文之進
文之進が杉家に住んでいるのやら分かりづらいかもしれませんが、住んでいます。
今日は大次郎が病気で来なかった。
珍しい事もあるものだ。
滅多な事では意地でも休まない強情なあやつが休むとは、一体どんな病気に罹ったというのか?
大次郎の欠席を伝える梅太郎の様子がおかしかったので気になるが、何ぞ毒のある物でも拾い食いして苦しんでいるのではなかろうな?
あやつは類稀な資質を持っておる割りに妙な面も備えておる。
意地汚い訳ではないが食い意地が張っておるし、計算高い様に見えて案外抜けておるし、真面目一辺倒かと思いきや悪戯も数多い。
私のしごきに耐える程根性がある癖に喧嘩はまるで駄目な奴だ。
肝が据わっておるのに子供の喧嘩でさえ臆病丸出しである。
自分が殴られるのは平気なのに、殴る事は出来ぬらしい。
そこは兄者の血を受け継いだのか?
次の日、何事も無かったかの様に梅太郎とやって来た大次郎は、開口一番昨日の欠席を謝った。
休んだ理由を尋ねると体の調子が、と曖昧に答えるのみである。
それを横で聞いていた梅太郎が目を泳がせていたから、またいつもの様に何か悪戯でもしでかしたのではなかろうか?
頼まれ物だと大次郎が懐から、兄者からの手紙を取り出す。
ふむ、兄者が手紙とは珍しい。
後で読むとしよう。
では、今日の講義を始めるとしようか!
兄者からの手紙には、会って話がしたいとだけあった。
それなら二人に言付ければいいものだが、一体何であろう?
近頃はお城への登城もあって兄者の屋敷に戻らぬ事も多いが、今日は戻るとしよう。
「義姉殿、お久しゅう。」
「ようこそお越し下さいました。夫は奥の部屋で待っておりますよ。」
「わかりました。では失礼致す。」
部屋の中には兄者が一人で待っていた。
手には紙の束を持っており、しきりと文字を追って目線を移動させている。
私の到着に気づいていない様だ。
そんなに熱中する内容なのであろうか?
興味深い。
声をかけると驚いた様に顔をあげ、私に座る様促した。
「今日はいかがいたした、兄者?」
「うむ。」
兄者は視線を一度手にした紙の束に落とし、決心したかの様に私を見つめ、語りだした。
兄者の話は驚天動地な内容であった。
大次郎が香霊大明神なる存在にお告げを賜り、清国がイギリスに敗れる事、その後西洋が日本に押し寄せ、日本は鎖国を維持できずに開国させられる事、それによって日本は大混乱に陥る事を告げられた、と。
そして、西洋に対抗する知恵も授かったというのである。
開口一番大次郎の悪戯ではないかと指摘した私に、兄者は黙って手に持った紙の束を私に寄越した。
『阿片戦争概論』、『イギリスのインド征服の歴史』、『国防論』、『日本の誇るべき文化』、『アメリカの政治』等々と書かれた冊子があった。
中を斜め読みしてみる。
その内容に驚愕した。
見慣れぬ言葉も多いが、私がこれまで知っている常識が音を立てて崩れる様な錯覚を覚える程の中身であった。
ざっと読んだだけでこうならば、精読するとどうなるのか。
私は正直恐ろしく感じた。
そうして、はたと気づく。
これはまさか、大次郎が賜ったという知恵の一端なのではないかと。
そして兄者を見やる。
兄者は黙って頷いている。
やはりそうでしたか……。
これを、元服すら当分先である、幼いといっていい大次郎が書き上げたというのか……。
「文之進、どう考える?」
「俄かには信じ難いですが、これだけの物を大次郎が一人で考え出せるとも思えませんな。大次郎の悪戯でないとすれば、香霊大明神なる者から賜ったという知恵と考えるのが妥当かと思われます。」
「お前もそう思うか……」
「はい……」
双方それきり、黙ってしまう。
私の手には兄者が抜き出した『阿片戦争概論』がある。
書かれていることはまさに恐ろしい、その一言である。
「大次郎が予言したという清国とイギリスの戦争ですか……」
「うむ。まさに信じ難い事だ。」
「そうですな……」
それによると、茶を嗜むのがイギリスの富裕層の間で流行となり、清国からの茶葉の輸入量が激増する。
清国から輸入される茶、絹、陶磁器への代金に支払われる金や銀の流出が止まらなくなり、イギリスは深刻な赤字に苦しむ様になる。
反対に、清国が認めていたのは清国の富裕層が求める時計、望遠鏡といった物だけであり、他にめぼしい売り物がないイギリスの貿易赤字は増えるばかりであった。
危機感を抱いたイギリス政府は清国皇帝に掛け合ったが、偉大なる我が国のお情けで、欲しいと言う物を輸出してやっている、との皇帝の見解は覆らず、已む無く阿片を商品にする事を思いつき、画策する。
当時イギリスの半植民地であったインドにイギリスの綿製品を、インドから清にアヘンを、清からイギリスに茶を輸出する三角貿易で巨額の金を稼ぎ、長年の茶の輸入で生じた損害を補う事に成功するというのだ。
当時の清国では、古くからアヘンを薬として使っていたが、中毒者の増加で社会問題となっていた。
当然、アヘンの輸入を全面的に禁止したが、密輸は止まらない。
禁制品を持ち込むイギリス商人に対し、清国も負けてはいられない。
アヘンを吸った者、販売した者は死刑にする法律を制定し、イギリス商人の船に積んであったアヘンを没収、焼却した。
それに怒ったイギリス政府は、武力でもって清に侵攻する事を決意する。
イギリス議会では、アヘン密輸が理由での兵の派遣には反対する意見も多かったが、僅差で議会で承認される。
そしてイギリス海軍の東洋艦隊が清国に向かって侵攻する。
イギリスが派遣した軍艦と陸軍兵力4千に対し、迎え撃つ清国の兵力は20万である。
その圧倒的な兵力差も、近代兵器の威力の前には無いに等しかった。
また攻撃地点を自由に選べるイギリスに対し、拠点を防衛するのに兵力を分散せざるを得ない清国の劣勢は続き、北京への物資の供給地をイギリスに抑えられ、たちまち物資が干上がった清国皇帝は負けを認める。
勝ったイギリスは清国に莫大な賠償金を要求。
さらに自由貿易港の拡大、香港の割譲、治外法権、関税自主権の放棄、最恵国待遇を認めさせた。
私は言葉を出す事もできない。
しかも、これは2年後に起こる出来事だというのだ。
これではまるで、見てきた様ではないか!
お告げを聞いたとかいう輩なら過去にも見た事がある。
しかし、そのどれもがいい加減で、どうとでも取れる様な事しか言わぬ。
それに比べてこの詳細な事!
信じられぬ!
しかし、これだけ詳しいと空恐ろしい。
もしこれが本当に起こるのかと考えると背筋が凍る思いがする。
何なのだこのイギリスという国は?
なぜこんな惨い事ができるのだ?
本国では反対意見もあった様だが、武力で侵攻した結果に変わりは無い。
実に恐ろしい……。
そして、私は気づく。
清国がそうなって、それでイギリスが終わるだろうかと。
大次郎が言った事はこれか!
こんな国が清国だけで満足するはずが無い。
我が国にも押し寄せてくるのは当然ではないか!
アヘンなどという物を恥も無く密輸する輩である。
そんな国がオランダと清国のみとの貿易を、出島でしか認めない今の幕府のやり方に従う訳がないではないか!
武力を背景に開国を迫るのは当然ではないか!
そして、今の幕府にそれを突っぱねる胆力があるとも思えない。
大次郎も言っておった。
開国させられ、大混乱に陥ると。
どうすればいいのだ?
「兄者はどうお考えですか?」
私の質問に兄者は黙って別の一冊を差し出す。『日本の国防論』とある。
私はすぐに目を通した。
読み終え、私は自分を深く恥じた。
書かれていたのは日頃私が大次郎に教えていた事だったからだ。
敵を知り、己を知らば百戦危うからず、と。
イギリス、アメリカといった西洋の国が日本に押し寄せるのは最早避けられない事態である。
鎖国を続ければ武力で開国を迫られ、下手をすれば清国と同じ目に遭わされるだけだと。
そんな中、我が国がその独立を保つ為には西洋を知るしかないと。
そして、我が国より優る技術は取り入れるしかないと。
まさにその通りである。
私が学んできた事は無駄ではなかったのだ。
良く考えたらそれもそのはずである。
何故なら、孫子の兵法の極意は人を知る事であるからだ。
洋の東西、古今を問わず、戦で大切なのは人が何を考えるのかということ。
武器の性能の差は時として圧倒的な結果をもたらすものだが、戦では武器が全てを決定するのではない。
戦はそれだけではないのだ。
慢心は油断を生み、油断が致命的な失敗を引き起こす事もありうるのだ。
それに、兵は国の大事也である。
戦になるのはそもそも下策なのだ。
戦わずして敵の目的を挫く事こそ上策なのだから。
まさか教え子に教えられるとはな。
僅かに苦笑が漏れてしまう。
そんな私を見て兄者も静かに笑う。
そして言った。
「大次郎はこうも言ったぞ。我ら毛利家家臣一同、そしてこの国が一致団結してこれに当たれば、西洋が何ほどのものかと。」
うむ、なるほどな。
「こうも言った。まずは私と文之進を頼れと。」
「私と兄者を、ですか?」
「そうだ。家族の協力なくして誰の協力を得られようとな。」
「……成る程……」
思わず胸が熱くなった。
この国が危険に晒されるといった危機的状況に、まさかこの私の力が役立つとは思えなかったからだ。
そして、この長州藩だけではなく、日本国の為にできる事があろうとはな!
「私は大次郎がお告げを賜ったというのは本当だと思う。そして日本を守る為の知恵をも賜ったというのも信じる。これから大次郎が何を為すのかは解りかねるが、我が長州藩の為、ひいては日本国の為、この身を捧げるつもりだ。」
兄者の顔は覚悟を決めた男の顔であった。
私も覚悟を決める。
「そうですな、兄者。私もそのつもりです。ですが大次郎は未だ元服さえ迎えていない若輩者。これから先どの様な困難が待ち受けているかも知れませぬ。西洋の脅威に立ち向かおうとするのですから並大抵の事ではないでしょう。長州藩だけでなく幕府も動かそうとするのでしょうから、最早私には想像すら出来ない険しさが待ち受けている物と思われます。それを乗り切るには普通の修行では到底足りないでしょうな。私は、まず私に出来る、大次郎の教育に全力を注ぐつもりです。」
「うむ、そうであるな。だが、大次郎はまだまだ幼い。入れ込むのはいいが、あまり無理はさせるなよ?」
「承知しました。」
「それはそうとして、これらを公表すべきであろうか?」
一転して兄者は不安げな声で聞いてきた。
それは勿論、と言いかけてその言葉を飲み込む。
大次郎が書いたこれらは早急に世に送り出し、日本全国に警鐘を鳴らすべきである。
ここまで詳細な物は最早予言というべき範疇を超えている。
しかし、私も兄者も本当だと信じているが、それでももし万が一、大次郎のお告げが外れた場合はどうなってしまうだろう?
世間を騒がせた罪で大二郎は確実に磔である。
そして我らも同罪で処罰されるであろう。
この国の危機を前に、自分の命を惜しむ事など武士の風上にもおけぬ行いである。
しかし、今いたずらに人心を騒がす必要もないのではないか?
なにせ清国とイギリスの戦は2年後に始まるのだ。
それを待ってからでも遅くは無いのではなかろうか?
「今はまだ時期尚早かと思います。急いては事を仕損じるとも言います。清国とイギリスの戦を待ってからでも遅くは無いかと。」
「私も同じ考えだ。」
兄者と同じで安心である。
そして我々は、とりあえず大次郎の予言が成就するまで様子を見る事で一致し、それまではこれまでと同じ様に大次郎を教育していく事に決めた。
ただ、お告げとは関係の無い情報は仲間にも見せて意見を聞くべきであろう。
大次郎のお告げが成就し、その知恵を活かす段になっても、真新しい知識には拒否反応が出るものだ。
今から明倫館の師範連中やお城の若手にもこれらを知らせ、静かな意識改革を図っておかねばなるまい。
そう結論付け、私は兄者の家で夜になるまで話し合った。




