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幕末香霊伝 吉田松陰の日本維新  作者: ロロサエ
アヘン戦争台湾編
82/239

修羅場?

 松陰は高熱を出し、臥せた。

 暫くして猛烈な腹痛に襲われ、慌てて飛び起きる。

 才太の肩を借り、急いで厠に行ったが間に合わず、服の上から水っぽい、血の混じった便を漏らしてしまう。

 しきりと才太に謝りつつも、熱で回らぬ頭で考えた。 

 高熱、激しい腹痛、血の混じった下痢。

 松陰はその症状に心当たりがあったのだ。

 細菌性の赤痢である。

 それは前世で初めてインドに旅行に行った際、聖地に来たと浮かれていた為か油断し、赤痢の流行地で、生水を飲んだか良く火が通っていない物を食べたかで感染し、似た様な症状を経験していた。

 今回と同様、高熱と激しい腹痛、血の混じった下痢に襲われ、部屋で一人苦しんだ。

 異変に気づいたホテルの従業員によって病院へ搬送され、大事には至らずに済んだ過去を持つ。

 

 その記憶が蘇る。

 細菌性の赤痢は、患者の垂れ流した糞尿で水や食物が汚染され、それを口にした者が感染する。

 当時の顕微鏡では細菌は発見出来ず、原因不明の病であった。

 現代での治療法としては、抗菌薬の投与、激しい下痢による脱水症状を防ぐ為の点滴等となるが、当時は有効な薬も点滴技術もない。

 重篤な症状を見せず、軽い下痢だけで済む赤痢もあるが、今回のモノは重かった。

 高熱で呂律も回らない中、松陰は才太に伝えた。


 「これは多分、赤痢という病です。私の出した糞尿で水や食べ物が汚染され、それを口にした人に移ります。私に人を近づけさせないで下さい。千代やスズは幼いので特にお願いします。下痢が続くと思うので、桶を部屋に用意して下さい。糞尿は井戸から出来るだけ離れた地面に穴を掘り、石灰を撒きながら捨てて下されば大丈夫だと思います。」


 意識が朦朧となりながらも、懸命に言葉を続ける。


 「先程私が汚した床の処理をお願いします。焼酎を染込ませた布で綺麗にして下さい。汚れた私の衣服ですが、最後に必ず煮沸したお湯の中で消毒して下さい。焼酎は、儀右衛門さんに酒を蒸留してもらい、人が飲めないくらい強くした物を使って下さい。私の飲み水もお願いします。煮沸したお湯に、湯呑み一杯に対して一握りの砂糖と一つまみの塩を溶かした物をお願いします。私の他にも同じ病に罹る人が出るかも知れません。部屋はなるべく一つにして、同じ様にして下さい。部屋に入る人は手拭で口を覆って下さい。それと、エドワードさんの船の様子の確認もお願いします……」


 松陰の必死の言葉を受け、才太は部屋で松陰を看病していた千代やスズ、梅太郎に説明し遠ざけた。

 嫌がる素振りを見せた彼女らも、苦しむ松陰の口からうわ言の様に発せられる、お願いだから言う事を聞いてくれ、の言葉に後ろ髪引かれる思いながらも従った。

 才太は更に部屋に桶を用意させ、松陰の言葉を皆に伝えた。

 早速、朱は飲み水や石灰、酒を用意する様召使に命じる。

 海舟らは井戸から遠く離れた場所に穴を掘り、備えた。

 儀右衛門は、早速酒を蒸留する装置を作り始める。

 焼酎の造り方は忠蔵らも熟知しているので、儀右衛門を手伝った。

 蔵六はスズ、千代ら英語のわかる子供ら5人、東湖、忠寛と共に、エドワードの船の様子を調べに行く。


 飲み水は経口補水液のつもりで、石灰を用意させたのは殺菌の為である。

 石灰には生石灰と消石灰があるが、一般的には消石灰が使われる。

 生石灰は貝殻や石灰岩を高温で焼けば作る事ができるが、水分を吸収すると発熱するので取り扱いに注意が必要な物質である。

 石灰岩も貝殻も、いずれも人類の身近にあった物質であり、石灰は古代より使われてきた。

 そんな生石灰が水分を吸収すると消石灰となる。

 消石灰も強いアルカリ性を示し、病原菌に対して強い殺菌力を持つのだ。

 

 そんな風に屋敷中がバタバタしている中、松陰の懸念していた事が起こる。

 数人の者が同じ様に熱をだし、下痢に襲われたのだ。

 その者らを急ぎ松陰が寝ている部屋に運ぶ。

 松陰が寝ていたベッドは邪魔な為、部屋から取り出し、皆を床に寝かせた。

 不幸中の幸いな事に、他の子供達に感染者は出なかった。

 一般的にこれらの感染症では、老齢者や幼年層では重篤化しやすい。


 赤痢やコレラといった下痢や嘔吐が続く病は、脱水症状との闘いでもある。

 現代であれば、適切な処置を施せば重篤な症状にまでなる事は少ないが、それでも脱水症状には注意が必要だ。

 点滴できれば一番なのだが、当時にそれは無理な注文。

 なので、松陰が用意してもらった経口補水液の摂取となるのだ。

 経口補水液とは、下痢や嘔吐で体内より急速に失われた塩分ナトリウムを補給し、併せて水分の吸収も図れる優れ物である。

 

ナトリウムは、体内の水分量を調節する重要な役割を持つ。

 ナトリウムが失われると、体は体内の相対的なナトリウム濃度を上げようと、水分を体内より排出しようとする。

 その為、ますます脱水症状が進むのである。

 通常、体に必要な水分を吸収する器官は大腸であるが、下痢の時には大腸の機能が低下しており、水だけを飲んでも脱水症状は緩和されにくい。

 しかし、この水の中に塩分と糖分があれば、小腸でナトリウムとブドウ糖が吸収される際、併せて水分も吸収される事がわかったのだ。

 これによって経口補水液は、脱水症状に陥った者に対して顕著な効果を発揮するのである。




 対症療法によって症状に対処し、出す物を全て出し続け、体内に入り込んで増えた病原菌を減らしてゆく。

 下痢は体内の病原菌を排出する為の自己防衛反応でもある。

 長引けば脱水症状を引き起こすが、不要物を排出する作用は必要なモノでもあるのだ。

 そして、大人の患者らは数日苦しみ続けたが、持ち前の体力で乗り切り、やがて症状を改善させていった。 

 最も早く症状を見せた松陰が最も症状が重く、他の者の容態が安定し、部屋から出る事が可能なまでに快復しても、松陰だけは熱が下がらなかった。

 血の混じった下痢は治まっていたので峠は越えたのだが、熱だけは引かなかった。

 少年なので体力が少ない事と、赤痢の前に一晩ではあるが寝込んだ事も影響していよう。

 美味しくないカリィを泣く泣く食べるという、かつてない強烈なストレスも関係するだろう。

 用心の為、看病の者以外は部屋に入らない様にされている中、松陰は熱にうなされ、一人寝ていた。 


 因みに松陰は、幼い頃に天然痘にも罹患している。

 天然痘の症状は、始め熱が続き、下がったと思ったら全身に発疹が出来る。

 そして再び熱に苦しむのだが、これは発疹が化膿する事による。

 この時病原菌は体表以外に、体内の臓器の中でも増えており、肺の機能を損傷すれば呼吸不全を起こし、亡くなる事も多かった。

 諸説あるようだが、致死率は40%もあったらしい。

 松陰の場合、幸いな事に重篤な事にはならず、そのまま治癒したのだ。

 治癒は良かったのだが、天然痘に罹った結果として顔には瘢痕はんこんが残った。

 史実では、松陰の痘痕あばたによって、船内に皮膚病が蔓延する事を心配したペリーに、決死の思いで臨んだ渡米を断られたという話もあるらしい。

 前世では天然痘など体験した事も聞いた事もなかったので、自分がどんな病気に罹っているのかも知らず、治って両親から聞いて初めて知った次第であった。

 

 天然痘の予防に劇的な効果を上げたジェンナーの種痘法は、1796年に完成したが、それが日本で広まるのは1849年以降の事であった。

 1790年には秋月藩の藩医緒方春朔が、天然痘患者のカサブタを健康な者に移し、天然痘への抵抗を獲得する方法を実践し、効果を上げている。

 1810年には、ロシアに拉致された中川五郎冶が種痘法を持ち帰りもした。

 1814年には、安芸の漂流民である久蔵が種痘法を覚え、牛痘を持ち帰ってその効果を広島藩主に訴えたが、一笑に付され実現には至らなかった。

 もし種痘法が広まっており、松陰が天然痘に罹る事がなかったなら、アメリカへの密航の企みは果たされ、その目でアメリカを見てくる事ができたのだろうか?

 



 そして少し時間を遡って、エドワードの船の中である。

 松陰の心配した事が的中しており、イギリス人船員の少なくない数が赤痢に罹患していた。

 いや、それは正確ではないかも知れない。

 正確に言えば、エドワードが台南の港に現れた際、既に罹患者はいたのだ。

 当時の船の衛生状態は悪く、病気への抵抗力に直結する栄養状態も悪かった。

 その為、一度船内で伝染病が発生すれば瞬く間に広がる事もしばしばであった。

 熱帯特有の病気も蔓延しがちであり、一説にはアヘン戦争時のイギリス軍は様々な病気で崩壊寸前であり、戦争がもう少し長引けば負けも有り得たそうである。

 

 今回、エドワードの船で赤痢を患ったのは一人だけであり、偶々その者の抵抗力が優れていたので重篤化せず、長旅に病は付き物であるのでそこまで事態を重く見る事もなく、何の対策もなく来客を招くという失敗に繋がったのだ。

 汚染された、何らかの物質の食物への混入の経路はこの際考えないとしても、狭い船内での事であるので、伝染病の蔓延を防ぐ事は大きな苦労を伴っていた。

 そして松陰らが船を降り、エドワードも含め発症したのだ。


 「異人も、同じ病で苦しむんだっぺなぁ……」

 「彼らも同じ”人”なのですね……」


 東湖がしみじみと呟き、忠寛が応えた。

 生まれた国から遠く離れた地で病に倒れる。

 それはどれ程の心細さだろう。

 しかも、病気だとしても仲間の他に頼る者はいないのだ。


 エドワードの船を訪れたスズらは、病に倒れ、苦しむ異国の者らの心細さを思い、その身の上に同情した。

 松陰の言った対策を伝えたのみならず、言葉だけでは心許ないと直接彼らの看護に当たったのだった。

 蔵六らは、船内の一室に閉じ込められていた患者らの汚物も嫌な顔をせずに処理し、看病に当たった。

 とはいえスズら子らを、汚物が溢れる場に置く訳にはいかない。

 五人は船の中の雑用と、下痢の止まった者に経口補水液を飲ませる役を仰せつかった。

  

 船を降りる事なく看病に当たる。

 看護は数日に渡り、徐々に体調を取り戻していく者が多くなっていった。


 『う、ううぅ、スー、あ、ありがとう……』


 脱水症状に苦しんでいたエドワードが、スズに飲ませてもらった経口補水液で楽になり、感謝した。

 病に苦しんでいる者にとって、経口補水液のその効果の実際などわからない。

 ただ、苦しみから解放された事がわかるだけである。  

 しかし、傍で見ている者にとってはそうではない。

 劇的とも言えたその効果に、ある者は驚き、またある者は東洋の魔術かと疑った。  


 武力で他国を侵略してきた自国の歴史は、口ではどれだけそれらしい理由を並べ立てた所で、その後ろめたさは消えない。

 むしろ、後ろめたいからこそ己の正当性を内外に力説し、良心から沸き起こる自責の念に、無理矢理蓋をする事に躍起になるのかもしれない。

 しかし、一旦病気にでも罹り弱気になれば、蓋をした筈の自責の念がその勢いを取り戻す。

 古来より、命に関わる事故、病気を経験した者が、これまでの己の行いを反省し、善行を積む様になる事はしばしばである。

 

 エドワードは清国(の商人)にアヘンを売りつけるのが商売であった。

 愛娘のジョセフィンにはアヘンの正当性(当時アヘンは国際的な貿易品であり、アヘン禍は認識されつつあったものの、多くの国で普通に販売されていた)を力説したが、もしその愛するジョセフィンがアヘンを楽しみたいと言ったら、どう返すだろう。

 当時の欧米では、アヘンは中毒性の少ない経口摂取(清国では煙草の様に吸煙)だったとはいえ、娘が嗜む事は認められない物を売る。

 その矛盾に気づかぬ振りをした所で、アヘンに溺れる者は意思が弱いからだと思い込んだ所で、心の奥底に横たわる後ろめたさが消える事はない。

 そんなエドワードである。

 松陰と同じ様に高熱と激しい腹痛、繰り返し襲ってくる下痢に苦しみ意識が朦朧とする中、思う事は一体何であろう。

 そしてその苦しみを癒してくれたのが、故郷に残してきた愛する娘ジョセフィンの、幼い頃の面影を残すスズであった。

 遠い異国の、しかも戦争中の敵地と変わらぬ土地で、病に苦しむ中差し伸べられた救いの手。

 エドワードの胸中やいかに。

赤痢や経口補水液に関してはwikipediaの丸写しです。

間違った描写がありましたら申し訳ありません。


天然痘に関しましては、高杉晋作もアバタに悩んだらしいです。

松陰が天然痘に罹ったのなら、梅太郎や千代も罹ったと見るのが正しいとは思いますが、実際はどうだったのでしょう?

全身に発疹が広がり、高熱に苦しむ。

人類がその撲滅に成功した病とは言われていますが、バイオテロに使われるかもしれない、との懸念もあります。

アメリカ大陸に渡った欧米人は、まさにバイオテロとしか言えない、天然痘患者の使った毛布を原住民に贈って、免疫の無い原住民を病気に追いやったとも。

致死率100%の病気ではないので、それで原住民が死滅した訳ではないでしょうが、それでも考えてしまいます。

まあ、日本武尊も熊襲とかだまし討ちしていますから、あまり強くも言えないのでしょう、か?

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