お告げ
百合之助はいつもの様に日が昇る前に目を覚まし、息子二人と共に身を清めて家の外にて藩主邸と京都の御所、祖霊に向かって祈りを捧げていた。
祈りが終わり、朝食前の作業を始めようとしたその時、「父上!父上!」という緊迫した梅太郎の声が突如後ろから響いた。
何事?! と振り向いた百合之助の眼前には、硬直し、全身をブルブルと振るわせ、血走った目をぎょろっと見開いて天を見つめる大次郎がいた。
梅太郎は心配した様子で大次郎を見つめている。
三人のただならぬ様子に寿を抱いた滝と千代も家から出てきた。
「どうしたのだ大次郎?」
百合之助が声をかける。
その声には大次郎を心配する親としての気持ちと、ただならぬ息子の様子に不安を隠せない心情が含まれていた。
それに答える様に大次郎は喋り始めるが、その視線は空を見つめたままだった。
「父上、虎はお告げを聞きました。」
大次郎は使い慣れた幼名である虎之助の名を言う。
日頃は武士の心構えとして新しい名前を使う様に言っていたが、今はそれどころではない。
常軌を逸した様子の大次郎ではあったが、その声はひどく冷静で、それがまた百合之助の心を騒がせた。
「お告げとな?」
「はい。香霊大明神と名乗る方のお告げです。」
「何? かれい大明神だと?」
かれい大明神とはまるで聞いた事の無い名前の神様である。
一瞬、大次郎の悪戯ではないかと疑った百合之助であった。
たとえ悪戯であっても神様の名前を出す事など許されない。
拳骨をと思った百合之助であったが、尋常ではない息子の様子に百合之助は手が止まり、言葉を飲み込んだ。
暫くしてやっと、言葉を搾り出す。
「し、して、そのお告げとは、一体?」
「香霊様は仰いました。数年の後、清国とイギリスの間で戦争が起こり、清国が負けるだろうと。清国はいくつかの港を開く事を余儀なくされ、領土の一部を切り取られるであろうと。そしてその後、世界中の富をその手に収めんとする西洋の列強国がこの日本を訪れる様になり、日本は大混乱に陥るだろうと。」
「な、何と!それは真か?」
「香霊様は確かにそう仰いました。」
大次郎の言葉は衝撃の内容であった。
大国清が戦に負けるというのだ。
驚かない訳が無い。
しかし、その後の事には理解が及ばない。
自然と疑問が口をつく。
「わが国は鎖国をしておるぞ?」
「西洋列強の圧力には勝てず、幕府は開国を余儀なくされると。」
「何ということだ……」
海禁政策は国禁である。
それを異国の圧力で変更するなど、あってはならない事だろう。
その想いが顔に出た百合之助を、安心させるかの様に大次郎は続けた。
「ご安心下さい、父上。香霊様はそれに備える為の知恵もまた虎に授けて下さいました。」
「何?」
「この知恵を活かし、まずは毛利家家臣一同の団結を図る様にと。そして日本全体の力を結集すれば、日本に迫るこの国難も必ずや退けられるだろうと香霊様は仰いました。いえ、結集しなければ国難の回避は出来ないと。」
「家臣一同……日本全体の力を結集しなければ……迫る国難を退けられない?」
百合之助を驚愕が襲う。
関が原よりこの方、長州や薩摩といった外様は、幕府に反感を持ちながらも謀反を起こす事無く過ごしてきた。
幕府に対する反抗心はあったが、大次郎はそれを超えなければ国難の回避は出来ないと言うのだ。
長州藩士でしかないと思っていた百合之助に、初めて日本の為という意識が目覚めた瞬間である。
「そうです、父上。香霊様はこの虎に仰いました。まずは己の父と叔父を頼れと。」
「私と文之進を?」
「はい! 家族の協力なくして何事を成せようかと。」
「そう、か……」
「お願いいたします、父上!」
「この国の為とあらば、否はない!」
「ありがとうございます!」
そう言うなり大次郎は、まるで糸が切れた様に崩れ落ち、規則正しい寝息を立て始めた。
その場に残された家族は互いの顔を見合わせる。
百合之助はやや興奮した面持ちで、滝は困惑している様だ。
梅太郎は何か思案している様子であり、千代は目を輝かせている。
寿は何もわからず眠っていた。
それぞれの胸中を見てみよう。
百合之助
まさか息子がかれい大明神なる神様のお告げを賜るとは!
未だに信じられぬところはあるが、もし本当ならば大変な事だ!
我が主君の為にと学問を積んできたこの私に、神国日本のお役に立てる日が来ようとはな!
いや、待て。
大次郎の悪戯かも知れぬ。
あの子は時々思いもかけぬ悪戯をしでかす事がある。
今回もその可能性が考えられる。
考えられるが、あの常軌を逸した姿は悪戯とも思えぬし……。
しかし、数年のうちに清国とイギリスが戦をすると断言しておるから、それを確かめてからでもいいのであろうか……
それに、かれい様なる神様に授かったという知恵を見てからでも遅くはあるまい。
滝
どうしたというのかしら、この子は?
まるで狐が憑いたかの様だわ。
生まれた時からどこか他の子とは違うと思っていたけれど、まさか霊能者なのかしらね?
それにしても、かれい大明神って誰かしら?
聞いた事がない神様ね。
いずれ何か事を成す子だとは思っていたけれど、こんな不思議な事なんて思ってもみなかったわ。
梅太郎
大次の奴、とうとうやっちゃった!
前からおかしいと思ってたんだよ!
叔父上に折檻されてからというもの、妙に大人しいなと思ってたし!
普段の大次なら絶対に仕返しの悪戯をするはずだって!
それがそんな素振りを微塵も見せず、叔父上の講義に食らいつく様にしてさ。
あれは絶対何か企んでると、とんでもない悪戯を考えているんだと思っていたけど、まさか神様の名前を出しちゃうなんて!
やばいって大次!
神様の名前を悪戯に使ったことが父上と叔父上にばれたら、あの折檻なんて目じゃない罰が待ってるぞ?
わかってるの?
でも、あの清国とイギリスが戦争になるって断言していいものなのかな?
数年のうちにって言うから、もう直ぐだよね?
それまではばれないから問題ないとか考えてないよね?
何を考えてるんだい、大次!
千代
さすが大兄様!
こんな大胆な事を!
布団の中でブツブツ呟いていたから何か考えているとは思っていたけれど、まさかお告げだなんて!
日本の為とか言ってしっかり父上まで巻き込んでいるし!
父上も乗せられてるし!
一体これから何をやるつもりなのかしら?
家族の協力が無ければっていうから、私も何かやれる事があるのかしら?
何か任せてくれるのよね?
仲間外れにしたら泣いちゃうから!
寿
……おっぱい……
そして昼過ぎに大次郎は目を覚まし、寝かされた布団から飛び起きた。
飛び起きるなり筆と紙を取り出し、何やら書き始めるのだった。
その場に居合わせたのは千代だけである。
千代は驚いて大次郎を見守ったが、大次郎の求めるままに紙を探してきて手渡した。
大次郎は休む間もなく書き続けている。
千代は床に散らばった物にざっと目を通してみる。
『国防論』『西洋の技術』『アメリカ国事情』『イギリス国事情』『阿片戦争概要』等々、刺激的な単語が並んでいた。
千代は、全てを理解出来たわけではないが、大次郎が書いている内容が大変な事だと直感した。
今大次郎が書き留めている物は、この長州藩のみならず、日本中に衝撃を与えるだろうと思った。
そして、日本中を騒動の渦に巻き込むであろう人物が、目の前で一心不乱に筆を走らせている自分の兄だと思うと、知らずに胸が熱くなるのだった。
百合之助が畑仕事から戻ると、未だに寝ている大次郎と、家事をしている滝、書き物らしい紙の束を整理して読んでいる千代、梅太郎の姿があった。
「いかがした?」
「あ、父上! すみません、出迎えもせずに……」
「よい。それより、大次郎はまだ目覚めぬのか?」
百合之助の問いに千代が答える。
「いいえ、父上。兄上は一度目を覚まし、筆を取り出したかと思うとこれらを一気に書き上げ、また眠ってしまいました。」
「何? これを大次郎が?」
「はい、父上。」
「貸してみなさい。」
「はい。」
百合之助は二人から紙の束を受け取った。
かなりの量である。
これを、大次郎が昼から一人で書き上げたという千代の言葉に疑問に思った。
とてもではないが、信じられる量ではない。
一番上には『阿片戦争概論』とある。
阿片戦争とは一体どの戦の事であろうか?
歴史にも詳しいはずの百合之助にも皆目見当もつかない名であった。
そして、何気なく読み進めていくうちに、百合之助の顔は次第に強張っていった。
それは、大次郎が香霊大明神なる神からのお告げだと言った、清国とイギリスとの戦の事が書かれてあったのだ。
戦が起こるのは天保10年とある。
つまり、今から2年後に起こる事柄が書かれているのだ。
信じ難い事が書いてあった。
アヘンという日本でも禁じられている物を、茶葉の輸入で清国に流出した銀、金を取り戻す為にイギリスが密輸する事実。
アヘン中毒者の増大で社会が不安定になり、当然清国はアヘンを取り締まる法を定め、密輸されたアヘンを没収、焼却処分にする。
イギリスはそれに激怒し、他国に武力で攻め入り、清国を屈服させるというのだ。
百合之助は言葉を失った。
清国といえば言わずもがなの巨大な帝国である。
それを、東インド艦隊という、数の限られた遠征部隊が撃破するというのだ。
そして、領土の一部を割譲させ、イギリスの自領とする。
それはつまり、日本のすぐ近くに、そんな野心を持った国家が戦力を保持するという事である。
そうなれば鎖国をしている日本に影響がないはずがない。
大次郎も言っていたではないか。
いずれ日本にも西洋がやって来て、日本は開国を余儀なくされると。
こんな恐ろしい出来事がたった2年後に起こってしまうのか?
百合之助は俄かには信じられない思いであった。
まさか、と思い、ふと顔をあげると梅太郎と千代が自分を見ている。
二人の目には戸惑いと恐怖が入り混じっていた。
「二人共、これを読んだのか?」
百合之助は内心の不安を押し隠し、努めて普段通りの声を出して尋ねた。
「はい、父上。千代は大次郎についていましたし、私も叔父のところから帰ってきて時間がありましたので……」
「そうか……。二人共、これの内容は他言無用で頼むぞ。」
「どういう事ですか?」
「大次郎の賜ったというお告げが、正しいものかどうかはまだわからん。それなのに、徒に騒いでは大次郎の身の為にもならんだろう。」
「……そうですね。わかりました。」
「千代も頼むぞ。」
「はい、父上。」
これで今の所は問題無いだろう。
後は、これを文之進にも見せ、どうすべきか意見を聞かねばなるまい。
私一人では手に余る問題である。
こうなっては大次郎の悪戯とは思えない。
悪戯にしては書かれた事が余りに詳細すぎる。
それに子供の悪戯にしては内容が出来すぎている。
これらを短時間で書き上げる?
初めから用意していたというならば兎も角、大人でも書き上げる事は容易ではない。
まさか周到に準備されていた悪戯なのか?
いや、とてもそうは思えない。
悪戯で書いた想像の産物とは思えない。
まるで見てきた様に書いてあるこれらは、神の御業としか思えない。
そうであるならば、我が身の処し方も決まってくる。
大次郎が賜ったという知恵に沿って行動するのみだろう。
恐ろしき西洋の脅威が神国日本に迫りくる未来を感じながら、百合之助は己の心が昂るのを抑えられないでいた。