漂流、救助、拘束
「平和でござるなぁ。」
「ああ、平和だねぇ。」
「これは平和なのですか?」
「あれは地獄でござったなぁ。」
「あれは地獄だったねぇ。」
「地獄は見た事がないのでわかりませんが?」
亦介と海舟が舳先に寝そべり、何処までも澄み切った青空を見つめ、お互いの息災を喜び合う。
蔵六も同じ様に寝ているが、なにやら噛み合っていない。
大海原にぽつんと浮かぶ、船の上の一コマである。
嵐に遭遇し、三日三晩の戦いがあった。
船を転覆させまいとする平蔵らの指示に従い、船酔いで使い物にならない亦介らを除いた者の必死の努力の甲斐あって、船は帆柱を失ったものの転覆を免れ、こうして海原を漂っている。
亦介らは、青海島を離れて間もなく船酔いが始まった。
沖に出れば、やはり波が高かったのだ。
嘔吐を繰り返す三人を笑う千代とスズであったが、嵐の中ともなれば流石に酔った。
動ける者以外は船倉に逃げ込み、縄で体を固定し、揺れに耐えていた。
平気だったのは平蔵らの船員5名と、東湖、忠寛の熱血漢コンビ、三郎太と重之助の少年コンビだけである。
松陰も、流石にあの揺れには耐えられなかった。
嵐を無事乗り切った直後の船には、死屍累々とした光景が広がっていた。
船酔いに苦しんだ者は船倉の中嘔吐物に塗れ、戦い疲れた者は船上に屍を晒し、まるで地獄絵図の様な惨状であった(特に船倉の中は)。
それも既に遠い過去である。
亦介、海舟、蔵六を残し皆快復しており、その三人も漂流中の平穏で船酔い自体は醒めている。
ただ、疲れ果てているだけであった。
皆して嘔吐物を清め、清掃し、衣服は海水で洗濯し、干した。
今はもう、当時の惨状を思い出させるものはない。
誰も思い出したくは無い。
「しかし、転覆せずに済んでよかったぜ。」
平蔵が松陰に声をかけた。
船大工にお願いし、転覆に備えた工夫はしてあったが、やはりしないに越した事はない。
その工夫も、船倉を密閉し、転覆してもある程度は浮く、というだけのモノであったが……。
そして、空いた樽を数個積み込み、簡易的な筏を組める様にしていた。
飲み水その他は縄でくくり、バラバラとはならない様にしておくという、誠にお粗末な転覆対策であった。
「今から転覆は勘弁ですが、対策は効果があったのではないですか?」
平蔵に応え、松陰が言った。
帆柱を失ってからは、補助的な帆(かなり小さい)が掲げられる様になっている。
舵も小さいが、予備に置き換えてある。
初めの船足には遠く及ばないし、風を効果的に捉える事も、舵も効き難いが、どうにか航行は出来ていた。
「まあ、正直、あの嵐で転覆しなかったのは奇跡みたいな気もするがな。香霊様の御加護が効いたのか? 御加護があったら、そもそも嵐には遭遇しねーのか?」
「その様な、都合の良いものではないでしょう?」
「ま、ちげぇねぇ。」
拝んで全てが上手くいけば苦労は無い。
「で、ここはどの辺りなんだ? かなり南だろ? 南は見当がつかねーな。」
「そうですね。随分と南に来たはずですが……。」
夜、北極星を確認し、南に来た事は間違いない。
しかし松陰も、どの辺りかの確信はない。
「あいらいく、すし。ほわっと、どぅーゆーらいく?」
「あいらいく、てんぷぅらぁ。はうあばうと、すず?」
「I like potechi very much!」
「「あい、まい、みー、ゆー、ゆあ、ゆー、しー、はー、はー」」
三郎太、重之助は今日も熱心だ。
一人スズが流暢に話している。
そんな彼らの周りで英語を学んでいるのは、暇を持て余した荒くれ者の船員達である。
漂流するだけで船員としてする事があまりないので、興味本位で英語を学んでいるのだ。
とはいえ、暇潰し程度なので、身にはつかないだろう。
「ですから、鎖国などすべきではないのです。同じ様に鎖国しているはずの朝鮮国ですら、我々に水も食糧も提供してくれたではありませんか!」
「あれは漁師だからだっぺ! 役人が出てくれば、また違うっぺよ!」
忠寛と東湖の熱血コンビは今日も熱い。
朝鮮の済州島での事を話している。
「我々はその漁師に助けられたのですよ?」
「惻隠の情だっぺ! 不思議はなかっぺ!」
「あなたに惻隠の情はないのですか?」
「西洋人にそんなモノは湧かないっぺよ!」
「ああ、もう!」
相変わらずの東湖に忠寛もお手上げである。
「あの島、やけに貧しい様に見えたが、何ゆえであろう?」
「大方、年貢が重いのだろうが……。」
「しかし、あれでは食うのもやっとではないのか?」
「それなのに、水は兎も角、食べ物まで分けてくれるとはな……。」
島の事を話しているのは忠震、才太である。忠震は才太より三才だけ若い。
その済州島の人々の性格であるが、朝鮮半島本土の人々の激しい性格に比べ、温和で純朴な人が多いらしい。
しかし朝鮮王朝時代は流刑の地であり、政争に負けた王族、両班がこの地へと流された。
そんな済州島で水と食料を得た松陰ら。
彼らが幸運にも、人柄の良い人々が集う村に上陸したのだろうか……?
「せやな、やっぱ水は浴びたいわな。」
「はい。頭を洗いたいです……。」
「覚悟はしてたんやけど、きついなぁ。」
千代、お菊が男共には聞こえない様、小声で話している。
「用を足すのが海にというのも……。」
「耐えられへんよねぇ。」
「早く陸に上がりたいです……。」
「せやねぇ。」
真水は貴重であるし、海水で体を洗えば後に塩が残る。
厠は板で囲っただけの空間で、船に開いた穴から海に落とすだけであるし、綺麗好きの千代には何かと耐え難い。
松陰に言い含められていたし、それを押して来たので我慢はしているが、やはり苦痛は苦痛である。
悪臭防止に松陰が持って来ていた、”えひめアイ”があるだけまだマシであるが、それも心許ない。
済州島には彼女らは上陸していない。
何かあっては遅いので、松陰に言われ船の中で待っていたのだ。
一刻も早く目的地に着いてくれ、と願う千代、お菊であった。
儀右衛門、弥九郎は荷物の点検、管理に余念がない。
嵐を越えて、からくり人形の部品が壊れていないかなど、見るべき事は多い。
松陰の意見で人形の外観に拘っているので、破損がないか確認している。
「しかし、どうしてこの人形はこの様な格好なのだ?」
弥九郎が儀右衛門に問いかけた。
「松陰さんは、あの話を聞いた後にこれを見れば、感動は何倍にもなる、言うとったばい。」
「成程。確かに、これが動けば拍手喝采だな。よく考えてあるものだ。」
「我輩も、初めは訳がわからんかったけんね。松陰さんは、まっこと商売人たい。」
「確かにそうであるな。」
荷に異常は無い。
「船だ! 船が見える!」
船の先端で、一人望遠鏡を覗いていた梅太郎が叫んだ。
その声に皆が反応し、梅太郎の下に集まる。
その顔は期待に満ちていた。
「本当か?」「どこだ?」「あれだ!」「あそこ!」「おお!」「やっとか!」「船やわぁ!」「これでやっと!」「助かった!」
「おーい、こっちだー!」「こっちだぞー!」
皆一斉に手と口を動かし、助けを求めた。
漂流してより5日が経ち、水も食料も大丈夫か? と皆が心細くなってきていた。
「どこの船だ?」「清か?」「イギリスか?」「この際どちらでも良いぞ!」「早く陸に上がらせてぇな!」「私は水を浴びたいです!」「梅太郎殿、ちょっと拙者に望遠鏡を貸すでござる!」
梅太郎より望遠鏡を奪った亦介が、右目に当て、覗く。
「船の形は、どうやら清国の物でござるな。船の上の人影から察するに、あまり大きくは無い船でござる。お! こちらに気づいている様子でござる!」
亦介の説明に、皆が歓声を上げた。
「段々大きくなってきたでござる! 顔もわかるでござるよ! 我々によく似ているでござる。これは清国で間違いないであろうな。船の上をバタバタ走って、慌てている感じでござる。」
清国でもいい。皆がそう思った。
もう、それぞれの目に、船の姿ははっきりと映っている。
「ほほう、何やら緊張している感じでござるな。刀を準備して、鉄砲も取り出している様子。我らは唯の漂流者でござるのに、随分と物々しいでござるな。」
亦介の説明に皆は絶句したが、亦介は気づかない。
「船頭らしき男があれこれ指示を出しているでござる。口がよく動いているでござるよ。おお! 声も聞こえてきたでござる! これは、聞いた事がある! わかったでござる! 薩摩の言葉でござるな!」
亦介が得意になって皆に教えた。
誰もが黙ってそれに頷く。
目の前には、一行の船より一回り大きい船が横付けしている。
その船の上から、刀を差した武家らしき男が、厳しい表情で一行を見据え、その後ろには鉄砲を抱えた数人が、照準をこちらにあわせ、立っている。
「怪しか! どこのモンでごわす?」
それは亦介の指摘通り、薩摩の言葉であった。
そして一行は救助という名の拿捕、拘束をされ、荷物を没収され、薩摩藩に連行された。
これより、薩摩隼人による尋問(拷問?)が始まる。
薩摩の言葉はイメージです。
予めお断りしておきます。




