎではないのか?
そう文句を言いたいが、声も出せない。
『この度の騒動は、お前の、熟成の力の乱用である。それに巻き込まれて命を落としてしまった者への謝罪と、人の世に混乱を生んでしまった事への償いの意を込め、誠心誠意挽くのだぞ?』
『……肝に銘じます。』
『香霊様は慈悲深いお方だ。お前もそれは良くわかっておろう?
全てはお前の心がけ次第だぞ?』
『はい!』
そう力強く返事をしたカオルコさんの目には、涙の跡は残っているものの、覚悟を決めた者が持つ、決意に満ちた光が宿っていた。
こうして、カオルコさんの裁きは終わった。
やはり、俺が転生出来たのは、カオルコさんの祈りが香霊様に通じたから、なのだろう。
カオルコさんの、100年の贖罪が果たされた、のか?
幕末日本の吉田松陰に生まれ変わったのは意味がわからないが、だとしたらカオルコさんは……。
そんな俺の疑問はすぐに解消された。
夢は続き、今度はどうやらインドであった。
旅行で訪れた際のインドの町並み。
その時の町並みに良く似た景色が広がっている。
しかし、車や電線が全く見えず、高層建築物は一切見当たらず、煌びやかな看板も、鬱陶しい物売りもおらず、旅行の時よりも随分と昔らしいが、前世で俺が見た、インドの町並みそのものであった。
牛が優雅に街を散歩し、その間を縫って通行人が歩き回り、ボロを纏った物乞いが彼らに何がしかの恵みを乞うている。
現代的なカオスっぷりや慌しさはないが、誠にインドであった。
そんなインドの名も知らぬ町の、通りからは離れた貧民が暮らす一画で、カオルコさんの新たな”人”生は始まった。
カーストの下層、香辛料を挽く人生だ。
香辛料挽きとは、カーストの一つだったのだ。
俺の名と共に『ごめんなさい』と謝りながら、『カレーが美味しくなりますように』と祈りながら、物心もつかないうちから、毎日毎日朝から晩まで、一心不乱に香辛料を挽き続けるだけの人生。
周りが呼びかけてもまともな反応も返さず、食事もそこそこに、与えられた香辛料を挽いていくカオルコさん。
目覚めたら挽き始め、寝るまで変わらず挽き続ける。
そんなカオルコさんを親すら気味悪がり、当然結婚などする事もなく、黙々と香辛料を挽いてゆく。
時に男に生まれて粉を挽き、時に女として生まれても粉を挽き、姿形を変えながらも、およそ100年に渡り香辛料を挽き続けたカオルコさん。
俺はそれを、まるで映画を早送りにする様に見せられながら、カオルコさんの贖罪を見守った。
100年と分かったのは、日本で俺が生まれた事を、何故か感じたからだ。
カオルコさんの贖罪は終わったのだ、そう思った。
ホッとすると共に、カオルコさんへの感謝の想いが溢れ出す。
100年もの間、一日も欠かさず、俺への祈りを続けてくれたのだ。
そのお陰で俺は、この世界に生まれる事が出来たのだろう。
カレーが無いのは仕方無い。
寧ろ、念願叶って出会えた時の喜びは、天にも昇る気持ちになるに違いない。
そんな機会を与えてくれたカオルコさんには、いくら感謝しても足りないくらいだ。
しかし、と思う。
俺は生まれ変わる事が出来たのだが、カオルコさんは一体どうなったのだろう?
俺が生まれた事を感じてから、カオルコさんの事はわからなくなってしまった。
急に見ていたテレビが消えてしまった様に、カオルコさんの様子を見る事が出来ない。
まさか、カオルコさんとは会えないのか?
贖罪が済んだら、罪は許されるのではないのか?
まさか再び妖精に生まれ変わる?
そんな馬鹿な!
俺の天使に、この感謝の気持ちを伝える事は出来ないのか?
俺の天使と共に、美味しいカレーを食べる事は出来ないのか?
……。
カオルコさん!




