エドワードの船
後日、返礼としてエドワードは松陰らを船に招いた。
西洋の船と興奮しきりな者が多かったが、全員で押し掛けるのも迷惑だと判断し、多くの者が港から船を出し、遠巻きに眺める事となった。
だが、それだけでもエドワードの船の威容は見て取れた。
台南の港に停泊している他の船とは一線を画し、圧倒的な存在感を持って海の上に鎮座していた。
当時の清で普及していた船は、ジャンク船と呼ばれる木造帆船である。
トン数でいえば、西洋の大型船を上回る大きさを持つモノもあったが、海禁政策をとっていた清朝の治世下、その様な船は段々と姿を消していた。
ここ台南の港に停泊している船も、エドワードの船に匹敵する大きさのモノもあったが、まずはその見た目が違い過ぎた。
エドワードの船は帆柱が3本あり、竜骨が船体中央を走り、船の長さに比べればスリムで、喫水線は深く、縦にも長い。
対してジャンク船は帆柱が2本で、竜骨を有しなく、喫水線は浅く、横に平べったい構造であった。
「これが西洋の船ですか! おっきいです!」
「3本の帆柱とは、たまげたねぇ。」
「見てみ! 大砲やわ! こないな船にあないに大砲を積んで、全く贅沢やわぁ。ええなぁ……。」
「こんなので大海原を駆け抜けてみてーなぁ。」
小舟で迎えに来たエドワードに伴われ、松陰らは沖へと来ていた。
喫水線の深い西洋船は、浚渫をしていない港には入って来れないので、沖に停泊して小舟で行き来するしかない。
帯刀が、生まれて初めて見る西洋の船に大感激している。
海舟も、話に聞いただけの西洋の船を、直にその目に出来たとあって感心しきりであった。
お菊は、船の両舷に突き出た大砲に興味津々である。
平蔵は、帆が風を一杯にはらんで、軽やかに海原を進む光景を思い浮かべた。
「やはり、西洋に対抗するには大型船が必要ですね……。」
松陰もイギリスの帆船の大きさに圧倒されていた。
前世で見た大型タンカー、フェリーには比べるべくもないが、それでも目の前の帆船の存在感に胸を打たれていた。
エドワードの船は木製の大型帆船である。
帆柱は1本で、積載量を上げる為に甲板を持たず、竜骨も有しないシンプルな日本の弁財船とは違い、船首に鎮座する女神像、帆を畳み込んだマスト、船体全体に張り巡らされたかの様なロープが絡み合うその姿は、複雑な機構を持った機械が有す、男心を刺激する美しさがあった。
スズや千代、お菊も生まれて初めて見る西洋の船に驚き、歓声を上げている。
エドワードは、そんな松陰らの姿に満足げな笑みを浮かべていた。
「ほほう! 西洋の時計ったいね! 流石によく出来とるばい!」
儀右衛門が船内のクロノメーターを見て感嘆の声を上げた。
当時、クロノメーターは最先端の時計である。
航海の安全性を確保する目的で、現在地(経度)を知る事が出来る、正確な時刻を刻む時計が必要とされ開発された。
緯度は北極星や南十字星の角度を調べる事などで把握できるのだが、経度はそうもいかない。
経度を知る最も簡単な方法としては、出発地点の時刻を刻む時計が手元にあれば良い。
例えば、出発地の日の出が朝の6時であったとしよう。
東に船を進ませ、その日の日の出の時刻が4時であるなら、そこは元いた場所ではない。
360(地球一周分の経度)を24(一日の時間)で割り、それに時間差分の2時間をかけ、出た数字が経度のずれである。
つまり、出発地から経度で30度離れた地点にいるのである。
この際必要不可欠なのが、正確な時刻を刻み続ける時計の存在なのだ。
仮に、時計の誤差が一日1時間もあったとしよう。
そうなると、現在地の推定が経度で15度もずれてしまう。
赤道上の地球の円周は約4万キロメートルなので、4万を24で割った数字、約1600キロメートルもの計算違いとなってしまうのだ。
こうなると死活問題である。
また、これはあくまで赤道上での距離であるので、緯度が変われば数字は変わってくる。
それに加え、実際の航海では東西に一直線に移動する事など無いので、正確な時計があったとしても現在地の把握は並大抵ではない。
たとえ現代のクォーツ時計があったとしても、天体の動きだけを頼りに現在地を把握する事は困難であるのに、当時の時計は皆機械式であり、誤差を失くす事は至難であった。
正確な時計の開発は、船乗りの悲願とも言えた。
しかも船には揺れがつき物であり、当時の時計から故障を排除する事も難しい問題であった。
それには、いくつもの時計を揃えておく事で対応した。
メインが止まった時用の補助の時計、それが壊れた時の為の補助の補助用、といった具合に。
高価なクロノメーターであったが、身の安全には代えられない。
エドワードにとっては、愛する娘が国で待っているともなれば尚更であろう。
「これは?」
儀右衛門が針の止まった一つの時計を指差し、松陰に問いかけた。 儀右衛門の意を汲んだ松陰は、近くでスズを構っていたエドワードに尋ねた。
「壊れているそうですよ。」
松陰の言葉を聞き、俄然目を輝かせる儀右衛門。
その心は明らかだ。
松陰はエドワードに更にいくつか言葉を投げかけた。
「ミスター・エドワードにお聞きしましたが、触っても良いそうですよ。」
「誠?!」
儀右衛門は喜びに体を打ち震えさせ、食い入るようにエドワードを見つめる。
エドワードは微笑んで、どうぞ、とばかりに儀右衛門をクロノメーターの前に招いた。
しかし、触ってもいいかと松陰が尋ね、エドワードが了承した際、彼の部下らしき人物が抗議の言葉を挟んでいた。
高価なクロノメーターを、時計の事など知るはずがない野蛮な東洋人に触らせていいのですか、と。
修理に出せば直るかもしれないのに、完全に壊れてしまったらどうするのですか、と。
そんな尤もな憂慮の意見をエドワードはやんわりと拒絶し、儀右衛門に勧めてくれたのである。
その顔は微笑を湛えていたが、その笑顔に松陰は何か引っかかるモノを感じた。
それに、先程エドワードに抗議の声を上げた者は、ハッとした様にエドワードを見つめ、次にニヤニヤとした表情を浮かべ、儀右衛門を注視している。
松陰は嫌な予感をヒシヒシと感じながらも、儀右衛門を見守る事しか出来なかった。
当の儀右衛門はクロノメーターを触る事もせず、遠くから眺めたり、近寄ってみたりと本気なのか解らない様子。
やきもきした松陰が口を開こうとした、まさにその瞬間、
「これでは触れんったい。専用の道具があるのではなかね?」
顔を上げた儀右衛門がエドワードに向かい、平素と変わらぬ落ち着いた声で話しかけた。
松陰は慌ててそれを訳す。
松陰が訳した儀右衛門の言葉を聞き、エドワードは破顔一笑、今度は裏を感じない、心からの笑みを浮かべその口を開いた。
『気づきましたか。そんな事も事前に解らぬ者には、安易に手を出す前に中止してもらうつもりでしたが、お見事です。ほら、ウォルター、工具を出してあげなさい。』
名指しされたウォルターは、エドワードの言葉にあたふたしていた。
彼は先ほどエドワードに抗議の声をあげ、程なくしてニヤニヤしていた人物である。
恐らくエドワードの意図を察し、無知な東洋人がこっぴどく遣り込められると下種な期待をしていたのだろう。
招いた客に対する態度とは思えないが、当時は有色人種には傲慢な態度が基本の西洋人である。
野蛮人は訳も解らず文明の利器に手を出して、すぐに壊してしまうだろうくらいに考えていたのだろう。
しかし、儀右衛門が見事エドワードの罠を潜り抜けたので、呆気に取られたらしい。
呆然としたままのウォルターから工具を譲り受け、儀右衛門は再びエドワードを見やった。
そんな儀右衛門の視線に応え、しっかりと頷くエドワード。
それを見て安心した儀右衛門は、今度は躊躇う事無く工具を使い、壊れたクロノメーターを分解していった。
「成程、さっぱりわからん!」
真剣な表情で見つめていたが、根を上げた様に、そう口にした。
「蔵六さん、何がわからないのですか?」
嬉々として一心不乱にクロノメーターと格闘している儀右衛門を横目に、蔵六の顔は曇っていた。
目にした事が無い精密機器のクロノメーターにも興味は湧くが、それよりも先程の出来事が頭から離れなかったのだ。
「ミスター・エドワードと、儀右衛門殿の先程のやり取りです。どうしてこうなったのですか?」
見当違いの事で悩んでいた蔵六。
エドワードの意図が理解出来なかったのだ。
「えーと、蔵六さん? ミスター・エドワードは儀右衛門さんを試していたのですよ。不用意に手を出す様な人には、大事な機器を触らせたくないと思ったのです。儀右衛門さんは見事ミスター・エドワードの試練に合格したという訳です。」
「おぉ、そうだったのですか! これでやっと”くろのめえたあ”に集中出来ます!」
松陰の説明に合点がいった様で、そう言って蔵六は儀右衛門の真横に張り付き、一つ一つの部品を丁寧に検証しているらしいその手の動きを、瞬きを忘れたかの様にじっと見つめた。
儀右衛門は構造がわかる程度に時計の中身を開いているが、部品自体には手を付けていない。
横に並んだ蔵六に己の知見を解説してゆく。
蔵六の論理的な思考力には、儀右衛門も敬意を抱いていたのだ。
「誠、西洋の職人の仕事は見事ばい! そして、動力源はこれったい。我輩にもこれは作れんばい。それがこの歯車に伝わってこれを動かし、この部品が動くことによってこちらが作動するったいね。それと連動してここがこうなって……」
「ふむ、成程。これは見事なからくりでございますな! それではここはこうですか?」
「そうたい。ここがこうなって、ここと組み合わさり……」
当時、時計自体は和時計として国産の物もあったし、西洋の物もオランダから僅かながらも入ってきていた。
西洋の時計は儀右衛門も目にした事があり、持ち主である豪商から修理を頼まれ、その中身を精査した事もあった。
しかし、今目の前にあるクロノメーターは、儀右衛門が今まで目にした時計とは大きく異なり、更に複雑な機構を持っていた。
儀右衛門の技術者魂が刺激されたのは言うまでも無い。
蔵六と熱く語り合う儀右衛門の姿に、松陰も胸が熱くなる。
儀右衛門と蔵六、今は萩で待つ嘉蔵と一貫斎ならば、今は西洋に大きく水を開けられた技術力の差も、必ず短時間で追いつけるはずだと確信する光景であった。
そして日本には、彼らに勝るとも劣らない技術者、名工達がひしめいているのだ。
西洋に追いつく事は必ず出来ると解っているが、それをどれだけ短く出来るのか、それは松陰の考えるべき事であろう。
それは兎も角、部外者には意味が解らないので今は二人をそっとしておこうと松陰は判断し、エドワードにチラッと視線を送った。
その視線の意味に気づいたエドワードは、憮然とした表情でいるウォルターに二人を見守る様言いつけ、部屋を後にした。
この二人なら放っておいても問題ないと判断したのだろう。
「そないなケチ臭い事言わんと、見せてぇな。」
お菊がごねていた。
どうやら大砲を間近で見物したいらしい。
船の安全に関わる事なので、大砲と火薬の置いてある部屋の内部までは見学する事が出来なかったのだ。
『彼女はどうしたのです?』
ごねるお菊に気づいたのか、エドワードが松陰に聞いてきた。
『彼女は代々鉄砲を作ってきた家に生まれたので、大砲にも興味があるのです。』
『ほう。女性でありながら大砲に興味があるとは驚きました!
ふむ、まあ、女性一人くらい問題ないでしょう。ジェームズ、彼女をご案内しなさい。』
『わかりました、船長。』
ジェームズという若い男がお菊を案内しようとする。
すると才太は静かに、お菊の後を付いていく。
それに気づいたジェームズは、エドワードに注意してもらうべく声を上げた。
『彼は?』
『すみません、彼は彼女の護衛、つまりナイトなのです。ですので、彼女から離れる訳にはいかないのです。』
『ナイトですと?! むむむ、それなら仕方ありませんね……。今更禁止するのも不恰好ですし、宜しい。彼も連れていきなさい。』
『ご厚意感謝します。それと、通訳も宜しいですか?』
『仕方ありませんね……。』
『ありがとうございます。サブ、通訳をお願いできますか?』
『わかりました、先生。』
お菊が必要とするであろう通訳の為、三郎太に同行してもらった。
因みに、乗船時に刀を預けてあるので皆丸腰である。
『船長! 大変です!』
エドワードに連れられ船の内部を見て回っていた一行の足は、船内を慌しく駆けつけて来た、一人の乗組員の声によって止められた。
彼の顔色は青ざめ、額には大粒の汗をかき、ひどく緊張しているのが見て取れた。
『どうしたのだね、ヒューズ?』
ただ事ではないとエドワードにもすぐに理解できたが、松陰らの手前努めて平静を保ち、尋ねた。
ヒューズは口から唾を飛ばして報告を続ける。
『船長! 水平線より清軍の船が現れました!』
この当時、儀右衛門が西洋の時計を知っていたのかは未確認なので創作です。
それに時計職人ではないので、修理も出来たかわかりません。
儀右衛門ならやってくれるだろう、くらいで書きました。




