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幕末香霊伝 吉田松陰の日本維新  作者: ロロサエ
アヘン戦争台湾編
83/239

夢でカレーに逢えたのに

 「ナンさん、起きて下さい! お昼ですよ!」


 男の声がすると同時に肩を揺らされ、南原純は目を覚ます。

 悪い夢を見てうなされたらしく、全身がじっとりと汗をかいている。

 目覚めた純は周りを見渡した。

 どうやら職場の会議室の様だ。

 

 「あれ? ここは?」

 「会議はとっくに終わりましたよ。全く、よく気づかれないものですね。それだけは感心します。」


 同僚のハーンは感心すると口では言いながらも、馬鹿にした口調であった。

 純はそれを聞き流し、先程まで見ていた夢を思い出す。 


 「酷い夢だった……」


 悪夢であった。

 江戸末期、長州藩士の吉田松陰に生まれ変わったのだが、周りには当然の様にカレーが存在しなかった。

 初めはその状況に絶望しているだけだったが、ある事を切っ掛けに、愛するカレーを求めて日本の鎖国を解く事を決心する。

 様々な歴史上の偉人達に出会いながら、アヘン戦争を見物しようと立ち寄った台湾で、奇跡的にもイギリス製のカリィに遭遇する事が出来た。

 そして、期待に胸を大きく膨らませ、スプーンで一口カリィを味わってみれば、それはまるで味のない香りだけの偽物だったのだ。

 

 有り得ない!

 カレーへの冒涜だ!

 

 そう叫びたい気持ちを必死で押さえ、まるで拷問の如く味のしないカリィを食べ続けた。

 

 「ナンさん、今日のお昼はどこで食べるのですか?」


 先程までの悪夢を思い出し、ぞっとしていた純にハーンが聞いてきた。

 何を、と聞かない所がミソである。

 カレーであることは分かっているので聞きもしないのだ。

 同期として一緒に入社してよりこのかた、お昼はほぼカレーであるので当然であろう。

 純はハーンの質問に暫く考え、答えを出した。


 「”マハラジャ”に行くよ。」

 「じゃあ、私もご一緒しますよ。」


 ”マハラジャ”は会社近くのインドカレーのお店である。

 お昼にスパイシーなカレーを食べたい時には、いつもここに来ていた。

 けばけばしい色彩で彩られたお店の外観と同じ様に、店内もまたカラフルであった。

 常連として顔を覚えられている純は、半ば指定席の様になったいつもの席に腰掛け、いつものメニューをオーダーした。

 

 「ナンさんは、やっぱりナンなのですか?」


 ハーンがおどけた口調で言う。

 いつもの事である。

 それに応えて純も言い返す。


 「そういうハーンさんは、やっぱりご飯なの? インド人なのに?」

 「ナンさんは日本人なのですから、ナンではなくて私と同じ御ハンにするべきでは?」

 「インドカレーにはナンでしょ! この似非インド人め!」

 「残念でしたぁ。私は生まれも育ちも日本ですしぃ、母は日本人ですしぃ、紛れも無く日本人ですぅ。それに英語もヒンドゥー語も喋れませぇん!」

 「いや、ウチって外国とも取引あるんだし、英語くらいは喋ろうよ!」


 いつもの場所で、いつものやり取りを交わし、いつものメニューがやって来る。

 日替わりカレー2種とタンドリーチキン、サラダのセットに、まずはチーズナンである。

 ナンはお替り自由だが、最初はチーズなのだ。

 テーブルに並べられたお皿からスパイシーな香りが漂い、鼻をくすぐる。

 懐かしい、とても懐かしい香りであった。


 「それでは早速頂きます!」


 顔の大きさくらいはあろうかというアツアツのチーズナンを引き裂き、まずは一つ目、チキンカレーへと浸し、期待に胸を弾ませ、頬張った。

 途端に驚愕が純を襲う。

 まるで味がしないのだ。

 慌ててナンを引きちぎり、もう一つの野菜カレーに手を伸ばす。

 しかし、こちらも味がしなかった。

 懐かしいカレーの香りはするのに、味が感じられない。

 これではまるで、まるで……

 純は気が遠くなりそうであった。

 そんな純に声がかかる。


 「どうしたんですか、ナンさん? あれ程好きなカレーなのでしょ? 食べないんですか?」


 顔を見上げてみれば、ガツガツとカレーを貪るハーンがいた。


 「いや、このカレー、まるで味がしないんだけど……」


 力のない声で言う。

 そんな純の言葉に対し、ハーンは純のカレーを奪い取り、食べ始めた。

 バクバクと純のカレーをみる間に平らげていく。

 そして全てを喰らい尽くし、大声で怒鳴る。


 「何を言ってるんです? 美味しいですよ! こんな美味しいカレーに味が無いなどと!」

 「いや、でも、本当に味がしなかったんだって!」

 「まだ言うのですか! あれ程カレーが好きだと言っておきながら、この薄情者め!」


 反論する純にハーンは吐き捨てる様に言い放つ。

 そして、ふと何かを思いついたとでも言う様に、


 「そうか、これは罰なのですね。」

 「罰?」

 「そうです。誓いを破った罰です! 誓いを守らなかった罰として、一生カレーの味が判らなくなったのです!」


 と言った。

 ハーンの言葉に衝撃を受ける純。

 それは、意識してその事を考えないでいた純の心を嘲笑い、余りに無慈悲で、余りに残酷な、突然の死刑の宣告にも似た響きを伴っていた。 

 衝撃の余り身動き一つ取れないでいた純を置いて、ハーンは言葉を続ける。


 「何がカレーの天使ですか! 何が虐げられたインドの民ですか! アナタの誓いは所詮その程度の物だったのですよ! 他人にそれっぽい事を言われれば、のこのこ破ってしまう、そんな安っぽい物だったのです!!」


 ハッとして目が覚めた。

 ボウッとした頭で暫く考え、ようやく夢であった事を知る。

 未だに熱は下がっていない様だし、下腹部を中心とした鈍痛と全身を包む倦怠感があったが、吐き気と便意は消えていた。

 それに、見上げる天井は、やはり朱の屋敷の部屋のそれだった。

 起き上がる気力も無いので、寝たまま顔だけを左右に振る。

 見える範囲に人は寝ていない。

 一時は数名の者が部屋を共にしていたが、その者らも無事快復したらしい。


 松陰はそれを察して安堵し、目を瞑り、さき程の夢を思う。

 前世で同僚であったハーンの言葉は、やはり自分の心なのだろう。

 お菊に懇々と諭されたとはいえ、あれ程強く心に誓った誓いを破ったのは他ならぬ自分自身なのだ。

 それに対して何の言い訳が出来よう。

 しかし今も頭に浮かぶのは、夢に出てきた”マハラジャ”のカレーだ。

 夢の中では味がしなかったが、それはエドワードの船での強烈な体験のせいで摩り替わってしまったのだろう。

 週に何度も食べた、あの”マハラジャ”のカレー。

 そして、一度前世のカレーに思いを馳せてしまえば、遂に食べる事が叶わなかった、あの愛しい自家製カレーへと思い至るのだ。


 「カレーが食べたいなぁ……。カレーの妖精さんが熟成させてくれた、ウチ特製のカレーがなぁ……」


 途端に目頭が熱くなり、閉じた瞼の両端から熱いモノが零れ落ちる。

 両の手の甲で溢れる涙を必死で止めようとするが、一旦騒ぎ出したカレーへの慕情は、生半可な事では静まる事は無い。

 歯を食いしばってそれに耐えようとする。

 どんなに恋焦がれようとも、今、それは手に入らないのだから。

 ここで自分の欲望に身を任せ、安直にインドへでも行こうものなら、ここまで自分を育ててくれた今の両親への恩を返す機会を失い、大切な兄と妹達とも別れなければならなくなるだろう。

 海禁政策を続ける幕府である。

 海外への渡航は命がけなのだ。

 今、それに逆らって皆して台湾にいるが、それはそれ、これはこれであろう。

 嵐に遭って遭難していたという言い訳で乗り切る予定なのに、香辛料を船一杯に積んで帰国する訳にはいくまい。 

 それに、一度はそれで済んでも、二度はあるまい。

 恒常的に香辛料を手に入れなければならないのに、幕府に目を付けられるのは必至だ。


 松陰は考える。

 自分がこんな思いをしないといけないのは、一体誰が悪いのか?

 答えはすぐに出る。

 それは海禁政策を続ける幕府である。

 幕府が国を開けば、大手を振ってインドへ香辛料を買いに行けるのだ。

 西洋人の植民地主義のせいである。

 イギリスがインドを植民地にして搾取しなければ、罪悪感に苛まれる事なく、お金のある限り香辛料を買えるのだ。

 そして、イギリス人の味音痴のせいである!

 イギリス人がまともな舌をしていれば、そもそもあんなカリィを味わわずに済んだのだ!

 あんな夢を見ずに済んだのだ!!


 いつの間にやら涙は止まっていた。


 そして、イギリス人の舌にやり場の無い憤りを感じながらも松陰は思い出す。

 前世、日本のカレーに嵌るイギリス人の事を。

 つまり、イギリス人も本来は味音痴ではないはずなのだ。

 日本のカレーを旨いと感じる、味わう事が可能な舌を持っているはずなのだ。

 だから、あんなカリィしか食べる事が出来ない、あれで良いと思っているらしい彼らは、とても不幸な身の上なのだ。

 

 そこまで考え、神託にも似た、あるイメージが松陰に舞い降りる。


 イギリス人の味音痴。

 それは世界中に植民地を広げ、その富を飽きる事無く貪る彼らに科せられた、神の罰なのかもしれない、と。

 七つの大罪の一つである暴食は、何ゆえに暴食なのか?

 それは味が判らない為、食べても食べても満足する事が出来ないからなのかもしれない、と。


 だとしたら、彼らも救う事こそ、自分に課せられた宿命なのかもしれない。

 イギリス人が美味いカレーを心から堪能出来る様、縛られた強欲さから解放してあげる事が必要なのかもしれない。

 植民地主義の終焉が、彼らの精神的な健康、つまり彼らがカレーの味がわかる舌を取り戻す、その手段なのかもしれない。

 

 下がらぬ熱で多少支離滅裂になっていた松陰の頭は、いささか現実から逸脱した事を考えていた。

 誰が聞いても一笑に付すであろう、妄想のたぐい

 しかし、不思議な確信と共に、その思いは胸に根を下ろすのだった。


 そんな松陰は気づかない。

 いつの間にやら、松陰から少し離れた床に腰掛け、じっと自分を見つめる少女がいた事に。

 ようやく我に返った松陰はその少女に気づき、軽く悲鳴を上げそうになる。

 

 「だ、誰です?!」


 出した声は裏返る。

 上体だけでも起き上がろうと試みたが、体のあちこちの痛みで力が入らず、無理だった。

 あたふたしている松陰に、少女は寝ていろとでも言うかの様に松陰のおでこに右手をのせた。

 熱を測っているらしい。

 少女の意図はすぐにわかったので、起き上がろうとする事は諦め、されるままになる。

 そして少女を盗み見た。


 年の頃同じくらいの少女であった。

 目鼻立ちは整っており、まず間違いなく美人になるであろう事が予想された。

 自分の熱を一心に測ってくれているその様子は、微笑ましさを感じた。

 艶のある黒髪、その髪を纏めている髪飾りや着ている衣服の豪華さから考えて、裕福な家庭の子女である事が見て取れた。

 松陰は、ここが朱の屋敷なことを思い出す。

 家族を避難させていると朱は言っていた。

 その家族が避難先から戻って来たのだろうか?


 松陰はそう推測する。

 そんな松陰を余所に、熱を測り終えた少女は懐から袋を取り出し、中から紙に包まれた、何かの粉末を出した。

 そして水の入った湯呑みを持ち、粉末を飲む仕草をして見せ、松陰に手渡そうとする。

 どうやら薬らしいが、誰だか判らない者から手渡された物を安易に飲む気にはなれない。

 それに、寝たままでは水は兎も角、薬を飲むのは難易度が高い。


 松陰が迷っていると、少女は何やら顔を赤くしてモジモジとし、やがて意を決した様にその粉末を自分の口にあけ、湯呑みの水を口に含んだ。

 安全だと言いたいのか? と松陰が思っていると、いきなり少女は松陰の顔を両手でしっかりと掴み、何だと思う間も無く、松陰の顔に自分の顔を近づけ、口移しでそれを飲ませたのだった。

 突然の出来事に何の反応も出来ず、口に入った物を吐き出す事も忘れ、知らずにゴクンと飲み込んでしまう。 

 呆気に取られて少女を見れば、耳まで真っ赤に染めて俯き、時々チラッと上目遣いで松陰を見やり、目が合うとまた慌てて視線を逸らした。


 「君は一体?」


 キスすら知らない前世ではない。

 しかし意味がわからず、松陰はそう聞く事しか出来なかった。 

 相変わらず俯いたままの少女はそれには答えない。

 互いに無言のまま時間が過ぎていった。

 すると、先程までは大いに感じていた、体中の痛みが引いている事に気づく。

 

 さっきのは”痛み止め”?


 松陰は考えた。

 歯痛、頭痛の際に飲んだ前世の”痛み止め”。

 それと同じ様な痛みの引いていく感じに、松陰は驚いた。

 しかし、なにやら勝手が違う気もする。

 確かに痛みは引いていたが、同時に頭も麻痺している気がした。

 まるでアルコールを飲んだ時の様に、思考がまとまらない感じなのだ。 

 そして思いつく。

 対岸で絶賛開催中であろうアヘン戦争の事を。

 つまりこれはアヘンではなかろうか、と。 

 アヘンは元々薬用なので、それではなかろうか、と。


 「これはアヘンですか?」


 日本語がわからないとは思うが少女に聞いてみた。

 案の定返事は無い。

 俯く事は無くなったが、頬を赤く染めたままで恥ずかしそうにしている。

 恥ずかしいならやらなければいいのにとは思ったが、そんな少女に口移しで何かを飲まされるという状況に、思わず口がニヤケそうになる。

 そんな松陰に少女の口元も僅かに緩んだが、それに気づいてハッとした様に慌てて元に戻した。


 遂に、松陰を襲っていた全身の倦怠感と下腹部の痛みが無くなり、陶酔感に満たされたまま、眠気に勝てず、眠りについた。

 それを見守っていた少女は静かに立ち上がる。

 おもむろに髪飾りを取り去り、一つに纏まっていた艶やかな黒髪を解き放つ。

 身につけていた衣服を脱ぎ去り、発育途上の裸体を晒した。

 そして、松陰の寝ている寝具の中に滑り込み、熱を持った松陰の体に抱きついた。

イギリス人云々は何やら大袈裟な表現になりましたが、あくまで熱っぽい頭に浮かんだ妄想です。

アヘンを飲んだ時の感じは適当です、すみません。


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