台南港の海戦
一同は急ぎ甲板に出た。
エドワードはヒューズより望遠鏡を受け取り、彼が指し示す、島の北の陰より突然現れた船影に見入った。
台南の港は大きな河口を少し遡った場所に設置されていた為、島の外周からは内に引っ込んだ形となっている。
従って、島の周りに沿って航行してきたと見られる船団を、この距離になるまで発見できなかったのだ。
松陰も持参していた一貫斎の望遠鏡を覗く。
強い風は感じないのでゆったりとした速度ではあるが、ゆっくりと、確実にその影を大きくしている。
一つ、二つ、松陰が数えてみた所、少なくとも5隻の船を確認出来た。
松陰はねだるスズに望遠鏡を渡し、その後は海舟らにも見てもらった。
『確かに清の水軍! ここまで接近に気づかないとは! 風があっても沖に行くには間に合わない! まずいです……。』
望遠鏡から目を離さず、エドワードが呟いた。
その横顔には焦りが浮かんでいる。
普段であれば警戒し、異変が起こればすぐに出航出来るよう沖に近い場所に停泊するのだが、今回は松陰らを迎える為港に近い位置に錨を下ろしていた。
河口ではどこに浅瀬があるか分からないので、余り自由には動けない。
しかし今更それを悔やんでも仕方無い。
エドワードは覚悟を決めたかの様に望遠鏡を下ろし、固唾を呑んでエドワードを見守る乗組員に対し、きっぱりと指示を出した。
『総員、戦闘準備! この距離だと出航は間に合わない! 錨を使って向きを変えておけ! 初めに警告の大砲を撃って様子を見る! それで退散するならよし、尚も向かって来る様なら覚悟を決めろ! 迎え撃つ! なーに、相手は突っ込む事しか頭にない連中だ、近寄る前に大砲だけで仕留めるぞ!』
『はい! 船長!』
下手に出航し、浅瀬で身動きが取れなくなる危険性を避け、その場で動かず船の向きだけを変え、大砲で攻撃する事を選んだエドワード。
エドワードの決定に即座に応えると共に、乗組員らは素早く各自の持ち場に散って行った。
その動きには迷いを一切感じない。
乗組員の機敏とした動作には、エドワードの船長としての器量が垣間見えた。
『皆さん、ここは危険です。早急に船から降りて下さい!』
エドワードは松陰らに向き直り、先程の強気な発言とは裏腹に、直ちに下船する事を求めた。
招いた客人に何かあっては英国紳士の名折れである。
その顔には紛れも無く、戦いを前にした覚悟と、客人の安全に配慮する心意気が見て取れた。
そんな彼の姿は松陰らの心を打つ。
イギリス人などアヘンを清国の民に売りつける、卑劣で恥知らずな輩と思い込んでいた者も、己の考えを改めざるを得ないと認める程に、エドワードの態度には高貴さが感じられた。
しかし彼は知らない。
松陰らの目的の一つが、西洋の力をその目で確かめる事だという事を。
この降って湧いた願っても無い絶好の機会を、しかも特等席から観戦出来るとあって、みすみす下船するなど誰も受け入れる訳が無い事を。
松陰は問う様に皆を見つめた。
そんな松陰に答える様に、それぞれが黙って頷く。
その表情には恐怖は一欠片も浮かんでいない。
真剣な皆の顔を背景に、松陰はエドワードに回答した。
『お気遣いありがとうございます。ですが我らの事はお構いなく。こちらで見学を続けさせて頂きますから。』
『何ですと?!』
松陰の素っ気無い態度から紡がれる、当然といった返事にエドワードは驚愕する。
そんな松陰の陰には期待に目を輝かせ、好奇心に心を躍らせながらもそれをぐっと押し殺し、エドワードをじっと見つめる海舟らが控えている。
エドワードにもそんな彼らの表情の意味は理解出来た。
『しかし、あなた方にはスーやセンがいるではありませんか!』
戦いを前に些かも怯まない部族の勇敢なる戦士達を、これまで幾多も見てきたエドワード。
目の前の者らも、そんな戦士達と何ら変わらない事を知る。
しかし、彼の懸念も当たり前ではあろう。
彼の不幸は、そんな常識が通じない者達を相手にしてしまった事であろうか。
エドワードの心配に対し、スズと千代の答えもまた決まっていた。
松陰は二人の無言の答えを受け取る。
『彼女らも武家の者です。もし仮にどの様な事態に陥ろうとも、彼女らも覚悟は出来ておりますので、どうぞご心配無く。』
『しかし……。』
エドワードには到底受け入れ難い返事である。
事態を本当に理解しているのか疑問に感じたエドワードは、スズと千代に向き合い、言い聞かせる様に話しかけた。
『スー、セン、分かっていますか? ここは戦場になるのですよ? 万が一にも敵が我が艦に乗船してきたら、アナタ達を襲ってくるかもしれないのですよ? この方達はもう仕方無いです。もう言いません。ですがアナタ達だけでもどうか船から降りて下さい!』
懇願する様な、説得する様な、そんな口調で二人に話すエドワード。
エドワードの言葉を受け、英語がそれ程得意ではない千代は、スズの耳元に何事か囁き、訳してもらった。
『んーとね、時間の無駄だって。あたし達に構う時間があったらさっさと敵を討つ準備をした方がいいって。あたしもそう思う。』
スズを通しての千代の言葉に思わず絶句するエドワード。
そんなエドワードにスズがトドメを刺す。
『それに、アタシ達はエドワードおじ様が守ってくれるはずでしょ?』
『うっ!』
先程までの心配顔はどこへやら、スズの発した”おじ様”に感激し、思わず黙り込んでしまうエドワード。
愛娘ジョセフィンの”お父様”は勿論別格だが、スズの”おじ様”も捨て難いと内心で歓喜に打ち震えていた。
そして、苦虫を噛み潰したかの様な渋面で、不承不承といった風を装いながら、口にする。
『仕方ありません。時間が勿体無いですし、何より敵を撃破してしまえば何の問題もないだけの事ですね。そう部下を叱咤しておきながら、私が忘れてしまうとは!』
エドワードの態度の豹変に、スズは後ろを向いてにっこり笑った。
「段々と松陰殿に似てきた様な気がするでござる……。」
「そうですね……。この先を考えると頭が痛いです……。」
亦介と梅太郎のぼやきが、戦いの前の静かな海に漂って消えた。
『急ぎ説明します。我々はここで清軍の船を迎え撃ちます。警告は発しますが、何分我が国は清国と交戦状態にある為、無視されるでしょう。砲撃で出来るだけ敵の数を減らしたいと思いますが、殲滅は出来ないかもしれません。そうなると、相手は船で突っ込んでくると思います。それが彼らの戦法だからです。そうなると船上での白兵戦です。その可能性があるので下船してもらいたかったのですが……。』
エドワードが状況を説明し、最後は言葉を濁した。
エドワードの予想と懸念は妥当であろう。
しかし、彼は知る由もない。
目の前にいるのが、白兵戦ともなれば世界でも無類の強さを誇るであろう、薩摩藩士の精鋭である事を。
限られた空間で、数で押し込む事が出来ないとなれば、頼むべきは個人の力量であろう。
今、この場に居合わせているのは、鎖国の下の太平の世にあっても、己の武を磨き続けてきた者達であるのだ。
『我々の武器を返して頂けませんか? それと、周りにいる者らの乗船を許可して頂けませんか?』
松陰がエドワードに求めた。
持参した刀は乗船時に預けてある。
『敵が乗り込んできた時の為ですね、わかりました。ヒューズ、彼らの武器を返してあげなさい。それと、彼らの仲間の乗船を手伝ってあげなさい。』
『はい、船長。』
周りで小舟で漂っていた他の仲間は、異変を察知して近づいていたので直ぐに乗船出来た。
そしてヒューズが部下に命じ、松陰らの刀を持ってこさせる。
それぞれの愛刀を受け取り、腰に差す。
それを眺めていたエドワードがぽつり、呟いた。
『初めに思いましたが、それってジパングに伝わる”カタナ”ではありませんか? オランダ商人の荷の中で見た事があります。』
エドワードの鋭い指摘には、時間も無いので曖昧に笑ってやり過ごした松陰であった。
誤魔化す様に、朱にもお願いしておく。
『朱さん、敵船からの衝突からこの船を守る事は出来ますか?』
『難しいが、やってみよう……。』
通訳の劉は、戦場にも慣れてしまったのか、下船する事もなく船に留まっていた。
『警告の砲撃、撃て!』
エドワードの号令を受け、耳をつんざく、腹にまで響く轟音を轟かせ、左舷に備え付けられた大砲から一発の砲弾が発射された。
発射と共に船外は白い煙に包まれ、一瞬にして視界が遮られる。
砲弾は敵船のはるか手前の海へと消える。
徐々に晴れてゆく視界の中、敵船は止まらない。
既にその距離は数百メートルを切っている。
『くそ! やはり大人しく帰ってはくれないか!』
エドワードが苛立たしげに吐き捨てた。
清の水軍の船は、警告の砲撃に対して互いに散開し、こちらからの攻撃に備えつつ尚も進んでくる。
5隻で逆V字へと展開し、砲弾を避ける為、それぞれがバラバラにジグザグに進んでくる。
敵の選択そのものは予想通りであったが、エドワードは緊張に身を強張らせ、船首に待機している部下に命令し、錨の鎖を引き、船の向きを変えさせた。
松陰らもそれを手伝う。
まず狙うは最も近い左端の船だ。
『戦闘開始だ! 大砲だけで終わらせる様、張り切って撃ちまくれよ!』
『おう!!』
エドワードの檄に、乗組員が大声で応える。
敵船は既に大砲の射程圏に入っている様に見えた。
船は波に揺られながらも、流されてはいない。
砲撃の方向は鎖を引いて微調整する。
『鎖はそのまま。まずは距離を測るぞ! 1番手、撃て!』
エドワードの号令に、左舷の1番砲撃手は手元の大砲に点火する。
火打石が叩き付けられ火花を散らし、詰められた火薬に点火、大砲内で爆発を起こす。
急激に膨張した空気に押され、轟音と大量の白煙を撒き散らし、丸い砲弾が砲身から押し出される。
仰角のあまり取れない艦砲では、砲弾は一直線に近い弾道で進んでいく。
目測ピシャリ、目標の船の傍に水飛沫を上げ、海面に着弾した。
『よし! 2番から10番、撃て!』
台南港における、清国水軍5隻との戦いがこうして始まった。
『くそ! 1隻撃ち漏らしたか! これでは方向転換が間に合わん! 突入してくるぞ!』
エドワードが叫ぶ。
敵船は真っ直ぐエドワードの船に向かってきていた。
このままでは激突は避けられない。
『全員衝突に備えろ!!』
エドワードの絶叫が船上に響く。
清の船は目の前である。
皆が来るべき激突に備え、身構えた。
ぶつかる! 皆がそう思った次の瞬間、突如、真横から別の船が2隻の間に割り込む形で現れた。
敵船は、割り込んできた船の横っ面に突き刺さり、船尾が流される形となった。
そしてそのまま、3隻が横に並ぶ形でぶつかり合う。
『莫の野郎、絶好の機会に現れやがったな!』
敵船の邪魔をしたのは朱の部下である莫の船である。
朱が莫に指示し、付近で待機させていたのだ。
莫は大砲を撃っている間は脇に控え、突っ込んでくる敵船を確認し、我が身をもってエドワードの船を守る盾となったのだ。
そして、エドワードの船、莫の船、敵船が横並びとなった今、次に為すべき事は明白であった。
即ち。
「抜刀! 斬り込むぞ!」
「おう!」
忠蔵が仲間の薩摩藩士を率い、誰よりも早く莫の船を走り抜け、真っ先に敵船へと飛び移る。
当然、そこは武装した清国兵で埋まっていた。
「キィエェェェ!!」
今日も絶好調な猿叫を轟かせ、蜻蛉のまま躊躇う事無く突っ込んでいく。
彼らに襲われた清国兵は哀れである。
大砲の雨を潜り抜け、味方を4隻も失ったものの、どうにか船に到達したと思ったら別の船に邪魔され、邪魔はされたが乗り込むのに支障はないと意気込んでいた所、突如気が違ったかの様な異様な集団に先手を打たれて乗り込まれたのである。
異様な集団の上げる、肌が粟立つ様な大声に足が竦み、咄嗟の防御が追いつかない。
断末魔の叫びを上げる暇もなく、瞬く間に数人が切り伏せられていく。
「流石に彼らだけでは荷が重いだろうねぇ。」
「えどわーど殿の船には近づけさせん!」
海舟らも既に敵船に乗り込んでいた。
忠蔵らが囲まれない様に敵を牽制すると共に、離れた場所からエドワードの船に移ろうとする敵兵を切り捨てていった。
『我らも抜剣し、乗り込むのだ!』
猿叫に呆然としていたエドワード達もようやく我に返り、忠蔵らに負けるものかと抜剣しての突撃を敢行した。
結果は圧倒的な勝利であった。
まず大砲で4隻沈め、艦上戦闘でも僅かな負傷者を出すのみに終わった。
戦いの終わった河口には戦の惨状が広がっている。
船の残骸が波間に漂い、その間を縫って多数の敵兵が海面から顔を出し、必死で手を動かしている。
漂う捕虜を朱の部下達が拾い上げてゆく。
莫の船は最早修復不能であるが、その甲斐あってかエドワードの船の損傷は軽微であった。
こうして、台南港の会戦は終了した。
『無傷とは言えませんが、大勝利ですね! これも真っ先に敵船に突撃してくれた皆さんのお陰です。』
エドワードが忠蔵らに感謝し、手を差し出した。
意味が分からず松陰を見つめる忠蔵。
こうするんですよと、忠蔵の手を取り、エドワードの言葉を訳し、握手をさせてあげた。
忠蔵は目を白黒させ、大砲でほとんど沈めたのはお前らではないか、俺達は残り物を頂いただけだ、と照れの混じった顔で応えた。
『敵の出現で途中になってしまいましたが、今日はどうか私の船で夕食をご馳走させて下さい! 我が大英帝国が新しく開発したメニュー、カリィを振舞いたいと思います!』
『カ、カリィ?!』
ここに来てエドワードが爆弾を投下する。
爆発したのは勿論、松陰である。
船長が実際に戦闘の指揮をとるのかはわかりません。
大砲に関しては砲兵長が命令しそうですし。
船を傾けて飛距離も伸ばすでしょうし。
正確ではない描写だろうと思います。




