船出
「絶対に嫌でござるのに、どうしてこうなった……。」
亦介の嘆きが空しく響く。
船出の日が近くなるにつれ、杉家に近づかない様にしていた亦介であったが、松陰はそれを見越し、清風を通じ逃がさない様にしていたのだ。
少年である松陰にだけ任せては長州藩の名折れという事で、敬親直々の指名であると、清風から亦介に言い含めさせていた。
「断れば(儂が)どうなるかわかっておろうな?」
「……くっ。これも藩の、家族の為でござるのか……。」
こうして、遂に観念した亦介も加わり、戦見物の船出が整った。
時に、1841年5月の事である。
「千代とスズは見送りには来てくれなかったか……。」
「一昨日はちゃんと顔を出していたし、昨日は何だかこそこそしていたけど、大方、船出を見ると辛いからじゃないの? 正直、私も出来れば、今からでも見送る方に回りたいんだけど……。」
松陰の呟きに、梅太郎が応えた。
後半の部分は聞き流す。
一昨日に開かれた、ささやかながらも心の篭った送別会には、千代もスズも顔を出していた。
最後まで同行を願っていたが、結局松陰に許可されず、不満げな顔ではあったものの、暫しの別れを惜しみ、航海の安全と計画の成功を、残る者皆で祈ってくれていた。
昨日は二人して松陰から隠れ、顔も碌に見ていない。
そして、今朝の見送りにはいもしない。
嫌われてしまったなと感じるが、仕方の無い事だ。
「ほな、じいちゃん、行って来るわ。」
「達者でな、菊。」
「じいちゃんも、体を大事にしてな。」
「わかっとる。松陰さんに、課題は山ほどもらったさかい、それをこなさん限りは死ぬに死ねんわなぁ。」
史実では既に天に召されている一貫斎であるが、好奇心を刺激されたのか甘酒の効果か、まだまだ元気そうな様子である。
日本天文学の魁は、日本微生物学の魁にもなってもらわねばならない。
「では、岩倉卿、石鹸や”えひめアイ”の事はお願いします。」
「任せておくでおじゃる。しっかり儲けておくでおじゃるよ。」
岩倉卿は留守番である。
「麻呂は戦になど興味はないでおじゃる。」らしい。
イギリス商人との貿易には心が動かされたらしいが、何せ言葉がわからないので断念した様だ。
今は目先の金を優先しようとの事である。
彦根より届いた大量の牛の脂を使い、石鹸やポテチなどの販売を軌道に乗せたいのだ。
松陰としても、営業といった面倒な事は人に任せてしまいたいと思っていたので、万々歳である。
牛の脂で彦根、販売の為に京、大阪を巡る、実は一番忙しい役回りかもしれない。
「ぐっもーにん、みすたーぞうろく。はうあーゆー?」
「ふぁいん、せんきゅー、あんどゆー?」
「あいむふぁいん。ぐっもーにん、しげのすけ!」
「ぐっもーにん。」
三郎太、重之助、蔵六は英語の練習に余念がない。
テキストは松陰の作である。
「才太先生、先生の無事を祈ってお守りを作りました。」
「そうか、かたじけない。」
そう言って、才太が頬の上気した女からお守りを受け取る。
そういう才太も顔は真っ赤だ。
明らかに雰囲気の違う一画である。
と言っても、見送りに来た皆からは見えない場所で、であるが。
「先生、加代は、先生の事を」「待て! 皆まで言うな!」
才太が加代の言葉を遮った。
「そなたの気持ちは嬉しいが、今の俺では応えられぬ。部屋住みでしかないこの俺ではな。この旅で、何が変わるかは分からぬ。分からぬが、何かが変わりそうな気もするのだ。どうかそれまで待って欲しい。」
才太にそう言われ、加代も引き下がる。
「先生がそう仰るなら……。」
「すまん。」
隠れて一部始終を見守っていた松陰とお菊、亦介は、互いの顔を見合わせ、溜息をついた。
「どう思います?」
「才太様は本気にしとるみたいやけど、あの女、恋に恋しとるだけに見えるんやけど……。」
「あの娘は才太には荷が重いでござる!」
お菊、亦介が自分の見立てを語った。
松陰も同意である。
「才太殿が旅立ったら、直ぐにでも他の男を見つける感じですよね……。」
「そうやね……。」
「弄ばれているでござるよ。」
才太が戦見学計画に気づきもしなかった理由、それがこれである。
しかし、どうやら、見込みは薄いらしい。
いや、それどころか、大変な心の傷を負いそうである。
「それでは父上、母上、寿、艶、一貫斎殿、嘉蔵さん、熊吉さん、岩倉卿、生憎千代とスズはいないけれども、行って参ります。」
「私は二人の志を大切にするよ。」「無茶をさせるんじゃありませんよ。」「にーに。」「ばぶー」「「いってらっしゃい」」
舟の前で、皆が見送ってくれた。
因みに、艶は今年生まれた杉家の三女である。
既に5人の子持ちの百合之助。史実では、艶は僅か2歳にして早世してしまう。その後2人生まれるのであるが、流石である。
それはそれとして、松陰は百合之助と滝の言葉を不思議に思った。
松陰と梅太郎に言っている風ではない。
まるで……。
こうして、杉家の皆に別れを告げ、舟に乗り込む一行。
乗る船は直に接岸できないので、小舟で移動するのだ。
海舟らは、昨日既に旅立っている。
一足先に街道を西へ行き、青海島で待つ計画である。
萩の港で共に乗り込めば、目立つだろうという事で、別行動にしている。
顔を知られているとは思わないが、仮にも幕府側の人間である海舟らと、萩から同船するのは良くないだろうと思っての処置である。
江向では同居していたが、それはそれ、これはこれである。
親試での松陰の言葉は、既に萩中に知れ渡っていた。
密航が幕府に知れれば死罪。
それがわかっていながら、この国の為、迫る脅威を確かめようという松陰の心意気に皆感動し、騒ぎすぎるのは良くないと考え、心中で喝采して松陰を見送った。
詰め掛けた観衆に遠巻きに見守られながら、松陰らは沖の船に乗り込む。
平蔵らが棹を器用に操り、船が動き出す。
水や食料、荷物は前もって積み込んである。
動き出した船は、暫くすると畳んでいた帆を広げ、風を一杯に孕み、瞬く間に沖へと走り去っていく。
観衆は、西に進む船が指月山に隠れるまで一言も発する事無く、ただ見守っていた。
「うーむ、今日は波も無い、航海にはうってつけの日でござるな! どうかこの日が続いて下され! 香霊様! お頼み申す!
この亦介、一生のお願いでござる!」
「彦根行きも江戸行きも、有り得ないくらいの日和だったが、普通あり得ねーからな。」
亦介が天を仰ぎ、祈りを捧げた。
平蔵がそれに釘を刺す。
前回の彦根行きと違い、海は大変穏やかで、船は滑る様に海上を進んでいく。
順調に海路を進み、すぐに青海島まで辿り着いた。
青海島は日本海に突き出た島である。
萩から西に20キロメートル程しか離れていない。
島の付け根には仙崎の町があり、漁が盛んで船も多い。
海舟らはここで小舟を借り受け、青海島の東に浮かぶ大島沖で合流する手筈となっているのだ。
舟に掛けてもらっている目印の旗を見つけ、船足を落とし、近づく。
余り近寄っては危険なので、程ほどの位置で錨を下ろし、小舟の方から近寄ってもらった。
「皆さん、お待たせしました。」
松陰が小舟の皆に声を掛ける。
平蔵らが小舟を固定し、乗り移れる様にする。
「なあ松陰さん、俺達を恨まねぇでくれな。」
松陰らの船に乗り移りながら、海舟が松陰に謝った。
皆の顔も、何やら笑いを堪えている様な、そんな風だ。
「何をでございますか?」
意味が分からず問い返す松陰。
「いや、まあ、その、なんだ……。これなんだがよ。」
と言って、何を思ったか海舟が横へずれ、後ろに隠してあった者を松陰の前に晒した。
目を丸くして見つめる松陰。呆気に取られて声も出ない。
松陰が驚いたそれは、
「えへへ、来ちゃった。」「申し訳ありません、お兄様。」
と言って、にこやかな笑みを浮かべる千代とスズであった。
時は少し遡る。
「そろそろですかなぁ。」
「だろうな。」
海舟が呟き、忠震が応える。
ここは仙崎。
松陰らの船を待つ一行が留まっている場所である。
「いやぁー、ワクワクするっぺなぁ!」
「ワクワクって、その顔で言うのは止めて頂きたい!」
童心に返った様にはしゃぐ東湖に、たしなめる忠寛。
「狼煙があがったばい! 流石一貫斎殿の作った望遠鏡。よう見えるばい!」
儀右衛門が告げた。
手にしているのは一貫斎謹製の望遠鏡である。
「どれ。ほう、よく見えるものだ。確かに狼煙が見えるな。」
望遠鏡を譲り受けた弥九郎が呟いた。
松陰らの出発に合わせ、狼煙を上げる手筈になっていたのである。
それを確認した一行は、手配した漁師に舟を出してもらう。
と、そこに、
「お侍様! どうぞ私達もその舟にお乗せ下さいまし!」
「下さいまし!」
風呂敷包を背負い、息せき切って駆けつける、千代とスズがいた。
「成程。」
松陰は天を仰いだ。
百合之助、滝の言葉を理解したからである。
「二人の志を大切にする」「無理をさせるんじゃない」つまり、百合之助も滝も千代とスズの企みを知っており、許した、という事だ。
信じられない思いの松陰だが、そうとしか考えられない。
それに、と松陰は思う。
まるで史実の吉田松陰と金子重之助だな、と。
ペリーの来航を聞き及び、アメリカを一目見ようと密航を企て、乗船を許されず、落胆して自首した二人である。
今、二人の乗船を認めなければ、自首はしなくても、落胆するのは確実だろう。
ここまでして同行を願った二人の思いを無駄にはしたくない。
たとえ、戦を見に行くという危険を冒す旅だとしても。
「いやぁ、二人の必死な様子を見ちまったらさ、我らとて断るに断れねぇでなぁ。やはりここは松陰さんに判断してもらおうと思ってよ。悪いんだが、連れてきちまったという訳だ。」
大して悪びれた風でもなく、それどころか笑顔で海舟が口にする。
その他の面々も同じである。
「ここで反対されれば私達も諦めます。でも、どうしてもご一緒したいのです!!」
「必ず言う事聞くから、お願い!!」
二人の必死な言葉に、これも運命か、と松陰は思った。
「決して危ない真似はしない事、船の上では平蔵さんの指示に従う事、皆を困らせない事、いいね?」
それを聞いた二人は目を輝かせ、抱き合って喜んだ。
見守る大人達も笑顔で見つめる。
怪我一つさせない! と心に誓ったのは、松陰一人だけではあるまい。
そして、船は一路中国を目指し、進む。
まずは朝鮮半島を目指して北西に進み、対馬を越え、済州島を抜け、西へと向かう計画だ。
済州島から西を目指して進めば、中国に到着するはず。
そしてそのまま沿岸部を南下するのだ。
史実では、1841年5月の時点では、広東州を攻める段階なので、南下し続ければイギリス艦隊と出会うだろう。
GPSもエンジンも無い、風任せの旅では、細かい計画など立てるだけ無駄なのだ。
そして、順調に航海を続け、済州島で苦心惨憺水と食料を補給し、いざ中国、と思っていたら、突然の嵐に襲われ、遭難した。
苦労惨憺を苦心惨憺に修正しました。




