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幕末香霊伝 吉田松陰の日本維新  作者: ロロサエ
アヘン戦争台湾編
80/239

イングリッシュ・カリィ

 「あれ? ここは?」

 「松陰君、気がついた? ここは朱さんのお屋敷やでぇ。」


 目を覚ました松陰にお菊が告げた。

 お菊の言葉を横たわったまま反芻し、松陰はエドワードの船での事を思い出す。

 

 「そうですか……。また私は皆さんにご迷惑をかけてしまったのですね……。」

 「迷惑なんて誰も思ってへんでぇ。」


 申し訳なさそうな口調で呟く松陰に対し、お菊は即座にそれを否定する。


 「松陰君にはそういうとこあるよね。誰も迷惑だとか思ってへんのに変に遠慮しとるというか。自分を律し過ぎなんやないの? お侍さんやから、滅私奉公の精神なんかもしれんけど……。」


 お菊の言葉に松陰は黙ってしまう。

 文之進に折檻されて高熱を出し寝込んだ際、金輪際自重はしないと決心し、心の赴くままにカレーを求める事を誓った松陰であったが、未来を知っているという、誰にも言えない秘密を打ち明けられない心苦しさから、人にはそう見えているのかも知れないと考えた。

 そんな松陰の心の内など知る由も無いお菊は、萩の町中での松陰の言葉を思い返し、今日の騒動の理由を推察し、続けた。

 

 「ねえ、松陰君? 松陰君は前に言っとったやんか、香霊様の御心は広うて、どないな事でも受け入れてくださるって。」

 「はい。」


 確かにそんな事を言った気がする松陰である。

 尤も、シーフードからお肉、野菜まで、様々な食材と相性ばっちりのカレーの懐の大きさを適当に表していただけなんて、口が裂けても言えるはずがない。

 

 「それやったらな、ここで松陰君がエドワードはんの”かりぃ”を食べても、笑うて許して下さるんやないの?」


 そう、お菊は松陰の葛藤を正確に把握していた。

 西洋人の過酷な植民地支配に苦しむ民の事を思えば、その搾取の結晶たる香辛料を使ったカレーを食べる訳にはいかない。

 萩の町で見せ、心中の告白をした松陰の葛藤は、所々理解しかねる内容はあったものの、お菊も納得する内容であった。

 

 人は時に、誰にも譲れない何かを持っていたりするモノだ。

 それは他人には馬鹿げた事の様に思えても、本人には至って真面目な事柄であったりする。

 松陰の誓った事もそれである。

 譲れぬ矜持が、明けぬ暗闇を照らす一筋の光明となる場合もあろう。

 固い決心を持たずして、絶望的な状況を覆す力は発揮出来ないだろう。

 他人には理解しがたい強い思いが、その人を奮い立たせる原動力となりうるのだ。


 しかし、しがらみの多い世の中では、それを守り通す事が出来ない場合もある。

 いや、信念を曲げて耐え忍ぶ事の方が多いのかもしれない。

 大事なモノを守る為には、ちっぽけな自らの思想信条信念など、何程の力を持ちえようか。

 お家の存続の為、家族の命の為、藩の為、生活の為、信念を捻じ曲げて恥辱に塗れる、己の葛藤を押しつぶす事は多い。


 他人には取るに足りない、些細なこだわりにしか見えないけれども、本人には譲れない何かは確かにある。

 しかし、えてしてそれは独りよがりの思い込みであったり、意固地な決め付けでしかない場合もあるのだ。

 固い信念は時に、挫けぬ鋼の精神と、それによる困難の突破をもたらす事もあれば、自分の中で決め付けて、自らの可能性を狭め、状況の打破を困難にする危険性も孕んでいる。

 

 松陰の場合もそうではないかとお菊には思われた。

 確かに、これまで松陰の為してきた事は驚きの一言である。

 それを成し遂げてきた松陰の原動力は、本人が言う様にカレーを求める心なのだろう。

 カレーを食べるという誓約を成し遂げる為に、それまではカレーを食べないと、己に制約を課す事は百度参りもそうで、よくある事だ。

 持って生まれた能力に対し、望みが高ければ高い程、犠牲にすべき事も多くなろう。

 しかし、それで体を壊しでもしたら本末転倒である。

 望みを叶える為に命を投げ捨ててしまえば、それは望みが叶うとは言わないだろう。 

 従ってお菊は言う。


 「松陰君は香霊様にずっと祈ってるやろ? そない敬虔な松陰君が、そないになるまで我慢して、そんなん神さんが喜ぶなんて思えへんのやけど?」


 さらに続ける。


 「それにやな、”かれー”を断つと松陰君が自分に誓った事かも知れへんけど、どないするん? 熱でも出たとエドワードはんに嘘でもつくん? 折角招待してくらはったのに、仮病でやり過ごすん? 松陰君がそないやのに、ウチらが楽しめると思うん?」


 己の本懐を遂げる為に嘘をつき、人の好意を無碍にし、仲間に心苦しい思いをさせるのは、とても褒められた事ではないだろう。

 松陰はお菊の言葉を黙って聞いた。


 「ええやん、今回だけやし! そのお守りの時も、神さんは何も罰なんかくれてへんやろ? それどころか、こないして”かりぃ”に巡りあわせて下さったやん! これって香霊様のお恵みやないの? 松陰君のこれまでの歩みが間違うとらんと言って下さっとるんやないの? ご褒美みたいなモンやないの?」


 お菊がお守りに言及し、松陰は今気づいたとでも言う様に枕元のそれを見た。

 懐かしい、芳しい香りが微かに漂ってくる。

 数ヶ月前に贈られた物であるにも拘らず、未だに芳香を発するそのお守りは、気を失ってから彷徨っていた悪夢の中、暗い雲の間から差し込む日の光の様に松陰を照らし、救い出してくれていたのだ。

 それを確かなモノとして覚えている松陰は、改めて香霊様の御業と御心に感謝した。

 それと共に、百合之助に預けたはずの物がここにあるという理由に思い至り、百合之助や梅太郎、お菊を含め、自分の周りにいてくれる人々に深く、深く感謝するのだった。

 それにお菊の言う様に、自らの誓いを破っているにも拘らず、救いは確かに授けられたと感じる。 

 そして手にしたお守りからは、まるで松陰の信仰に応えてくれている様に、身も心も充実していく様な、そんな香りが静かに立ち昇っている感覚があった。

 香霊様の愛に包まれている、そんな気がした。

 様々な感情が押し寄せ、


 「ありがとう、ございます……」


 今はそれしか言えなかった。

 表情の和らいだ松陰にホッと安心するお菊。

 その口調も軽くなる。 


 「ウチは松陰君にほんま感謝しとるで? 女が鉄砲に触る事に嫌な顔一つせんでくれたし、こないな旅に連れて来てもうて! 今日はえげれすの大砲も鉄砲も見れたしな! 儀右衛門様もそうやんか! 全部松陰君がいたからやで? 松陰君が歩いてきた道が間違うてへんかったから、こうして皆してここにいるんやないの?」


 松陰には感謝しているお菊も、才太と海舟の心配も気にはなった。


 「松陰君が何を抱えているかは知らん。言えん秘密は誰でも一つや二つ持っとるモンやしな。でもな、松陰君が一人で抱えてるのがきつくなったら、一人で悩まんと相談してや! ウチで良ければいつでも相談に乗るでぇ! 勿論、ウチでなくてもええで? 松陰君もお年頃や。女には言いにくい事もあるやろうしな!」


 あまり言い過ぎても良くないだろうと、最後は冗談めかすお菊。

 そんなお菊の心配りに松陰の顔もほころんだ。

 そして、安心したのか、松陰は再び眠りに落ちる。

 お菊も安堵し、暫く松陰を見守ってから眠りに落ちた。


 そんな二人のやり取りを、起きたはしたものの身じろぎもせず、黙って聞いていたのは誰であろうか……。




 そして翌日。

 すっかり良くなった松陰はお守りを身につけ、再度招かれての、エドワードの船での食事会に赴いた。

 皆の心配がありがたく、それ故無様な姿を見せてしまった事を恥じるのだった。 

 通り一遍の挨拶の後は、双方の交流が行われた。

 忠蔵らに話しかけている船員も見えた。

 昨日の、真っ先に敢行した敵船への突撃に、感じるモノでもあったのだろう。

 帯刀、三郎太、重之助が彼らの通訳に立っていた。

 

 そして食事である。

 とはいえ、そこは船であるので、フレンチのフルコースなどという豪勢な物が並ぶ訳は無い。

 それどころか、スープとオートミール、肉料理と野菜料理が並ぶだけの、甚だ質素なモノであった。

 松陰以外はパンは初めて見る物であるし、スプーンといった食器も使った事はない。

 顔に疑問符を浮かべ、皆して松陰を見つめるものの、松陰は目の前に並べられたお皿から漂ってくる香りに夢中であり、全く気づいていなかった。 

 深呼吸してスープの香りを堪能している。

 

 「この香り! ちょっと違うけどまさしくカレーです! 見た目も若干違いますし、これではただのスープですが、カレーと言えばカレーです! う、うぅぅ!!」


 それは歓喜のうちに味わい、堪能した所で目が醒め、夢であった事を知り、悲しみで枕を濡らす程焦がれたカレーの香りであった。

 魂が覚えているカレーの香りとは若干違う気もしたが、そこはイギリス産のカリィであるし、仕方無いと思わねばなるまい。 

 松陰はスプーンを持ち、感慨深げにスープを掬った。


 そんなカレィに浮かれた松陰は気づかない。

 松陰が感傷に浸っている間に、初めて使うスプーンに戸惑いながらも松陰の真似をしてスープを掬い、そのまま一足早く一口目を口にした者達の、何とも言えない微妙そうな顔に。


 浮かれた松陰の様子を微笑ましいモノを見る目で見守っていたエドワードの前で、松陰は掬ったカリィを口に運んだ。

 忽ちのうちにその目は驚愕に見開かれ、動きが止まる。

 エドワードはそんな松陰の様子に満足げだ。

 野蛮で遅れた未開人に、ヨーロッパでも最新の料理を披露したのだ。

 驚愕に満ちた心の内は、その表情を見れば分かる。

 どんな賞賛の言葉が聞けるのだろうかと、エドワードは期待して松陰言葉を待った。 

 そして松陰が口を開く。


 「お」

 『O?』

 「おいしくない……」

 『OISHIKU? って、スー、ショーインは何と言ってるのですか?』

 『え?』

 

 松陰の言葉がわからず、エドワードはスズに尋ねた。

 聞かれたスズは思わず周りを見渡す。 

 しかし、スズに目線を合わせる者は誰一人いない。

 誰も彼も下を向き、微妙そうな顔でスプーンを口に運び、黙々とカリィを食べていた。

 招かれた客人として、松陰の言葉をそのまま訳す事は出来ない。

 というよりも、礼儀を弁えている筈の松陰が、美味しくないなどとの本音を、よりにもよってエドワードの目の前で口にする方が異常事態なのだ。

 

 『えっと、うんと、あのね、お、おいしいって言ったんだよ!』


 エドワードの顔を潰さない様、スズは咄嗟に嘘をつく。

 その顔には冷や汗が流れ、引き攣った笑みが浮かぶ。

 そんなスズの窮状に構う事無く、松陰は更に一口、もう一口とカリィを口に運び、「くっ!」とか「これは!」とかブツブツと呟いている。

 そんな松陰に周りも口を開きだした。


 「やはりそうだよな? 松陰があれ程執着していたから、一体どれ程の物かと思っていたが、正直美味くないよな?」

 「いやぁ、これは何とも妙な食べ物だねぇ。薬臭いし、味は薄いし、美味しくないねぇ。」

 「ウチが松陰君に言った事が、なんや馬鹿らしくなるんやけど……。」

 

 才太が同意を求め、海舟が応じる。

 お菊も何とも言えない顔である。

 そんな周りの喧騒も、当然松陰は気づかない。


 「こうじゃない、こうじゃないんだ! 香りと色は確かにカレーに似てる。でも、違うんだ! カレーはこんなんじゃないんだ! そりゃこれはカリィだろうさ。でも、カリィにしても違うだろ? これじゃあ美味しくないじゃないか! うぅぅ、イギリス人を信じた私が馬鹿だった! 結局ウナギゼリーの国なんだ!!」

 「うなぎぜりー?」


 松陰の食べ物らしい発言に反応したスズ。

 しかし、いくら珍しい食べ物に好奇心一杯のスズであっても、ウナギゼリーの見た目には躊躇するのではあるまいか?

 

 松陰は悲しみとやるせなさに詰まった涙を流しながらも、スプーンを口に運ぶ。

 これはカレーではない、カリィだと言い聞かせ、体が拒否反応を起こしそうになるのを理性の力で全力で押さえ込み、喉に流し込んだ。

 カリィに衝撃を受けたとはいえ、ここは招かれた席なのだ。

 今更ながらにそれを思い出し、出された物を残す様な事は出来ないと無理矢理に口に運ぶ。

 色と香りはカレーに似ているのだが、いかんせん味が薄すぎた。

 香りはカレーなのだが、味噌汁程にも味がないのだ。

 見た目がカレーに似ているだけに、松陰には尚更きついモノがあった。 


 『ほ、ほら! ショーインお兄ちゃんは泣きながら食べているでしょ? 美味しさの余り泣いてるんだよ!』


 スズが苦し紛れの説明をする。

 エドワードは些か不審に思いながらも、涙を流しながら食べている松陰の様子に満足した。


 そして、失意の松陰は、屋敷に帰るなり熱を出し、本格的に寝込んでしまった。

イギリスのカリィはいかがなモノだったのでしょう?

当時の船乗りの食事は、相当に酷かった様です。

ですので、多分、美味しくはなかったと思い、こうなりました。


ウナギゼリーは、すみません。

イギリス料理を馬鹿にする気はないのですが、魚の頭の突き出たパイと併せ、見た目のインパクトが破壊力抜群ですので……

ウナギゼリーはまずその色がヤバイです。


お菊が船の中で、むさい男だらけの中で大丈夫だったのか、とふと思いました。

女には飢えていた当時の船乗りです。

男色、羊で発散していたという情報を読者の方に頂きました。

それと併せ、才太と三郎太が付き添っていたからという理由と、台湾に来る前に広東の港で上陸し、憂さを晴らしていたと言う事にします。


次話で日本の事に言及し、2章を終了としたいと思います。

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