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幕末香霊伝 吉田松陰の日本維新  作者: ロロサエ
アヘン戦争勃発編
56/239

江戸への召喚

江戸より届いた便りにより、百合之助、松陰親子の姿は船上にあった。

 藩主敬親直々の命により、江戸の長州藩邸にて、”えひめアイ”、紙芝居の説明をする事になったのだ。

 納豆菌、乳酸菌、酵母菌、麹菌それぞれの培養液と、”えひめアイ”、一貫斎作の噴霧器、紙芝居一式とその他を携え、江戸への道を急ぐ。

 

 残暑の残る今の時期、発酵が進みすぎるのではないかと、松陰の脳裏には不安がよぎる。

 冷蔵庫といった気の利いた物があるはずもない。

 飛行機でひとっ飛び! 新幹線でスーイスイ、な旅も不可能だ。

 流れ落ちる汗を拭い、船が進んでいくのを横目に、藩主の前での説明に支障が無い様、百合之助の練習に付き合った。

 説明の資料は松陰の作である。

 内容の把握と、進め方を百合之助と確認する。

   

 しかし、惜しむらくは顕微鏡が無い事であろうか。

 残念ながら、顕微鏡の完成は間に合っていない。

 一貫斎の、非常に申し訳なさそうな顔に見送られ、松陰らは海へ出た。

 

 本来であれば才太が同行、松陰の行動の監視をしているはずなのだが、穢多の集落に通って頬が緩み気味の才太は、この事態を何故かスルーし、「達者でな」と声を掛けるのみであった。

 出張講師に加え、千代、梅太郎との合作に、最近は熱が篭っていたのだ。

 史実の井伊直弼は、能面を彫り、狂言「鬼ヶ宿」も書き上げるなど、マルチな才能を発揮した人物である。

 茶道における有名な言葉「一期一会」は、井伊直弼の茶道に関する著書で述べられた言葉だったりする。


 そしてその才能を活かし、紙芝居の演出にまで凝り始めたのだ。

 一人では演出に限りがある紙芝居も、もう一人話者を追加するだけで、随分と深みのある演出が可能となった。

 また、千代と協力し、紙芝居の原作をも作ってゆく。

 

 実直で、冗談の一つも言えない様な、むしろ始終顰め面をしている風な男でありながら、その裏では滑稽で軽妙洒脱な狂言を考え出していると知り、千代は才太を見直した。

 松陰の事は尊敬していたが、怖がりで気が小さい梅太郎の事は、やや軽蔑していた千代である。

 彦根から帰って来た松陰に、何故だかくっついて来た才太の事は、やって来た時より警戒していたのだ。

 才太の松陰を見る目に、敵意の様な、鋭いものを感じたからである。

 以降、才太の動向に注目していたのだが、それも最近は印象が変わってきた。

 随分と楽しそうな風に見えたのだ。

 さすが松お兄様。自分を敵視する相手すら、取り込んでしまわれるのですね!

 と、千代は一人合点する。

  

 千代にそう思われているとも知らず、才太は、本来の自分の目的を忘れ、長州藩での生活を楽しんでいた。

  



 さて、旅の一行である。

 遭難などの危険に遭わず、安全確実であり、かかる日数も分かるのは陸路であるが、彼らが手にしているのは生き物である微生物なのだ。

 出来るだけ早く持っていかないと、肝心要の効果を発揮出来ない可能性が高い。

 安全である陸路は断念し、危険であるが海路を進む決心をした。

 松陰は急遽平蔵に頼み、例の集団に航海の予行演習を頼んだ。

 「よっしゃ! 任せとけ!」の力強い返事で、平蔵は引き受けてくれたのだった。

 海路を行く事が決まり、亦介は逃げた。それはもう、素早い逃げであった。

 余りに見事な逃げっぷりに松陰も思わず苦笑し、でも次は逃がさないですけどね、と走り去る亦介の後姿に言う。

  

 三郎太、重之助は今回はお留守番である。

 イギリス人との交渉を見据え、松陰お手製の本で英語の勉強中なのだ。

 成績が悪ければ同行は不許可とあって、二人は頑張っている。




 船は萩から西へ向かい、南下し、馬関(現在の下関)を通り、瀬戸内を大阪に向かう。

 大阪で太平洋航路に詳しい船頭を雇い、鳴門から太平洋に抜け、一路東へ、江戸を目指す。

 船には水や食料を積んでいるので、寄り道など一切しない、強行軍である。

 水平線まで遮る物は何も無い、ただ雄大な海原を進む。

 満天の星空の下、用意したゴザにくるまり、夜の寒さを防ぐ。北極星を頼りに進むべき方向を定め、ただ進む。

 陸地から離れすぎれば行き先を見失い、漂流するだけだ。昼間は陸に近づき、位置を確認しながらの航海である。

 

 そして、日和にも、風にも恵まれ、大阪で雇った船頭も驚く程の速度で無事江戸へと到着した一行。

 「ありえへん……」と大阪人の船頭は呆然としていた。


 早速荷物を降ろし、長州藩上屋敷、桜田藩邸へと赴く。

 普通の藩士であれば、下屋敷麻布藩邸で草鞋を脱ぐのが常であるのだが、今回は敬親の命令でもあり、上屋敷へと向かった。

 

 江戸城桜田門の東南にある長州藩上屋敷は、現在の日比谷公園に立っている。

 船着場より脇目も振らず向かう。 


 屋敷の門番に名を告げ、到着を知らせる。

 松陰らの、余りに早い到着に応対した者も吃驚していたが、すぐに敬親へ取り次いでくれた。

 敬親への謁見が叶うまでの間、百合之助と松陰は急ぎ裃へと着替えた。

 正装し、敬親の到着を待つ。


 ややあって敬親がやって来る。

 平伏している二人には分からない事であったが、敬親の顔には焦りがあった。

 余りに早い二人の到着に、準備が何も出来ていなかったのだ。

 少なくとも老中堀田正睦、寺社奉行阿部正弘は同席を願っているのだが、何せ二人も忙しい。

 急ぎ使いの者を出し、先方の都合をつけてもらう事にした。

 何にせよ、今日のうちには不可能だろう。

  

 「苦しゅうない、面を上げよ。」


 内心の焦りを押し隠し、敬親は二人に告げた。

 本来であれば藩主が直接声を掛ける事はない。

 小姓が間に立ち、会話を取り持つのだが、正式な作法では会話も迂遠で時間が掛かりすぎるので、以下省略して要点だけで進める。


 「しかし、随分と早かったな。儂は、まだ先の事だと思っていたぞ。」


 敬親は、「早すぎるだろ!」の一言を我慢する。

 一刻も早くと思っての事だと分かるからだ。

 ただ、「こちらにも準備が……」と愚痴りたいだけである。


 「上様におかれましては」「そういうのは構わん。」


 時候の挨拶すら許さぬとは、万事徹底している敬親である。


 「早速本題じゃ。”えひめアイ”の説明を聞きたいと願う者が、儂の他にもいる。今日程の確認をとっておるが、少なくとも後2名は参加するじゃろう。場所もその時わかるだろうが、恐らくここではない別の場所じゃろうと思う。構わぬか?」


 敬親の問いを受け、百合之助は間髪無く答える。


 「問題のあろうはずがございませぬ。不肖、この杉百合之助、上様のご期待に叶う様、全力を尽くす所存にございます。」

 「では、追って沙汰を待て。」

 「は、ははぁぁ。」 


 松陰と二人、平伏する。

 

 「よし、本題は終わりじゃ。して、そちが杉の倅、吉田松陰か?」


 敬親はそう言って、松陰に視線を移した。

 松陰は平伏から直り、敬親を見つめ、答えた。


 「はい。私が吉田松陰でございます。」

 

 敬親の前には、報告書から浮かび上がる人物像とは全く異なり、どこからどう見ても子供にしか見えない、一人の少年がいた。

 目を逸らさず敬親を見つめるその眼差しは、意志の強さを感じさせた。

 そして何やら、先ほどから漂う、えもいわれぬ複雑な香りがしている様な……。

 気のせいか? 敬親は気を取り直し、松陰に向き合った。


 やっと会えたか! 

 敬親の正直な気持ちであった。

 この者が、ポテチや柿の種なるお菓子を考え、紙芝居を作って子らを熱中させ、”えひめアイ”なる物を作り出して素晴らしい畑を披露し、清国とイギリスの戦を予言し、あまつさえその戦の展開だけでなく、その後の我が国への影響までも見通した、その人なのか! ……いかん、感動に浸る場面ではない!

 そう思い直し、敬親は言った。

 

 「ポテチ、柿の種、紙芝居は誠見事であった! 団子岩の畑も、素晴らしい出来であったぞ!」

 

 まだまだ言いたい事はあるがな!

 思わずそう口に出してしまいそうなのを必死に押し留める。

 敬親も大変なのだ。

 余り褒めても他の者の嫉妬を煽るだけである。

 男の嫉妬は見苦しく、執念深く、かつ陰険なのだ。

 いかに素晴らしい成果を上げようと、藩主自らがみだりに褒めては、その者の将来を逆に潰すだけに終わるのである。

 何事も程ほどが肝心なのだ。


 それに、目下問題となっているのは、そんな事では済まない、大事である。

 それこそ、この国の将来に関わる事であるのだ。

 自分がそんな大変な事をしでかしたとも知らず、キリッとした顔で座る目の前の少年に、敬親も段々腹が立ってくる。

 どうして儂に一言相談せぬのだ! 

 本日が初対面の相手に、そんな益体も無い事を覚えた敬親だったが、それも無理からぬ事だろう。

 

 そんな敬親の思いに気づくはずもなく、松陰は感謝の言葉を述べる。


 「上様にその様に褒めていただき、この松陰、恐悦至極にございます。」


 通り一遍な口上の様な気がしないでもない。

 そこはかとなく気になった敬親であったが、これ以上言葉を重ねると余計な事まで口走りそうなので、止めた。

 今日の所はこれくらいだ。

 そう思い、敬親は席を立ち、平伏して見送る二人を残し、謁見の場を後にした。




 この夜、敬親は密かに百合之助を呼び、今回の経緯を全て話して聞かせた。

 百合之助は驚いて言葉を失う。

 香霊大明神なる存在からお告げを賜ったという、あの騒動からついに、その成就が成ったのだから。

 松陰の事を敬親に聞かれ、百合之助は覚悟を決め、松陰誕生から今に至る、彼の知る全てを話したのだった。


 聞かされた敬親にとっては堪ったものではないだろう。

 あれだけの事をやった人物である。

 多少他とは違った幼少期だろうと思っていたが、実際はそれ以上であったのだから。

 特に、お告げを賜ったというくだりは白眉だろう。

 普段であれば眉唾ものだが、あの松陰はこの戦を、講義の場とはいえ数ヶ月前から公言しているのだから。

 そうである以上、お告げという話は信じざるを得ない。


 しかし、と敬親は思う。

 それを幕府がどう捉えるか、である。

 人心を惑わせたという罪で、あっけなく磔にあう可能性もあるのだ。

 幕府にとっては、その予言、お告げが当たっているかは関係なく、秩序の維持に差し障りがあるのかないのかが重要なのだ。

 幕府の権威が脅かされるとなれば、少年であっても容赦は無い。

 

 従って、何かがあっては遅いのだ。

 敬親は百合之助の覚悟を問う。 


 「老中、寺社奉行の真意は未だ掴めぬ。仮に万が一、そちの息子の粗を探す機会としての、今回の事となれば、重大じゃ。そちの息子を失うは、我が藩にとって大いなる損失。もしもの時は、わかっておろうな?」


 敬親の言葉の意味する所が理解できない百合之助ではない。

 百合之助は考える。

 今まで息子が為してきた事は、どれも立派な事であった。

 これから為そうとする事は、それ以上に大変な事だろう。

 こんな所で、それを止める訳にはいかない。

 我が藩の為、いや、この国の為、息子の歩みを邪魔してはならない。 

 何より、大切な我が子の事を、守れないでどうして親だと言えようか。


 「我が身に代えましても、必ずや、守り抜きます!」

 「その時は儂はお前を見捨てるぞ。それも藩の為、そちの息子の為じゃ、許せよ。」

 「勿体無きお言葉にございます、上様。この杉百合之助、何の不満がございましょうか。」 

 

 こうして、もしもの時は、松陰の代わりに百合之助が全てを被る段取りをつけ、会合を終えた。

 百合之助は死すら覚悟し、静かにその時を待つ。

 そして、3日後、その日を迎える。 

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