松陰、混乱す
エドワードのカリィ発言に衝撃を受けた松陰の心は、かつて無い混乱の渦に包まれていた。
CURRY、カリィ。
インドの、香辛料を使った特徴的な料理法を欧米人が名づけた呼称である。
インドを植民地にしたイギリスがその料理法を本国に持ち帰り、カリィとして広まった。
イギリスのC&B社が”カリィパウダー”を商品化し、一般家庭でもカリィが作られるようになっていった。
1810年には辞典に載るまでとなっている。
そのカリィである。
松陰は勿論、その伝播の経緯とその後を知っていた。
イギリスに広まったカリィはイギリス海軍を通じ日本に伝わり、カレーライスへと至るのだ。 つまり、エドワードの言うカリィは、カレーライスのご先祖様とも言える。
(おお、カリィ! 汝の名に幸いあれ! 汝、後世の日本ではいと貴き者となる故なり! おお、カリィ! 我が愛しきカレーの高祖にして、世界を平和へと導く礎なりし者! おお、カリィ! 汝の発する香りは至高にして思考を奪うモノ也! おお、カリィ! インドに住まう民の知恵と工夫によって生まれたる者! 我は片時もインドの民への感謝を忘れた事無し! おお、カリィ! 汝には夢でしか見える事叶わず、その夢より醒めたる時は、我に深き悲しみと絶望とを絶えず与えてきた者! おお、カリィ! 我の生きる理由にして目的たる者! されどカリィ! 汝はイギリスの生みし者也! 我が愛しきカレーの故郷にして聖なる地、インドを蹂躙せしかの国が育みたる者也! されどもカリィ! 汝に罪は無きはず也! 汝はただ、汝であるが故也! けれどカリィ! されどカリィ!!!!)
松陰は一人、心の中で叫んでいた。
前世の記憶が蘇り、人知れず涙が頬を伝う。
その目はカッと見開かれ、焦点は定まっていない様に見えた。
「カリィだって。どんな料理なんだろうね。あれ? そういえば、お兄ちゃんが言ってたカレーと似てるね……って、お兄ちゃん?!」
ここでスズが松陰の異変に気がついた。
それは萩の町でかつて目にした、漢方薬店の前での松陰を彷彿とさせるモノであった。
いや、それ以上であった。
「千代姉ちゃん!」
「ええ、つまりカリィってカレーなのね。ねえ、菊姉様。菊姉様?」
「あ! そういえば、菊姉ちゃんを忘れてたね……。」
「儀右衛門様達もいなかったのね……。」
お菊や儀右衛門がいない事にようやく気づいた一同。
彼らをすぐに呼んでもらう様、スズはエドワードにお願いした。
エドワードも今更の様にそれに気づいたらしく、部下のヒューズに伝え、走らせた。
「先生は一体どうされたのですか?」
「何てぇ言うか、狐に憑かれちまった感じだねぇ……。」
「目の焦点があっておらんでごわす……。」
帯刀、海舟、隆盛らも松陰の様子がおかしい事に気づき、その身を案じる。
「梅兄様!」
「ああ、漢方薬のお店より酷い! ”かりぃ”とやらは大次の言ってた”かれー”らしいね。仕方無い、大次を一旦船から降ろそう! こんなんじゃ食事どころじゃないよ!」
「ええ、そうですわね。」
「亦介様、大次を背負って船を降りて頂けませんか?」
「うむ、これは大事でござるな。承知したでござる!」
梅太郎はそう判断し、亦介にお願いした。
亦介も松陰の様子が異常であると察し、松陰を背負い、すぐに船を降りる準備を始めた。
船の乗り降りは縄梯子を使うので、松陰の体を固定する必要があるのだ。
「スズ! みすたーえどわーどに船を降りる事を伝えて! 食事は延期出来ないか聞いてみて! 理由は大次の様子がおかしいとでも、身なりを整えたいとでも何でもいいよ!」
「うん! わかった!」
スズはエドワードに松陰の調子が悪い事、身なりを整えたい事を伝え、食事を先にする事は可能か尋ねた。
エドワードも松陰の様子がおかしい事には気づいており、返り血を浴びた忠蔵らの姿の事もあり、快く応じてくれた。
とりあえず明日に延期する事を確認する。
そうこうしているうちにお菊らも戻って来る。
緊迫した甲板の雰囲気とは裏腹に、お菊の顔はどこか夢見心地であり、うふふ、と気味の悪い笑い声をあげ、歩いてくる。
儀右衛門らは熱心に互いの意見を交換しているらしく、懐から取り出した紙に盛んに文字を記していた。
どうやらあの戦いの間も、双方変わらず同じ様に過ごしていた様らしい。
しかし、そんな浮かれた顔のお菊も、梅太郎らの只ならぬ様子に気づいた。
「皆どないしたん?」
「菊姉様!」
千代が事の経緯を説明する。
カリィの件でハッとした様にお菊は才太と顔を見合わせた。
亦介に背負われ、船を降りようとしている松陰は、ブツブツとうわ言の様に何かを呟き、目は開いていながら何も見えてはいない様に感じられた。
「これは重症やわ!」
「間違いないな、”かりぃ”とやらが”かれー”なのだろう。」
「かりぃ? かれー? 一体何の事ですか?」
「蔵六様、それは後でご説明して差し上げますから、今は帰りましょう!」
「わかりました。」
三郎太が状況を把握し、蔵六を急き立て船を降りる。
ひとまず、一行は朱の屋敷に向かった。
亦介は朱の案内で松陰を客室のベッド(漢人は床に直接寝る習慣は無い)に寝かせた。
朱の屋敷の下男が水の入った盥を持って来てくれたので、お菊は水を絞った手拭で汗の吹き出た松陰の額を拭う。
全員で見ていても仕方無いし、大勢では迷惑だろうという事で、梅太郎やお菊らを残し、皆は部屋を後にした。
「ねえ、梅君? あのお守りは持ってないん?」
お菊が梅太郎にクミン入りのお守りの所在を尋ねた。
萩の漢方薬店で皆が協力して購入した、クミン・シード(カレーの香りを特徴付けるスパイス)を入れたお守りの事だ。
贈られた松陰は大層喜び、他の事が手に付かない程にその香りに夢中になってしまった為、父百合之助に叱られ、取り上げられていた過去を持つ。
しかしお菊は知っていた。
萩の港を出航する日、梅太郎が百合之助より預かっていた事を。
「ちょっと待って下さい。」
梅太郎は担いでいた荷物をまさぐり、中から包を取り出し、開いて見せた。
布に丁寧に包まれたその中には、革の袋にしまわれた、あのお守りが入っていた。
それを見てお菊は呆れた様に声を出す。
「お守り一つに随分厳重やない?」
「いえ、初めは布だけだったのですが、香りが漏れるのか、大次が私をクンクンと嗅いでましたから、こうしたのです。」
「そんな、犬やあるまいし……って、松陰君ならしそうやな。」
「だからです。」
お菊は梅太郎よりお守りを受け取り、苦げな顔で寝入っている松陰の枕の横にそっと置いた。
するとあら不思議、先程まで苦しげに顔を歪めていたのに、お守りを枕元に置いた瞬間、松陰の顔は和らぎ、呼吸も楽になるのだった。
それに俄然興味を引いたのは海舟である。
「こいつぁ何と言うか、劇的だねぇ。このお守りが何かあるのかい?」
言いつつ海舟はそのお守りをひょいっと持ち上げてみた。
すると松陰の顔は、たちまちのうちに苦しげに歪む。
それに気づき、慌てて枕元に戻す。
すると、顔にはまた生気が戻った。
「まるで物の怪に魅入られちまってるみてぇだな!」
「海舟様? 病人で遊んだらあきまへんで?」
「いや、すまねぇ。しかし、こいつぁ一体何なんだい?」
海舟がお守りの正体を知りたがった。
実はよくわかっていないお菊は、中身を買ってきた本人である才太を見つめる。
無言のうちにお菊に問われた才太が海舟の質問に答えた。
「馬芹という、南蛮からやって来た植物らしい。」
「馬芹ねぇ。聞いた事もねぇ名前だが、これがどうして?」
海舟は更に質問を重ねる。
「何でも”かれー”はその様な香りらしい。」
「”かれー”ねぇ……。梅さん、その”かれー”って何なんだい?」
「いえ、それは私にもわかりません。」
「不思議だねぇ。家族が知らないってぇのに、松陰さんは知ってるんだねぇ。」
「お兄ちゃんはポテチもハンバーグも知ってたよ!」
スズが情報を追加する。
それを受け、海舟の思案顔はますます濃くなった。
「不思議だねぇ。清国とエゲレスの戦争の予言もそうだが、本当に不思議だねぇ。この国の誰も知らねぇ事を、まるで見知った事の様に話すもんねぇ。まだ起こってもいない事を、当然の様に言うんだもんねぇ。」
思い返せば、出会ってから驚かされてばかりの松陰の知識と行動である。
海舟は、目の前で安らかな寝息を立てている少年の顔を、一体何者なのかと誰何する様に見つめた。
海舟の様子に、才太も一人思い出す。
それは萩の町中で松陰が口にした、ある言葉だ。
(かれーを再び口にする! 奴は確かにそう言った。”再び”と使ったのは、一度でも食べた事があるからだ。しかし、梅太郎以下家族の者は誰もかれーを知らぬと言う。どこかで一人で食べたのか? いや、それもありえまい。聞くところによると、こやつ等兄弟は仲が良く、小さな頃は常に一緒にいたと聞く。勉学に励む様になってからは、それこそ自由な時間はなかったらしい。初めはこやつの妄想くらいに思っていたが、かりぃなる物があるのでは、どうやら本当の事らしい。では、一体いつどこで食べた? それは誰が作った? しかも、何故ここまで執着する?)
才太の疑問も深まる。
そんな二人の様子に軽く溜息をつき、お菊は口にした。
「お二人共、松陰君が何者でもいいやないですか。松陰君が何か隠しているとしても、お二人になんぞ問題でもあるんです?」
「そうだよ! お兄ちゃんがどんな事をやってきたか二人共知ってるでしょ?」
「確かに松兄様は多少風変わりな所はございますが、家族想いの優しいお人でございます!」
「まあ、多少ではないけどね。」
「梅兄様!」「梅にーちゃん?!」
「じょ、冗談だよ……」
お菊の言葉を受け、スズや千代が松陰を擁護する。
そんな彼女らの勢いに、海舟も才太もタジタジであった。
「いやぁ、そういう訳じゃあないよ。ちょいと気になっただけの事さ。」
「まあ、食い意地が張っていたのは知っていたし、色々と普通ではないのも分かっていたしな。」
多勢に無勢、二人は頭を掻いた。
「松陰君の状態も落ち着いた様やし、お二人は別室でお休みしはったらどないです?」
お菊が海舟らに尋ねた。
他の者は朱の屋敷の別の部屋で休んでいる。
ベッドが足りないので床に寝ている者が多いが、揺れる船に比べれば天と地程の違いであろう。
皆気にもせず、思い思いに休んでいた。
そして松陰の様子である。
寝息は穏やかで、汗も別段かいてはおらず、寝苦しそうではない。
もはや問題はないだろう。
そう判断してのお菊の発言だ。
「お前を護る様、そこで寝ている奴に言われたのでな、俺はここで良い。」
「それはホンマにありがたいんやけど、朱さんの屋敷に来てまで従う必要はないんとちゃいます? まあ、頑固モンの才太様やさかい、言うだけ無駄ですか。海舟様は?」
「いや、まあ、どうやら違う様だが、狐に憑かれたとあっちゃあ一大事だしなぁ。目を離すのも心配だし、オイラもここでいいよ。」
と言う事で、全員が松陰と同じ部屋で休む事になった。
それぞれが水を借りて体を清め、朱が用意してくれた衣服に着替え、昼間の騒動でついた汚れを落とした。
疲れていたのだろう、スズと千代は、松陰の寝ているベッドのそぐ傍で、静かに寝息を立ててすぐに寝入ってしまった。
才太と海舟は部屋の壁に背中をもたれ掛け、胡坐をかいてウトウトしている。
梅太郎は部屋の隅で、背中を丸め、寝ていた。
お菊は昼間、間近で西洋の大砲や鉄砲を検分し、なおかつ実際の戦闘まで目の前で見てきたので、興奮の余韻が残り眠れずにいた。
水を含ませた手拭で、松陰の額をそっと拭う。
スヤスヤと眠る松陰の顔に安堵すると共に、今日の事を思う。
大砲の直撃を多数受け、終いには沈んでいった敵の船。
乗っていた兵隊にも大砲の弾は当たり、夥しい数の兵士が死んだのだろう。
沈んだ船の周りには、海に投げ出された兵士の姿も見えた。
あの戦闘で一体どれ程の人が死んだのかはお菊には分かりかねたが、信じられない程の数である事は確実だった。
鉄砲鍛冶の家に生まれ、数多くの鉄砲を見てきたが、それは猟師の使う物であった。
畑を荒らす猪といった獣を撃つ為の物だ。
それがこうして人に向けられ、その能力を存分に発揮した結果を まざまざと見せ付けられたのである。
一言でいえば恐ろしい、であった。
しかし、こうも思う。
どうして清軍は大砲を揃えなかったのか、と。
どうしてむざむざ突進を繰り返すだけだったのか、と。
もし清軍が船に大砲を揃えていたならば、数で勝る清軍である。
エドワードの船は対抗しえなかった、つまりは自分達は生きていなかっただろう。
また、こうも考える。
もし大砲を揃えていたとしても、性能の劣る物でしかなかったならばどうなるだろう、と。
武器の威力に恐れ慄き、その開発を止めてしまったら、もし敵が開発を続けていた場合、殺されるのは自分達なのだ。
お菊はそんな事をツラツラと考えながら、松陰が自分をここに連れて来た目的を思った。
今日の敵の哀れな姿は、このままでは将来の自分達の姿かもしれない。
松陰は確かに言った。
西洋は必ず日本にやって来ると。
だとしたら己のやるべき事は、清軍の二の舞になる事を避ける事だろう。
具体的には、西洋に対抗しうる武器の開発だ。
購入も出来るが、それだけでは対抗するには足りない。
西洋の物よりも、性能の良い武器を作り出さなければいけないのだ。
それを肌で感じてもらうのが目的だったのだろう。
お菊は決意する。
西洋の物に負けない大砲を必ず作り上げる、と。
そこでふと、お菊はついおかしくなって、一人、笑みがこぼれた。
どうして女である自分が、こんな物騒な事を考えているのだろうかと。
鍛冶の神に嫌われると鍛冶場に女が入る事は許されず、鉄砲鍛冶になるという夢は半ば諦めかけていたので、大砲を作る事自体は本望なのだが、それを叶えてくれたのが、年下である松陰というのが少々癪に障ってもいた。
「ふふっ、ウチの気持ちも知らんと平和そうに寝てはるなぁ。本当に何者なんやろねぇ、君は。じいちゃんに顕微鏡を作って欲しいなんて言うてきた時も不思議やったし、萩でのけったいな物もそうやわ。本当に、何を知ってるんやろねぇ。何を知ってて、ここまで来たんやろねぇ。全部自分一人で背負い込んで、こないになるまで我慢して、何を手にしたいんやろねぇ。君の力になってくれる人はこないにいるのに、何を無理してるんやろねぇ。」
そう言い、お菊は周りを見回した。
千代とスズは勿論の事、梅太郎は松陰の身を案じているかの様に近くで寝ている。
部屋を出た際には、出会う者皆松陰の事を心配していた。
才太と海舟も、何者なのか気にはなるが、心配していない訳ではあるまい。
それ程皆に心配されながら、肝心の松陰は、皆を心配させまいとでもいう風に、言えない何かを必死に隠しているらしい。
それが松陰の驚く様な行動力の源泉でもあるのだろうが、力になれない己が不甲斐無く、やるせなく、悲しかった。
しかし、それは信頼の有無とは別問題なのだろう。
それは理解するお菊である。
年端の行かぬ子供ではないのだ。
誰にも口に出来ぬ、墓場まで持って行くべき、秘匿すべき事柄がある事くらいはわかっているつもりである。
だが、幕府の要職に就いている訳でもない松陰が、その様な秘密を抱えているとは、容易には想像出来ないお菊でもあった。
そんな風に時が過ぎ、気づけば当の松陰が目を覚ました。
長くなったので分割します。
カリィは次で登場します。




