密航計画が幕府にばれてる件
才太ら一行が彦根、京を巡り、帰って来た。
牛の脂は無事交渉が成立し、対価が必要なものの、比較的安価に入手する事が可能となった。
彦根より脂が到着次第、液体石鹸の製造量を増やす計画である。
因みに、才太がいない間に、松陰とお菊の仲が進展するといった展開はない。
そして再び、騒がしくも平和な日常が戻り、日々が過ぎてゆく。
何事もなく6月を迎え、アヘン戦争勃発の報せも届かず、時を刻む。
そして、9月。
場所は変わって、江戸。
江戸城の、参内した諸侯の詰める広間は喧騒に包まれていた。
数日前、突然の参内を求められた江戸詰めの諸侯は、何事かと思いながら江戸城に入り、沙汰を待った。
そこで知らされた、長崎からの、清国とイギリスとの戦の報である。
お隣の大国清と、遠い異国のイギリスとの間に起きた戦は、太平の世にはあっても、諸侯を騒がせる大事件であった。
昨今、イギリスやアメリカといった国の船が、日本との通商を求めて長崎に入港したり、漂流民を連れて無理矢理上陸したりしていた。
海岸線が領地にある諸侯には、この戦は他人事ではない。
尤も、意見の大半は、清国が負けるはずがない、イギリスの敗北に終わるだろう、であったのだが……。
そんな諸侯の中にあって、長州藩主毛利敬親はまさか、と思い、何も考えられずにいた。
何故なら、長州藩から届けられる定期報告によって、松陰が明倫館で行っていた講義の内容、つまりアヘン戦争の勃発と、清国の惨敗という予測を知っていたからである。
そして、松陰の予測通り、戦が始まったのだ。
これを驚かずに居られようか。
団子岩の畑を抜き打ちで視察して以降、吉田松陰なる少年に興味を持っていた敬親は、若干10歳で明倫館の教壇に立った松陰の講義にも当然関心を持ち、その内容を江戸まで家臣に報告させていたのだ。
その講義の中のアヘン戦争勃発の予言、いや予測である。
敬親は、初めてその講義の内容の報告を受けた際、顔がにやけたものである。
年若い、少年と呼ぶべき成り立て師範が、年上の受講生に侮られない様にと、虚仮威しに似た、精一杯に過激な事を口走った、そんな光景がありありと目に浮かんだからだ。
教壇の上で緊張の余り体をガチガチに固まらせ、聞く者の興味を引こうと、その日の為に一生懸命考えたであろう、長州藩に迫る危機に関する自説を、途切れ途切れ訴える、あどけなさの残った少年の姿がまぶたに浮かび、寧ろ微笑ましい。そんな感想を持ったのだ。
講義の中の、”かれい大明神”なる神様には見当もつかなかったが、それとて緊張の余りに訳の分からない事を叫んでしまったのだろうと解釈し、尚更にんまりとした。
しかし、徐々にそんな印象は変わってゆく。
基本は山鹿流兵学の講義であるのだが、極偶にではあるが、松陰の自説が展開される事があり、その内容が目を引いたのだ。
青臭い正義論を吐き、危機意識に過剰反応し、突飛な発想を持った、行動力のある少年だと思っていた松陰が、老練した意見をも持つ者だと感じ始めていた。
その頃から、清国とイギリスとの戦の予測も、本当に起こるのでは? と思う様になっていたのである。
それが実際となったのだ。
敬親が受けた衝撃は当然であろう。
なんと、本当に当てるとは……。
それが率直な思いであった。
ならば、松陰の予測通りに、清国の惨敗で終わるのか……。
敬親はそれに恐怖を感じた。
歴史ある大国インドをその手中に収め、歴代王朝が興った中華の大国清に勝ったイギリスが、では、その後は? と考えれば、当然朝鮮、そして我が国にやって来る事は明白であると思われた。
武力でもって開国を迫られ、拒否する事が出来るのか?
敬親は今すぐ松陰に面会し、その考えを問いたいと願った。
しかし今は江戸に留まらねばならない。
松陰を江戸に呼ぶべきか?
敬親がそう悩んでいると、後ろから、囁く様な声で声を掛けられた。
「毛利殿、振り返らずに、お聞き下され。理由は聞かず、私について来て欲しい。」
敬親が何かを思う頃には、その人物は既に追い抜き、後ろ姿を見せるのみである。
その後ろ姿から、老中堀田正睦である事がわかった。
正睦は、敬親の様子も気にせず、スタスタと歩いてゆく。
敬親は頭に疑問符を浮かべながらも、後に続いた。
そんな二人の様子を、興味深げに見つめる視線には気づかないまま。
佐倉藩主である堀田正睦は、”蘭癖”とも称される程の西洋通である。
史実では、日本初の私立病院順天堂を開いたり、日米修好通商条約締結の為奔走するも、朝廷からの勅許を得られず、職を罷免される、不運な人であったりする。
二人は諸大名の詰める広間を抜け、廊下を渡り、城の一室へと入る。
正睦が着座を促し、そこでようやく、正睦は敬親に向き合った。
「この様な形でお呼び立てして申し訳ない。諸侯に聞かれてはまずいので、こちらに来て頂いた次第です。人払いは済ませてありますので、ご心配なく。」
まずは正睦が非礼を詫びた。
しかし、居並ぶ諸侯に聞かれてはまずい事とは一体?
人払いまでして話す事とは?
敬親の疑問は益々膨らむ。
「いえ、それは構いませぬが、用件は一体何でしょう?」
敬親の問いへの答えは、意外なものであった。
「毛利殿は、貴藩の藩士である、吉田松陰という者の事はご存知ですか?」
「え?!」
敬親は思わず吃驚して腰を浮かせかけた。
正睦に声を掛けられた時、敬親が考えていたのが、まさにその吉田松陰であったからだ。
そしてその松陰の名を、老中である正睦が口にしたのが尚更驚きであった。
「勿論知っておりますが、どうして堀田殿が、我が藩の吉田松陰の事をご存知なのです?」
敬親の問いに、正睦は暫し口を閉ざしたが、決心したのか、口を開いた。
しかし、それは全く別の事である。
「毛利殿は、此度の、清国とイギリスとの戦の報に対し、驚きは感じておられなかった様に見えました。まるで、前もって知っていたとでもいうかの様に。むしろ、本当に起こったのか、とでもいう風でした。そして、戦の結果と、その後展開される事態の推移に、恐怖を感じておられた様に見えました。」
正睦の言葉に、思わずはっとする敬親。
正睦の指摘が図星であったからだが、何よりも、正睦があの報告の場で、自分の様子に注目していた、その意図に思い至ったからである。
「もしかして、堀田殿もご存知だった? だから、吉田の名を出された?」
敬親の問いに、やっぱりか、といった表情を浮かべ、ならば、とでも言うかの様に、正睦は語り出す。
「実は……」
昨年、寺社奉行の阿部正弘より内々に報告があり、来年であるこの年、清国とイギリスとの戦を予言する者がおるとの事。
その言、誠に明快で、予言を得たという者にありがちな曖昧さは皆無。説明は至極平易で、誰が聞いても納得の物であったとの事。
しかも、その戦の展開まで予言し、清国の敗北どころか、その後に結ばれる条約の内容、我が国への影響まで語ってあり、とても捨て置ける物ではないとの事。
それに加えその者は、あろう事かその戦を、豪胆にも見物に出かけ、西洋の力をその目で、しっかりと確かめて来ようと画策しているらしい、との事。
阿部の献策によれば、密かにその者を江戸に呼び、真意を確かめ、場合によっては手を回し、協力すべき、との事。
密かにとは、幕府内には国法である鎖国を、絶対に死守すべきと考える者も多い為で、手を回すといっても、その計画を見て見ぬ振りをする程度である事。
そして、その者こそが、長州藩士吉田松陰である事を語った。
蛇足ながらここで付け加えておけば、寺社奉行阿部正弘は備後福山藩主であり、将来を嘱望される若手の幕閣で、下級の旗本の意見をも尊重し、有能な者は積極的に登用までする、当代きってのエリートである。
交友関係も広く、伊豆韮山代官江川太郎左衛門英龍、砲術家の高島秋帆など幅広い。正弘に登用された人材としては、大政奉還を唱えた大久保忠寛、江戸城を無血開城に導いた勝海舟、日米修好通商条約を無断で調印した岩瀬忠震らがいる。
正睦の言葉の途中から、敬親は冷や汗が止まらなかった。
密航は死刑の時代であり、松陰がその様な大それた事を考えていたとは全く知らなかったし、もしそれが露見すれば、藩としても何らかの処分は免れ得ないからだ。
そんな敬親を安心させる様に正睦は告げる。
「心配しないで頂きたいが、これは密偵を放って調べた事ではございませんぞ。偶々吉田松陰と胸襟を開いて語り合った者が、内密に阿部に伝えた事により、私が知っただけですから。他の者は誰も知りません。」
一応安心した敬親である。
それに、正睦はこうして、敬親に内密に話してくれている訳であるし、罪を問おうというのではないらしい。
寧ろ後押ししている? と敬親は考えた。
しかし、幾分気分を害されてもいた。
藩主である自分を差し置いて、その様な心躍る計画を企んでいたとは、全く心外もいいところであったのだ。
ポテチといい、柿の種といい、紙芝居といい、えひめアイといい、
そしてこの、国法を犯してまでの外国への戦見物計画といい、吉田松陰なる少年の考える、まるで想像のつかない破天荒ぶりに、敬親は立場を忘れ、興奮したのだ。
一枚噛ませろ! と思わず思ってしまったのだ。
そうせい候と呼ばれた所以である、「うん、そうせい。」と、松陰に言いたいではないか!
それを、そんな事を、よりにもよって老中から聞かされる儂の身にもなってみろ! と、まだ見ぬ松陰に言いたくなった敬親である。
しかし、内心の憤りは置いておき、冷静を装って正睦に尋ねた。
「堀田殿はどうしてそれを私に? 老中である堀田殿の言葉とは思えませんが?」
ここで本音を漏らし、それを咎められでもしたら敬親の政治生命は終わりである。
正睦の計略かもしれない。未だその疑いは残っている。
軽々しく本音を晒して、藩主など務まらないのだ。
そんな敬親の胸中に気づいていないのか、正睦は敬親も驚く事を口にする。
「私は、この吉田松陰なる者が羨ましいのです! 私も、是非同行したいくらいなのです!」
流石、”蘭癖”と称される程西洋通の正睦である。
「いやいや、堀田殿。その発言はいかがなものです? 国禁を犯そうなどと、冗談では済まされませぬぞ?」
敬親としても、正睦の真意が分からず、その発言をたしなめる事しか出来ない。
しかし正睦は、更に驚く事を述べる。
「その様な、形式ばった事を仰る必要はありませんよ。この事は、寺社奉行と私しか預かり知らぬ事でありますれば。吉田松陰なる者の予測を前もって知っており、それを咎めていない時点で、毛利殿の意は測れます。真にこの国の将来を考えれば、この吉田を呼び寄せ真意を問いただし、私心なき行いであるとわかれば、計画の成功へ協力すべきであると考えます。」
そう言って敬親を見つめる正睦の目に、いかなる企みも隠されている様には見えなかった。
幕政を与る者として、いや、この国の将来を任された者として、真摯に事態と向き合う、誠実な為政者の姿があった。
敬親も、この戦への危機感は他の藩主の比ではない。
清国がイギリスの影響下に収まり、次なる標的を我が国に定めれば、まず真っ先にその矛先となるのが、西南諸藩の一つである長州藩であるからだ。
遠い異国のイギリスの力が、一体いかなるものなのか? それは是非とも確認すべき事である。
オランダが提出する報告書では不十分である。
他者の思惑も含まれるからだ。
古来よりの言葉、百聞は一見にしかず、はいつの時代も真理である。
敬親は、正睦の意を受け取りながらも、次のように提案する。
「こうしては如何ですかな? 吉田を直接呼ぶのではなく、かの者の父である、杉百合之助を江戸に呼ぶのです。杉は、我が藩で新たに始めた藩営の畑の責任者なのですが、そこで使う予定の”えひめアイ”を、この江戸で披露させましょう。吉田を直接呼べば、何事かと疑念を持つ者も出るやもしれません。その点、杉ならば、疑念の目も誤魔化せるでございましょう。」
あくまで、藩への影響を最小限に抑えようとしての提案である。
もし松陰に好奇心でも持たれて、調べられでもしたら危険であるからだ。
明倫館では好き放題に講義を続けている様子でもあるし、どこから情報が漏れるかわかったものではない。
一応、国禁を犯すなどとは、講義でも、公衆の面前でも放言はしていない様だが、それとて油断は出来ない。
敬親はそう判断し、早急に松陰と接見しようと決心した。
「成程、それは良い考えですな。しかし、その”えひめあい”とは、一体いかなる物なのですか?」
「それはですな。……その前に、堀田殿は微生物という物はご存知ですかな?」
「びせいぶつ、ですか? はて……。」
「実はですな、この世界には、目には見えぬが存在している…………」
以下、得意になって”えひめアイ”について語る、敬親の姿があった。
そして、松陰の江戸召喚が決まる。
6月2日、修正しました。
交友関係も広く、伊豆韮山代官江川太郎左衛門英龍、砲術家の高島秋帆など幅広い。
に付け加え、
正弘に登用された人材としては、大政奉還を唱えた大久保忠寛、江戸城を無血開城に導いた勝海舟、日米修好通商条約を無断で調印した岩瀬忠震らがいる。
を足しています。
正弘さんの交友関係が二人って、どこが幅広いんじゃー、と。




